君を待ってる
14



 空が淡いブルーのブラウスを着ていたので、ヤマトは唐突に以前無くしたピックのことを思い出した。
 家を出る前に見なかったかと訊いてみたが首を振られた。
「じゃあ、いいんだ」
 気にすることはない些細な事柄だったから、ヤマトもあっさり忘れようとした。
「――気をつけてな。終わったら電話しろよ」
 玄関から差し込む陽の光に目を細めていた空はうなずいた。
「分かってる」
 本当は病院まで付き添いたいが今日は無理だ。絶対に電車やバスは使うなと、ヤマトは念押しをして、空に笑われた。
「笑うなよ。だいたい、お前が……とにかくタクシーで行けよ」
 ひょっとしたら空の貧血の原因には自分が関わっているかも知れない。
 最近の空の横顔に血の気がないのは気になっていたが、朝方、彼女が倒れそうになったときはヤマトの方が青ざめていた。
 何か変、と新聞を取ってきた空は呟いて、すぐにその場に倒れ込みそうになったのだ。
 右手の近くにあったコーヒーカップをひっくり返して、ヤマトは手を伸ばし、空を支えた。
 十秒ほど、気が遠くなっていた空が最初に見たのは、自分よりもはるかに顔色の悪いヤマトだった。ヤマトを安心させようとほほえみを浮かべかけ、空は体調の変化を起こさせるにふさわしい理由に思い当たった。
 まさかと思いつつも、空が口にした言葉にヤマトは目を丸くし、頬を照れたようにゆるめた
「そうか……そうだよな」
 納得したようにうなずく彼と笑い合って、空は不思議な動悸を感じた。自分を包む空気が別の種類に変わった気がした。結果が分からない内に思いこむのは、あまりにも気が早すぎるが、可能性は低くないのだ。
「コンビニで検査薬――」
 空の言葉にヤマトはきっぱりと言った。
「貧血のこともあるし、病院に行って来い」
「だけど」
「何かあってからじゃ遅いし。な?」
「分かった……」
 空は頬を赤くしてうなずいた。
 祝い事の可能性にヤマトは早速行動を起こそうとした。
 空が仕事先に連絡を入れている間に、コーヒーの代わりとして牛乳を用意する。彼女がいる間、ヤマトは煙草を手に取らず、更にタクシーを呼ぼうとして、空に呆れ顔を浮かべさせもした。自分で呼ぶからと空が笑いながら断ったので、ヤマトは渋々、家を出た。
 最後まで気をつけるようにと念押しして、エレベータに乗る。大丈夫よと照れた笑顔を見せた空を思い出し、ヤマトもそっと笑った。
 これで、夕方までには自分が父親になるか、どうか分かるだろう。



 今日、行われるライブの準備をしていて、光子郎からの電話のことを思い出した。彼は結局、太一に会えたのだろうか。
 帰国していたことは知っていたが、太一と会っているのまでは、想像しなかった。
 ずいぶんと忙しいようだったし、日本にいるのも仕事の関係だと思っていたが、どうやら違うらしい。いや、光子郎なら、たとえ予定が詰まっていても、時間をあけて、太一に会いに行くだろう。同じ日本にいるのだから、それくらいするはずだ。
 昔からそうだった。慇懃で、苛立たしいと思うほどの丁寧な態度。いつも冷静で、成長すればするほど落ち着きと素早い判断力を備えていった。そんな光子郎が、太一を慕っているのは、自分にはないものを太一が持っているからだろうか。
 太一の馴れ馴れしすぎるときもあるくらいに親しげな態度や、落ちつきなく動き回る活発さ。太一を太一として形作った様々な部分は、光子郎にとって眩しくうつるのかもしれない。
 確かに自分にも太一が眩しく映るときがある。嫉妬ではなく、ささやかな諦めから来た苦笑を浮かべ、ヤマトは張り直した弦を、ぽんとはじいた。
「何だ、それ」
 奇妙なアドリブに誰かが笑う。自分でも吹き出しそうな妙な音を続けて出し、ヤマトは楽譜に目を落とした。ライブ前の打ち合わせ、緊張と興奮が混じるこの時間も好きだ。
 ベースで調子をとりながら、ハミングしていると誰かが囁いた。
 ――お前の歌、聴くの久しぶりだ。
 懐かしく、嬉しげにそう言った彼は別れ際、心苦しい顔を見せた。
 見たことがない顔ばかりを最近の彼は見せる。俺のことなんか知らない、と言われたのは当たっていた。
 ヤマトはネックを持つ手に力を込めた。街灯を殴りつけた傷は跡形もなく、それに伴い、あのとき感じた怒りや恐れは薄まっている。 代わって、太一のことをよく考えるようになった。唇に触れなくても太一を思い出せる。 
 出会った頃のことから共に成長し、違う道を歩き始めたと気づいたとき、そして今現在に至るまでの膨大な記憶を辿って、太一のことを考えた。
 思い出せば、すべては驚くほどはっきりしていて、あのときの空気の匂いや、太一の着ていた服の色のことも思い出せる。それはまだ、空を想う前、友人同士で騒ぐ方が楽しかった子供時代のことだ。
 機嫌が直ったかと思えば、ぼんやりするようになったヤマトを仲間達は笑ったが、やるべきことは、きちんとやっていたので、誰も邪魔はしなかった。
 この間、仕上げた曲のせいだろう。太一のことを思い出しているときに、頭の中を流れていくメロディーがあった。それをまとめて仕上げると、これはいつも皮肉らずにいられない友人が表した言葉だが、ちょっとしたいい曲になった。皆も気に入ったので、今日のライブでも演奏することになっている。
 そんなことがあったので、最近はヤマトが黙りこくっても作曲に集中していると思われているようだった。それはあながち間違いではない。太一のことを思い出していると、頭の中には、まだ形にはなっていなくても、幾つもの曲が流れていく。メロディーが、頭の中を渦巻くようにして生まれていくのだ。
 なぜだろう。感じていた恐れや怯えの先に太一がいたと知ったからかもしれない。彼がそこにいると知ったら、もう畏れることはないのだ。一緒に過ごした時間と、その間に宿った信頼がそうさせる。
 無意識のうちに唇に触れて、ヤマトは少しだけ驚いた。太一の口づけに対してのとまどいはもう消えていた。
 わざとのように無視されたことに対しても怒りはない。何か事情があったのかもと思えるほどになっていた。不思議なほど心に余裕が出来ている。
 父親になるかもしれないからだろうか。そう考えて、急に胸が重くなった。  
 子供――自分の血肉を受け継ぐ人間が誕生する。喜ばしいことだし、確かに自身も喜んでいる。では、なぜこんなに気が沈むのだろう。プレッシャーかもしれなかった。空だけではなく、もう一人、自分が責任を負い、守らなければならない人間が増えることへの戸惑い、怯え。そんなところか。
 妊娠がはっきりしたら、両親に連絡して、それから父親に訊ねてみようか。子供が産まれると知ったとき、どんな気分だったか。嬉しさや喜びの他に、何を思ったか訊ねてみれば気分も晴れるだろう。
 演奏する手を止めて、息を吐きながら椅子に座ると、ちょうどよいタイミングでコーヒーが回されはじめた。
 紙コップを受け取って熱い中身を呑む前に、ヤマトはコーヒーをくれた友人を見上げた。彼が着ているのは、目の覚めるようなブルーのTシャツ。
「――なあ、俺のピック知らないか」
「そこ」
 ふざけてるのかと、友人はヤマトが指先で持っているピックを差した。
「いや、青いやつ」
「青? ロマブで買ったやつ?」
「そう。見当たらなくてさ」
 友人は床を見渡して、またヤマトを見た。
「いつ、落としたんだよ」
「覚えてねえよ」
「じゃあ、諦めろ」
 仕方なさそうに言って、友人はヤマトの持つピックを見た。
「そっちの方が気に入ってんだろ」
「まあな」
 使い心地は、今使用している方が確かにいいが、あの青い色が、気に入っていたのだ。鮮やかなブルー。昔の太一がよく着ていた服の色と似ていた。青空の色と似てはいるが、どこか違う太一の服の色に似たピックが恋しかった。
 ヤマトはピックをはじき、テーブルの上に上手く載せた。
 青いピックを、いつ無くしたのか思い出せない。それと同時に、もっと大切なことを忘れてしまった気がして、ヤマトはつまらなげに、さきほどよりは沈んだ調子で弦をはじいた。
 光子郎は太一と会ったのだろうか。響いた音と同時に、また、そんな疑問が湧いて、ヤマトは苛立ちを感じた。静かではあったが、それは確かに胸を騒がせる。
 心を静めようとヤマトはゆっくり目を閉じた。胸に満ちた太一の面影が、広がっていく。彼が起こす波は、何よりも幸福で心地よい。
「――ヤマト!」
 不意に呼びかけられて、ヤマトは友人を睨み付けていた。邪魔をされた。彼のことを思い出していたのに。
 ぎょっとしたように友人は、ヤマトの鋭い眼差しを見返したが手にしていた携帯をヤマトに放り投げた。
「なんだよ、せっかく持ってきてやったのに」
 電話が手の中で震えている。荷物に入れっぱなしだったのだが、バイブの震えに気づいて、持ってきてくれたのだろう。あわてて、礼を言って、ヤマトは誰からか確認した。
「……」
 空からだった。診療が終わったら、電話してくれと自分から頼んでいたのだ。
 なぜか電話に出るのが恐ろしい気がしたが、ヤマトは空が切ってしまう前に電話に出た。かけ直すことをしない自分が見えたようだった。
「空?」
「うん」
「ごめん、取るの遅くて。で、どうだった」
 優しげなヤマトの声に空は静かに笑った。
「やっぱり、気が早かったみたい」
「ああ……」
 ヤマトは沈んだとも納得とも取れる、ため息をついた。
「少し過労気味だから気をつけなさいって言われちゃった」
 空が残念そうな風に言った。
「そうかもしれないな。今日は家でゆっくりしてろ」
「そうする。帰り、遅くなるんでしょう? 夕飯はいらなかったのよね」
「ああ。でも、なるべく早めに帰るよ」
 電話を切ると、ヤマトは全身の力を抜くように、大きく息を吐いた。
「どうかしたのか」
「いや、ほっとしてさ」
 言った後、ヤマトは呆然と口を押さえた。ほっとした? 何に?
 ステージに行こうと誘われても、ヤマトはまだ口を押さえたままだった。指先が自然に、太一の触れた箇所を辿る。今度は、鋭い痛みがヤマトの胸に残った。



 ライブの成功に浮かれて、皆騒いでいた。一緒にいたファンの女性と消えた者もいるが、大半が飲む方に夢中だ。いつもなら騒いでいても、途中からは仲間をなだめる役を引き受けるヤマトでさえ止めもせず、逆に自分からベースを弾き出す始末だった。酔いの勢いで、何をしても全員が笑い、テーブルを狂ったように叩いて、次の芸を求める。呆れた店主に追い出されても気にしないで、次の店に移動した。
 二次会、三次会だと店を変えるたびに、一緒に飲んでいた友人が増えて、減って、また増えた。ついには道端で演奏をし始める者も出始めて、即興のライブに繁華街に来ていた酔客達も喝采を浴びせかけてくれた。巡回していた警察官二人に苦笑いで追い払われるまで、好き勝手な演奏をして、また適当な店で仕切り直した。
 そうして、下手くそなピアノの音に我に返れば、薄暗い照明と色あせた造花が飾られた店で飲んでいた。
 周りで沈んでいるのは見慣れた顔ばかりだ。アルコールでぼやけた記憶の中、この一つ前の店で、途中で見つけた友人達と別れたのだということを思い出した。同じくバンドを組んで、ライブを行った帰りの男たちらしかったが、やけに気があった。十人以上になって、場所を変え、店を変え、さんざん飲んで騒いだのだ。
 薄くなった水割りを飲んで、ヤマトは店をゆっくり見渡した。場末のどうしようもない店ならば、とんでもない額を請求される可能性があるが、そんな店ではないようだった。 
 カウンターで気のなさそうに客の相手をしている女性が主人らしい。ぼそぼそとした話し声と調子の外れたピアノ。それが店の中で聞こえる音だった。ヤマトは少し頭をはっきりさせようと頭を振って、水を一杯頼もうとした。
 ヤマトは店の奥、小さなドアの側にあるテーブル席に座っていたが、声を出そうとしたちょうどその時、水音がしてドアが開いた。
 立て付けの悪いドアらしく、手洗いから出てきた男は舌打ちをしながら、乱暴にドアを閉める。パチンと軽い音が足下から聞こえた。 ヤマトは音がした方に視線を向けた。テーブルの下は安っぽい絨毯が破れていて、床がのぞく。男の足が見えなくなる頃、ヤマトは床に転がったものを見つけた。
(何だ)
 拾い上げて、ヤマトは笑みをこぼした。こんなとこに落ちていたのだ。まだ残っている酔いのせいか、素直に喜べた。
 太一の服と同じ色をしたピック。見つけたそれを嬉しい気持ちで胸ポケットに戻しかけ、ヤマトは指先を止めた。
 耳の間を甲高い音がすり抜けていく。無くしたピックが、どうして今日初めて訪れた店で音を立てて見つかるのだろう。
 奇妙な予感に誘われて、ヤマトは視線をめぐらせた。
 カウンターに店のママを口説く五十代ほどの男性がいる。くたびれた背広と合わないズボンを履いた男がピアノを演奏している。
 そして、ヤマトのいるテーブルから一つ開けた席に三人で座っている男たち。細身の男と、大柄な男、それにさきほど手洗いから出てきた男だ。ヤマトはふらつく意識の中で、彼らがあの夜太一を囲んで、去っていた男たちであることに気づいた。
 心の底が騒ぎ出し、警鐘を鳴らす。彼らは太一が側にいたときと違い、笑みは浮かべていなかった。苛立ちを露わにして、何事かを話す男たちの様子は荒んでいる。
 ヤマトは水割りを一杯注文した。酒を飲みながら、あの下手なピアノを聴いている振りをする。男たちの視線が向かないのを確認して、そちらに目をやった。
 ヤマトへ向けて正面顔を見せているのが二人、後の一人は横顔が見える。皆、あからさまに不機嫌そうな顔で、眉を寄せていた。声は聞こえるのだが、ピアノのせいで会話の内容までは分からない。細身の男が耳元のピアスを揺らしながら、細長い紙包みを取り出した。
 空気が替わって、男たち二人がにやにやと笑みを漏らす。一人は仕方なしにといった風に手に取った。
 薄暗い照明の下でよく分からなかったが、男たちが見ているのは写真らしかった。それぞれが手にとって、指差しながら笑っている。なぜか不愉快になる笑い声だった。これに比べれば、流れている演奏は素晴らしいと言える。
 肌を逆立てるような笑い声の中の一言が、ピアノの音を貫いて、ヤマトの耳に届いた。
「八神」
 そんな声が届いて、ヤマトは水割りの入ったグラスを落としそうになった。
 耳をそばだて、意識を向ける。もう一度、聞こえた。
「八神は――」
 笑い声が高くなり、低くなった。
 太一に会いに行ったときに見かけた男たちが太一の名字を口にし、笑っている。八神という名字、珍しすぎる訳ではないが、ありふれているというものでもない。そして彼らの内の一人は自分のピックを持っていた。
 ヤマトはピックをそっと取り出し、もう一度確かめた。
 これは自分のものだ。細かく走る傷に見覚えがある。では、どうして彼らが。  
 笑い声が、また響く。耳障りな声にヤマトはさり気なく立ち上がって、カウンターまで歩いた。男たちが素早く写真を手元に引き寄せた。声は殺して、顔だけで笑い、囁き合っている。その辺りには黒い悪意をからめた空気が満ちているようだった。
 ヤマトは足下に何かが引っかかった風を装って、男たちの顔を確認した。
 間違いなかった。太一と共にいた男たちだ。
 カウンターまで行って、下手に染めた茶髪をせわしなく掻き上げる店主に向かって言った。
「タクシーを一台、お願いできますか」
 うっとうしい客の相手に疲れていたらしく、店主は愛想良い笑みをみせた。
「いいですよ。一台ですね」
 うなずいて、席へ戻る。
 男たちは近づくヤマトに気づいていない。ヤマトの席から顔が見えるということは、カウンターには背を向けているということだ。
 ピアノの音が足音と気配を消してくれる。一番通路側に近い場所に座っていた男の手元に、ヤマトはちらりと目を落とした。
 写真一杯に広がる肌色に意識の片隅が、すうっと冷えた。
 ヤマトは、拳を二、三度握り直し、カバーが破れてスポンジが覗く席に腰を下ろした。友人達を揺り起こし、タクシーがくるのを待つ間に精算を済ませる。
 男たちが立ち上がらないかどうか、それだけを気にしながら、店の前に止まったタクシーに友人達を乗せてしまうと、ヤマトは店に戻った。
 下手くそなピアノ奏者が疲れたようにグラスに満たした酒を飲んでいた。当然あの三人も、まだ飲んでいた。
 おや、というように目を向けたママにヤマトはビールを一杯だけ頼んだ。
「まだ一人で飲みたくてさ」
 そう言って微笑すると、ヤマトはカウンターの端に座り、男たちの声に耳を澄ませた。
 もう一人カウンターの端に座る男の必死のくどき言葉の合間に、不満げな声が届く。
「携帯も、繋がらねえんだよ」
「家にもいやしねえ」
 声が低くなる。金が、と誰かが呟き、もうなくなったともう一人が答えている。
「……があるから、いいけどよ。肝心の八神が――」
 言葉が途切れがちにヤマトの耳を刺した。
「家の前で……」
「だから、また――」
「コピーして……住所は分かってるから……」
 ビールの泡が喉を滑って、胃に落ちていく。苦さが舌に残り、ゆっくり消えていった。
 どうすればよいか、まだ考えつかない。このまま男たちが店を出るのを待って、尾行するか。
 あの写真が何を示していたかは、よく理解できない。けれど、あの男たちをこのまま放っておくことも出来なかった。彼らに気づいたときに騒ぎ出した警鐘はまだ止まらない。
「――幾ら、出すだろうな」
 はっきり届いた声に危うく振り向きかけ、ヤマトは必死でこらえた。
「これくらいは出すだろ」
「五本? いや、やっぱ――」
「だってなあ……おい、これだぜ」
 大きな笑い声の後、ボーンと地を這うような低い音が響きわたり、また耳を塞ぎたくなるような演奏が始まった。このピアノの音があるから、彼らは声を大きくしたのだろうか。
 聞こえなくなってしまった会話にヤマトはビールのグラスを乱暴に置いた。どうしても様子が知りたくて、振り返った。物を落としたように最初は床に目をやり、すぐに男たちの席に視線を向ける。
 ちょうど写真を集めているところだった。細身の男が写真を受け取って、おそらく内ポケットにでも仕舞ったのだろう。肩と腕の動きしか見えないので、そう判断するしかない。
 長く見ていて気づかれるのもまずいので、ヤマトは元の姿勢に戻ろうとした。
 細身の男が立ち上がるのが目の端で見えた。不審なくらいに彼を見つめてしまい、彼ではなくもう一人の男に睨み付けられる。そうなったのは偶然だとでもいうようにして、目を逸らした。
 店を出ていくのかと思ったが、細身の男の姿はドアに見られない。ヤマトは息を止めて、立ち上がった。ピアノが聞いたことのあるメロディーを流している。沈んだ静かなクラシック曲だ。これだけは他の曲に比べれば聞けた。
 音に合わせるようにして毛羽だった絨毯の上を歩く。残された二人の男たちは煙草を吸っていた。通り過ぎるとき、わざとのように煙が吹きかけられたが無視して、手洗いに通じる焦げ茶色したドアを開けた。
 鼻を突く消臭剤の匂い、隠せないアンモニア臭に黄ばんだタイル。男は背を向けて、用を足している。
 手元を明るくするくらいの小さな照明が影を揺らめかせ、ヤマトはドアを閉めた。悲哀を帯びたピアノの音が遠くなる。
 水音がごぼりと響き、男が振り向いた。チャックを上げ、ドアの側に立つヤマトの方を一瞬だけ見て、場所を空けるように足を踏み出す。  
 動かないことを不審に思われる前に、ヤマトはドアの前に立ったまま、静かな口調で言った。
「なあ、どこかで会ったことないか」
 訝しげにこちらを見た男の顎にヤマトは固めた拳を贈り、続けて頬にも一発たたき込んだ。
 濁音混じりの声を漏らして、男がふらふらと後ろに後ずさる。
「てめえ」
 男が顔を上げ、抵抗してくる前に襟首をひっつかんで、もう一度拳をお見舞いした。衝撃で、男が後ろの壁に頭を打ちつける。男の唇から流れた血が、拳を汚した。
 最後に前に屈み込みそうになった男の腹に膝を打ち込んで、ヤマトは息を付いた。
 荒事に慣れている方ではない。こんな喧嘩めいたことをやったのは久しぶりだった。
 不意打ちが成功したことから出てくる荒い呼吸と興奮を押さえて、ヤマトは意識が朦朧としている男の服を探った。
 上着の内ポケットにこつりとした感触があった。取り出して、中身を素早く確認する。黒い小さなメモリーカードと写真だった。彼らが見ていたものだと、再度懐をまさぐって確かめ、それを自分の懐に仕舞う。
  男から離れる前に別のポケットにあった袋を引っぱり出してみた。こちらは触れただけで指先くらいの小さな袋と分かる感触だった。かなりの数が入っていたので、一つだけ取り出した。
 早く立ち去った方がいいとは知りつつも、ヤマトは黄色みを帯びた照明の下でその袋を眺めた。指先だけでも隠せそうなくらいの、小さな円形のビニール袋だ。
 入っていたのは白い粉末だった。たいした量ではなく、袋の端に固まっている。まさかこの男が小麦粉などを持ち歩くわけもあるまい。ヤマトはぞっとする思いに襲われて、袋を投げ捨てた。
 男がうめき声を上げたが、無視した。それでも気がつかれては困るので、ヤマトは男の体を浮かせて、鳩尾を殴った。こみ上げた感情分、力が入る。ぐごっと気味の悪い息が漏れたが、あのピアノの音のおかげで、外には聞こえないはずだ。骨も折れていないし、気がつくのが遅くなった程度だろう。
 男の体を個室のドアの内側に放り込み、ヤマトは自身の痛む拳を振った。汚れたような気がしたのだ。それが済むと、ヤマトはドアを開けた。
 男の仲間二人がこちらを見たが、すぐに逸らされた。やはりピアノの音が乱闘の気配を隠してくれたようだった。
 走り出したい足を普通の早足にとどめて、ヤマトはカウンターに紙幣を置くと、釣りももらわずに外に出た。
 時間にしてみれば男を殴ってから五分も経っていないだろうが、すでに一夜が過ぎてしまったような気分だった。
 ネオンは明るく、行き交う人々の数もまだ多い。眩しさが目に染み、じっとしていると、震えが出てきてしまいそうだった。客引きを無視して歩き出し、幾つもの角を適当に折れ曲がると、人混みに紛れ込むようにした。
 倒れた仲間に気づいた男たちが追いかけてきても、よっぽどの幸運が無い限り、彼らがヤマトを見つけることはないはずだ。今夜は、ヤマトに運があるようだった。
 繁華街からも離れ、静かな路地に差し掛かって、ヤマトはようやく袋から写真を取り出した。
 そしてスナックの暗い照明の下で、ちらりと見ただけのこの写真が、なぜ自分をここまで駆り立てたのかを理解した。
 目にした肌色が、写った人間の裸体の色だったからだ。綺麗に日焼けし、引き締まった太一の体は思う様、蹂躙されている。虚ろに、快楽に歪む顔は初めて見るものだった。
 ヤマトは手にしていた写真を握りつぶした。よろけそうになって、電柱に手をかける。
 太一は、彼は。
 呼吸が乱れて、目が熱くなる。
 太一は、あのとき。
 ヤマトは低い呻き声を上げた。
 ――何もできなかった。それがあの夜のヤマトの結果だった。


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