君を待ってる
15



 検査結果が出てしまってから、日本を発ちたかったが、そこまで滞在を引き延ばすのは無理のようだった。社長からのメールにあったように、日本支社でも作ればよいのだがと唇を噛みながら、光子郎はアメリカへ戻るための荷造りをしていた。
 たとえ、デスクワークを幾らこなしたとしても、それだけでは出来ないこともあった。直接人と対面することは、この時代だからこそ、重視される。自分でなくば無理な商談や交渉事が幾つも向こうで待っていた。
 太一は所在なげに光子郎の部屋とキッチンとの間を行き来していた。太一が話しかけると、光子郎は顔を上げて笑いかけるが、太一はその笑みに言い出しかけた言葉を引っ込めて、口中でもごもご言いながら、またキッチンへ引っ込んでしまうのだ。
 夕食が出来上がっていることは分かったが、それを言いたいようではなさそうだった。
「どうかしたんですか?」
 太一が五回目に、顔を見せたとき、笑みを見せる前に光子郎は訊ねた。
「飯」
 太一は一言言って、ようやく心が決まったとでも言うように、ぼそぼそと続けた。
「なあ、明日から行くんだよな」
「ええ。すみません」
 太一は何気ないように言った。
「じゃあ、俺帰った方がいいだろ」
 呆気にとられて、光子郎は太一の顔を見上げた。
「どうしてですか」
「ここ、お前の家だし」
 太一は壁にもたれかかって、足をぶらつかせている。昔、よくこんな仕草を見た。あの頃の太一の翳りは、小さいものだった。
「――ここを出て、太一さんはどこへ行くんですか?」
 光子郎は鞄の蓋を閉めて、立ち上がった。
「……実家とか」
「嘘をつかないでください」
 太一の前に立つと、光子郎は眉を寄せた。
「本当だって」
「僕は毎日、電話しますよ」
 太一は困ったように目を伏せた。
「そんなことしなくても、結果はちゃんと教えるよ」
「そういうことじゃありません」
 光子郎は腕組みして、太一の顔をじっと見つめた。太一は顔を上げない。
「……この家にいるのが嫌ですか?」
「迷惑ばっかりかけたから、もういい加減出ていかないと」
 心の底から出た言葉だったら、出ていかせただろうか。いいや、そんなことはさせない。
 光子郎は組んでいた腕をほどいて、太一から離れた。
「僕は迷惑じゃありません。ここでよかったら自由に使ってください」
 太一が顔を上げる。照れたような眉の形になり、唇がほどけた。
「ありがとうな」
「……夕飯、食べましょうか」
 今日は太一が仕度するといっていた。生活を共にして、光子郎の外食の回数は減る一方だ。それが嬉しかった。料理の腕は上がるし、太一が作った物も食べられる。そして席の向かいには太一がいる。
「辛いぞ」
 太一が笑う。廊下中にカレーの匂いが立ちこめていた。材料を切って、煮るだけだから、簡単だと太一が一番よく作る料理だ。他には覚えてきたというブラジル料理。太一が味付け上手なのを光子郎は、もう知っている。
「――いいですよ」
 太一が笑うようになった。日本を発つ前に、それを見届けることが出来て、良かった。
 睡眠薬の使用量も確実に減ってきている。悪夢を見るゆえの、呻きがひどいときだけ、光子郎は太一を起こし、ふたたび寝付くまで側にいた。今では太一も、光子郎が近づいたとき、それほど身を強張らせたりはしない。
 縮んだ距離は愛おしさを呼ぶ。後ろから太一を抱きすくめたい心を抑えて、光子郎は小さくほほえんだ。


 共に暮らす太一に欲望を感じないわけではなかった。情欲を抑えるのが苦しくないだけだ。あの日の太一を見たから――欲望に蹂躙された太一の姿を見てしまったから、そうなのかもしれない。その後の太一に、激しい欲望を覚えた自分が許せないせいもある。
 太一が痛みとは違う感覚を覚えたとき、光子郎もまた怒りや悲しみとは別の欲望を覚えた。あのまま太一を自分の腕の中で、無茶苦茶にしてやりたいという心が沸き上がってきたのは否定できなかった。
 欲望を罪と思うつもりはない。本能を否定するつもりもない。ただ太一に手を伸ばしかけ、そのたびに太一の顔が浮かぶ。記憶の中にある太一の寝顔が。
 腕の中に崩れてくる太一を受け止めて支えた、あのときから、この体の重みを、自分は一生忘れないだろうと確信していた。太一の何が自分をここまで駆り立てるのか分からない。太一だから。その一言で、すべては充分だった。
 太一には何の言葉も告げてはいなかった。二人で、よくある共同生活を営んでいるだけだ。
 今の太一なら、きっと光子郎を拒まない。口づけや触れる手、想いを込めた囁きもすべて受け止めてくれる。それが信頼の証だろう。太一の想いの証ではない。つけ込むようなことはしたくなかった。
 そして、これが虚勢だということは承知している。
「――光子郎、風呂空いたぞ」
 太一がドアを開けた。椅子を回して、光子郎は太一に顔を向ける。
 太一の手には缶ビールが握られていて、光子郎は苦笑した。
「風呂で飲むのは、あまりよくないですよ」
「今、開けたんだよ」
 太一は缶を振ってみせる。たっぷりと詰まった中身が跳ねた。
「上がったら、一緒に飲もうな」
「僕は明日、早いんですよ」
 太一は気の毒そうに光子郎を見やって、ビールを美味そうに飲むと行ってしまった。夕食時に作っていた料理を摘むのだろう。
 後に残った湯の匂いに光子郎は膝の上で拳を作り、困ったように息を吐いた。
 もう少し時間が欲しかった。せめて太一が自分に触れられることに怯えなくなるくらいの時間が必要だ。
 太一がどの程度まで、記憶を残しているのか、光子郎は知らない。けれど、無意識のうちに太一の瞳に恐怖の色が浮かぶことには気づいている。まだ色褪せない太一の記憶の中の男たち、彼らと自分が重ねられていることを怒るわけではなかった。
 あんな男たちの手でも血は流れ、暖かみはあるのだから、人の体温を、太一が無意識のうちに拒否しようとしているのは分かる。
 ただ、この手で、太一の体に触れた事実を忘れていない。それが苦しかった。



 太一と飲んだ割には早くに目が覚めたので、音を立てないようにしながら、朝食の仕度をしていた。
 太一の眠りは浅い。わずかな物音でも目を覚ましてしまうので、顔を洗うにしろ、歯を磨くにしろ、そっとやっていたのだが、フライパンを出したときの戸棚の開け閉めの物音で、太一は起きてしまった。
「まだ、寝ていても」
「いい」
 光子郎に首を振って、太一は洗面所へ行ってしまった。
 光子郎が卵を二つに増やして目玉焼きを焼いていると、顎に泡をくっつけた太一が顔を覗かせた。
「間に合うのか」
「はい」
「ふうん」
 太一は顔を引っ込めて、顔を洗ってしまうと、濡れた前髪のまま、キッチンに入ってきた。
「俺、やるよ。お前、仕度してろ」
 太一はフライパンを取ろうとする。
「時間はありますから」
 やんわり断って、太一をテーブルに追いやる。出かける前にすることといえば着替えだけだ。
 太一は肩をすくめて、牛乳を冷蔵庫から取り出すと、椅子に腰掛けた。テレビのチャンネルをニュースに合わせると、グラスに口を付けた。
「こっちは晴れるけど、それじゃ意味ねえよなあ」
 太一は放送チャンネルを、世界各地の天気予報を放送しているチャンネルに変え、食事が出来上がるまで、じっと見ていた。
「ニューヨーク、曇りだってさ。雨が降るかもしれないぞ」
 昨夜のうちに見ていたとはいわず、目玉焼きを皿に盛りつけながら、光子郎はそうですかとうなずいた。
「傘は?」
「荷物の中です。それに迎えが来ますから」
「あっそ」
 焼き上がったトーストもテーブルに運ぶ。太一は気のなさそうにトーストを指に挟むと耳だけを囓った。
「……」
 太一の前に目玉焼きが乗った皿を置いても反応しない。焼いたベーコンの匂いにも、光子郎が入れたインスタントコーヒーの匂いにも、目を向けず、トーストのはしをかじっていた。やがて威勢良く息を吐くと太一は顔を上げ、向かいに座った光子郎に小さく笑みを向けた。
 何か言葉が続くかと思ったが、太一は気を取り直したように、そのまま食事を続けた。
「洗い物、俺がやるな」
 食器を片づけようとした光子郎に言い、太一は着替えてこいよと部屋を親指で指した。
「早目に出た方がいいだろ」
 せき立てられて、光子郎は苦笑に見える笑みを浮かべるのに苦労した。自分がいると、やはり気詰まりな部分があるのだろう。それを思えば、こうして距離を置くのも、ちょうどいいことかもしれない。
 服を着替えに部屋に戻り、光子郎は一度だけ、ため息をついた。
 

 ネクタイを締め終えると、背広は羽織らずに手に持って、リビングに戻った。
 太一は雑誌をめくっている。少し行儀悪い姿勢で、足をぶらつかせながら、グラビアに目を向ける太一に目を細め、光子郎は荷物を床に置いた。
 太一がこちらに顔を向けた。後ろのカーテンから透けてくる陽光が太一を照らして、その瞬間、光子郎は離れたくないという思いが体中を貫いたのを感じた。
 胸の痛みにうつむいて、微笑する。離れたくなかった。離したくもなかった。そう思ったので、家を出ることにした。
「もう、行きますね」
「……ああ」
 太一が雑誌を置くと、立ち上がった。光子郎の後に続いて、玄関までやって来る。
「太一さん」
 光子郎は靴を履きながら、自分がいない間の注意を静かに述べた。
 ジムへは、必ず送り迎えをしてもらうこと。出かける際、行き先は告げて、一人にならない。もらった抗生物質はきちんと飲むこと。こと細かに述べる光子郎に太一は声を上げて笑った。
 小さくはあったが、確かな笑い声を聞いて、光子郎は荷物を持つ代わりに、太一の手を取りたくなるのを堪えた。
「分かってるよ。ちゃんとやるから心配するなって」
 太一が壁に手を預ける。荷物を持ち上げて、光子郎は笑い返すと行ってきますとつぶやき、ドアノブに手を置いた。
 冷たい金属の扉を大きく開く前、光子郎は最後にと思い、振り返った。
 太一は壁によりかかって、光子郎を見ていた。視線が絡み、太一の目が和んだ。
「気をつけてな」
 声の響きに打たれて、ノブをつかんだまま、光子郎は唇を開いた。
 しわがれた声が出る。
「ここに帰ってきていいですか」
 太一は不思議そうに光子郎を見つめ返し、とまどうように答えた。
「ここ、お前の家だろ」
「そうじゃありません。……太一さんのところに帰ってきていいですか」
 太一が目を見開いた。怯えが込められているのは気のせいだろうか。
「何、変なこと言って――」
「僕じゃ、駄目ですか」
 太一は口をつぐみ、目を逸らした。壁に触れていた手が滑り、太一の体の横で垂れた。
「馬鹿、言うな」
 太一はごく普通の声音で言い、光子郎は震えを抑えた声で言った。
「本気です。だから……」
 今度の声は自分でも驚くほど細かった。
「太一さんも僕の所へ帰ってきてくれませんか」
 太一は目を逸らしたまま、手を震わせている。何を、そして誰と葛藤しているのだろう。
 堪えきれなかったのは光子郎の方だった。荷物が転がり、傘立てにぶつかった。
 手を伸ばせば、すぐ届く距離に太一はいた。太一の体を腕で包み、肩越しに目を閉じた。 
 力など入れない。太一の指の一押しで、光子郎の体は払いのけられる。太一にとっても、光子郎自身にとっても、これは逃げ道だ。
 太一の張りつめた体から力がぬけていく。声が聞こえた気がした。
 昔、よく聞いた太一の声。誰にも気づかれないよう、想いを込めていつも囁かれていたあの声。
 無意識に腕の力をこめ、光子郎は太一の名をささやいた。
「……」
 背中に柔らかいものが触れた。
 光子郎の背中に回した腕に力をこめる時、太一はつぶやいた。
「いいのか」
「はい」
 太一の言葉の中に響く迷い、ためらい、悲しみ、彼の心を塞がせるそれらすべてを受け入れられると思った。長い歳月の果てに、つかんだ憧れは、そんな幻を見させてくれた。



身を包む空気も、光も、まだ朝のものだった。それなのにすべてが夢だという気がする。窓から聞こえる物音もざわめきも、ベッドのきしみすら、耳に入らなかった。
 見つめるのは太一だけで良かった。初めて、その意図を持って触れる躯はしなやかに、光子郎の腕の中で柔らかくしなる。
 太一の躯の震えは、いつまで止まらない。快楽を追うよりも他人の肉体に対する恐怖を押し殺すのが精一杯のようだった。
 光子郎が止めようとすると、太一は首を振った。
「大丈夫」
 光子郎の指先に身をすくませる太一は、それを恥じるようにごめんと囁き、口づける。 
 怯えながらも、太一の舌は光子郎の躯を熱くさせ、意識を飲み込んでいった。 太一の何かを振り払うような瞳も、仕草も、光子郎の目には映らず、ただほんの一時、張りつめた瞳にやるせない思いが生まれ、消えた。
 絡む舌も、触れ合う肌も、憧れ、欲してきたものだった。すべてが腕の中にある。戯れなどでなく、本気で囁いた光子郎の言葉に、太一は何度もうなずき、涙をこぼして笑った。涙は頬に流れることなく、光子郎の唇がすべて吸い取った。
 太一の震える手が光子郎の髪を梳き、頬を挟み、背中に落ちる。ぎこちない動きの光子郎を、太一は静かに受け止めた。
 耳元でせわしくなる呼吸が、一度だけ苦痛の呻きに変わった。光子郎ははっと目を開く。汗がこぼれて、シーツにまた染みを付けた。
「太一さ……」
 かすれた光子郎の声に太一が目を開いた。寄せられていた眉の皺が少し消えて、背中にあった手に力がこもる。
「平気だ」
 不安と情欲の狭間で歪む光子郎の顔を見上げ、太一は小さく笑んだ。笑みの気配を残した唇が押し当てられ、いまなお緊張する光子郎を宥めるように開かれる。
 頬を挟んで口づけに応え、あとは想いに任せた。
 太一の声があのとき浴場で聞いた甘い響きを帯び出す。その声を耳に刻み、自身の躯に太一の肌の感触を刻んだ。
 果てた先にはもはや光しかなかった。


 太一を腕に抱いてまどろめた時間は、わずかだった。太一の息づかいがすぐ側で聞こえる。肌がぴったりと合わさっていたので、上下する胸の動きも分かった。
 腕にかかる太一の重みを離したくなかった。指先で髪をすくい、落とす。それほど長くない髪が立てる音は静かだった。横向きになった太一の額に口づける。それをきっかけにして、自分の腕をもぐようなつらさに耐えながら光子郎は起き上がった。
 太一の頭の下から、そっと腕を引き抜いて、枕に載せる。一塊りになっていた服を取って、身に付けていると太一が身動きした。寝返りのようなものだったらしく、枕から頭が落ちてしまった。
 ネクタイを締めてしまうと、光子郎はベッドに腰を下ろした。不慣れな自分のせいで、太一の体には思った以上の負担をかけたようだ。太一の寝顔には疲労の影が濃い。
 あと一分だけと、光子郎は太一の額や前髪に触れていた。
 次に会えるのは、いつだろう。一時間にも満たないとはいえ、幸福な時間を過ごした後では寂しさは大きかった。
 少し開かれていた唇に自分の唇を重ねて、額を撫でた。
 太一の瞼が動き、眠たげな瞳が覗く。
「……そろそろ行きますね」
「そっか」
 太一は起き上がろうとしたが、光子郎は首を振った。
「寝ててください。その……無理させて、すみませんでした」
 太一が微笑し、馬鹿だなとつぶやいた。軽い悪態を付く太一の目は温かかった。
 名残を惜しみ、最後の口づけを交わすと、光子郎は太一の頬に指で触れ、立ち上がった。
「怒られるか?」
 太一の言葉に光子郎も微笑した。
「怒られます」
 太一がおかしそうにまばたきして、枕に頭を載せた。
 枕元に立って、自分を優しい目で見下ろす光子郎に、太一は手を伸ばした。
「あのな」
「はい」
 手を握る。太一はためらうように、お前も検査を受けとけよと言った。
「分かってます」
 最中に、太一は降りてこようとする光子郎の唇を遠ざけ、幾つかの愛撫を拒んでいた。その理由を光子郎はすぐに悟り、危険な行為は慎んだ。自分が良くても、太一が嫌ならそれは控えるべきだった。薄い膜に遮られての行為だったが、不満は残っていない。
「たぶん、大丈夫ですよ」
 太一が呆れたような目を向けた。
「お前なあ……」
 太一は言いかけ、言葉を変えた。
「早く帰って来いよ」
 太一の手をしっかり両手で包み、光子郎は笑った。不安が、寂しさが消えていく。それに必要なのは太一の言葉と笑みだったのだ。「すぐ、帰ってきます」
 ほっとしたように太一が笑い、気をつけてなとまた繰り返した。
「行ってきます」
 太一の手をベッドに戻すと、光子郎は部屋を出た。
 ドアを閉める際、太一を見やると、太一はこちらを見て、笑っていた。部屋に入る光のせいでなく、笑顔は眩しく見えた。
 それが自分に向けられる最後の笑みだとは知らず、光子郎は笑みを返し、ゆっくり扉を閉めた。
 残ったのは幸福感だけだった。


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