君を待ってる
13



 太一は静かだった。よくソファに座って、ぼんやりしている。気配には敏感で、光子郎が帰ってくると、必ず出迎えた。
 光子郎とは普通に話もするし、受け答えもしっかりしているが、それ以外の人間になると必要以上には会いたがらないようだった。
 始めの内は水以外口にしようとせず、その水もせいぜい体を潤す最低限の量だった。だが、しばらくすると無理矢理のように食事を口に押し込み始め、食べ物を胃に収め出した。そのたびに繰り返していた嘔吐は体重が五キロ落ちた頃、無くなった。
 不眠のために出来ていた隈も食事を吐かなくなるのと同じ週に一応、薄くなった。光子郎が知人の医師から内密に処方してもらっていた睡眠薬を、太一はやっと使用したのだった。
 すべて、嘔吐と不眠で悩まされる太一を見ていられず、光子郎がカウンセリングの話を切りだしたせいだった。
 クリニックの予約を取り消したことを光子郎が伝えたとき、太一は初めて、強張ってはいたが、笑みを見せてくれた。
 無理に連れていけば、太一がようやく保っている均衡は壊れてしまうだろう。それを悟り、光子郎は二度とカウンセリングの件を口にしないようにした。
 ただし、太一に向ける光子郎の視線には、どんな小さな異変も見逃さない、鋭いものが含まれるようになった。その視線は太一を包みこそすれ、傷つけるものではない。
 いまだに太一の眠りは浅く、ときにうなされてもいるが、一睡もできなかったという以前の状況ほどは、ひどくないようだった。
 変わらないのは体に触れるとき、それを口にしないと嫌がられることだった。一度不注意にも、光子郎が太一の肩に後ろから触れたとき、太一はものすごい勢いで、手を振り払った。
 自分が払った腕が光子郎のものだと気づいた太一は青ざめた。立ちつくし、自分が打ち払った腕を見つめる太一の顔は、光子郎が二度とみたくないと思うほど打ちひしがれていた。
 太一に拒まれることが嫌なわけではなく、自分に恐怖した後の太一の表情を見るのがつらく、光子郎は太一になるべく触れないようにした。
 廊下ですれ違うときも、太一をじっと待つ。彼の後ろには立たないようにし、太一の視線が届く範囲に身を置くようにした。
 太一をこの家まで連れてきたのは当日の夜のことだった。太一が目を覚ましてから、すぐにあの部屋を出て、光子郎は太一を自分の部屋に泊めた。知り合いから一時的な形で借りている部屋だが、一人くらい増えても困ることはない。
 部屋数に余裕があったので出来たことだが、そうでなくても、光子郎は太一とともしばらく過ごそうと決めていた。
 太一の体の傷は今ではほとんどが治って、注射針の痕もまったく分からない。手と背中の傷だけは太一を説得して医者に見せた。
 どう告げるか迷ったが、岡には太一の知り合いの男が数人で押し掛けてきて、強盗を働いたと告げた。太一に暴行を加えた男たちは出ていく際に部屋中をあさり、現金や金目の物は盗んでいったので、それは嘘ではない。
 警察に行くと騒がしくなるから、とりあえず太一が落ち着くまで自分の家で預かると言うと、岡は不審そうに今からそちらに行くと電話を切った。
 すでに傷の手当を受けて、服も着替え、光子郎の部屋にいた太一は岡に笑みを見せたが、太一を一目見て、岡は何か悟ったようだった。エントランスまで送っていくとき、彼は光子郎の腕を強く握り、何があったと訊いてきた。電話口で話したことを繰り返しても納得しない。本当のことを教えてくれと迫られたが、光子郎は、押し入ってきた男たちが強盗を働き、太一を殴って去ったとしか言わなかった。
 太一との約束は絶対に守る。彼が誰にも言うなと言ったなら、光子郎はそれを貫くつもりだった。
 口を割らない光子郎に、岡は顔を歪めて、悪態を付いたが、それ以上訊くことはなかった。ゆっくり休ませてやってくれと言い残し、岡は自分の車に引き返していった。
 うなだれて、力のない後ろ姿を見送ることが出来ず、光子郎も太一のいる部屋へ戻った。
 ――あの日から一月以上が過ぎたが、それくらいの時間で太一が元通りになるなど信じられるわけもなかった。
 静かだからこそ、恐ろしい。太一の平静さは心を押さえつけているからだろう。底知れない意思から感じられる、不安な張りつめた空気は、強くなるばかりだった。
 食事後の後片づけまで終えてしまうと、光子郎はソファに座って、テレビを眺めている太一の向かい側に腰かけた。隣に座ると、太一は無意識に体を離そうとするのだ。嫌がられないぎりぎりの距離をこの一月ほどの間で見つけていた。
「太一さん」
 ふいっと太一が顔を向ける。光子郎はわずかに目を伏せて、明日、病院へ行こうと切り出した。
 今のところ、太一は身体の変化について、何も言っていない。しかし、気づいていないだけかもしれないし、口をつぐんでいる可能性もある。
「病院? どこも悪くないぜ」
 その口調に嘘は感じられなかった。安堵すると同時に、また別の不安がこみあげてくる。
「ええ……。検査してもらうだけです」
 太一はまだ分からないようだった。不思議そうにこちらを見る目に胸が痛くなり、光子郎は窓の外を眺めた。
「検査? なんだ、それ」
 このままただ安らかに日々を過ごして欲しいだけだった。だが、その前に太一はどのくらい傷つけばいいのだろう。
 光子郎はなるべく静かな声で言った。
「性病検査です」
 太一の表情が固まった。指が曲がって、ソファに食い込む。
 光子郎は手の震えを止めようと、膝の上で手を組み合わせた。
「感染した可能性もありますから、明日行きましょう」
 太一は首を振った。じきに、ゆっくりだった首の動きが早くなり、激しくなった。
「いやだ」
「太一さん」
 光子郎は、静かに太一の名を呼んだ。このことに関しては譲れない。
「平気だって、俺、病気になったことねえよ」
 声を震わせて、太一は繰り返すと体も震わせ始めた。
「調べるだけ――」
「平気だって!」
 太一は叫ぶと、身をかばうように自分の腕をつかんだ。うつむいて、唇を噛みしめている。
「太一さん」
「行かない。絶対嫌だ」
「すぐに終わりますから」
 太一は打たれたように顔を上げ、光子郎を見据えた。ぎらぎらと光る目が光子郎を射抜く。鋭く、気迫のある視線に、光子郎は太一がなぜ数多く存在する選手達の中でも頂点に立つことができたのか、突然のように理解した。
 彼はこんな目をして、グラウンドに立つのだろう。相手を正面から睨み付け、その視線と気迫とで自分の求めるものを得るのだ。彼にゴールを決めさせたくないが、睨まれたくもないと告げたイタリア出身の選手の言葉を思い出し、光子郎は小さく首を振った。
 そんな太一が小さな子供のように病院へ行くことに怯えている。あんな激しい目を見せてまで、拒否しようとしてるのだった。
「……お願いします。もしもということがありますから」
 太一は唇を引き結び、頑強に首を振る。嫌だ、行かないと何度も叫んで、立ち上がろうとした。
「太一さん」
 光子郎はとっさに手をのばし、太一を引き留めようとした。またこの間のように振り払われるのかと思ったが、太一はぎくりと腕を強張らせて、足を止めた。
 謝って、手を離し、光子郎も立ち上がる。
「そういうことかよ」
 光子郎が口を開く前に、太一が低く囁いた。体全体が細かく震えている。
「お前、怖いんだろ? 自分の近くに病気持った男がいるかもしれないって怖がってるんだろ」
 太一は奇妙な声を立てて、笑い出した。虚ろに笑い声は響き、床や天井に跳ね返った。
「――いいよ、出て行くから安心しろ」
 笑いが止んだかと思うと太一は背を向けて、走り出した。よく見た、風を巻き込むような鮮やかな走りではなく、どこかでもがいているようなもたついた走り方だった。
「太一さん!」
 たやすく追いついて、光子郎は太一の肩をつかんだ。本当に部屋を出ていくつもりなら、止めなければならない。
 太一の腕が無茶苦茶に振り回され、光子郎を打とうとする。
 たとえ歯を折られても、太一をこの部屋で見守っていたかった。今、太一を一人きりにすることなど、危うすぎて出来ない。
 拳が頬に当たる。しかし痛みはなかった。撫でるように、通り過ぎただけだ。太一はこんなに弱々しい力しか出せなかったのだ。太一の拳を受けながら、光子郎は驚いた。
「太一さん」
 そっと肩を包む。
「ほっといてくれ」
「すぐ、済みます」
 痛くもないし、プライバシーも守ってくれると、子供をなだめるように光子郎は言い聞かせた。
 太一は首を振り、それしか言葉が思いつかないように、嫌だと繰り返した。
 咳き込んでも、嫌だと叫び、自分の腕をつかむ。肌に爪がくい込み始めるのを見て、光子郎は太一を抱き寄せた。
「……い」
 温もりに怯えたように太一は怖いとつぶやき、苦しげに息を吸い込み始めた。体が激しく震えて、太一の体に回した光子郎の腕まで震えている。
「……また名前、あいつが……」
 虚ろな太一の目がまたたいた。喉の奥で泣き声を殺し、太一は光子郎を遠ざけようと暴れ出す。
 奇妙な息が喉から漏れるだけで、太一の声は言葉にならない。その目からようやく溢れた涙は太一の異様な高ぶりとは逆に、静かに頬を伝った。
 太一は涙を流していると気づかず、光子郎を透かし、別の何かを見つめているようだった。在らぬ方向を見つめている太一の目が、わずかずつ狂気を帯び始める。
 光子郎は耐えかねたように目を閉じ、まだ何か言い続けようとした太一の唇を塞いだ。
 そこは辛く、濡れていて柔らかい。そして震えている。四年ぶりの感触に腕の力がこもった。
 空気を求めた太一の手に唇を離す。涙はまだ流れていて、光子郎は指でそれをぬぐった。
 太一の唇が薄く開いて、何か囁いた。声を聞くため、そしてもう一度口づけるために、光子郎は顔を近づけた。
 太一の声は耳に届く前に淡く消えて、光子郎は塩辛い唇に、優しく触れた。頬を包み込んで、光子郎はささやいた。
「泣いても……」 
 自分でも何を言っているか、よく分からない。自分の前でなら、幾らでも泣いてくれて良かった。自分を傷つけることで、太一が癒されるなら何度でも殺されていい。
 腕に力を込め、太一を抱きしめた。太一の喉から、聞き逃してしまいそうなくらい小さな泣き声が漏れる。背筋をあやすように撫で、光子郎は太一の涙が乾くまでの時間、太一を腕の中に抱いていた。


 憔悴しきった太一をベッドまで連れていって、薬を飲ませた。効き目が現れるまで、待たず光子郎は部屋を出ようとした。太一の混乱につけ込むような真似をしたのが許せない。
 音もなく、ベッドから離れようとしたが、突然太一の指に裾をつかまれた。
「……」
 目を閉じていたはずの太一がこちらを見上げている。光子郎は首を振った。
「もっと落ち着いてから、行くことにしましょう」
「違う」
 太一は鼻が詰まっていたのか、低い声で言うと目を逸らした。指は離れなかったので、光子郎は太一の顔をのぞき込んだ。
「……明日、一緒に来てくれるか」
 光子郎の指が伸びても、太一は唇を震わせただけで怯えはしなかった。
「――当たり前です」
 太一の額の髪を梳いて、光子郎は服をつかんだ指を取った。数秒だけ、その手を握って、ベッドに戻す。
「ごめんな」
 ぽそりと太一がつぶやいて、目を閉じた。びくりと瞼が震えたのが見えたが、太一はそこで、寝返りを打った。
 太一に愛しい以外の、どんな感情を抱けばよいか、光子郎にはもう分からなかった。



 診療室の白いドアの向こうに太一が行ってしまう。  時間を確かめて、まだ太一が出てこないと判断すると、光子郎は受付ロビーの隅に設置された電話ボックスへ向かった。
 記憶している番号を押し、相手が出るのを待つ。その間にも人々が病院のドアをくぐっていく。隙間から入ってきた風は消毒薬の臭いがした。
「もしもし」
 日本人で羽茂得ない独特の響きで発せられた応対に、光子郎は微笑した。
「僕です」
 相手に名乗ると、男は乾いた声でうなずいた。
「ああ」
「連絡が遅くなって、すみません。頼んでいた件ですが」
 男は受話器を遠ざけて、大きな咳をすると、言葉を続けた。
「……幾つか見つけておいた。どこも評判はいいし、しっかりしているところだ。あんたの言ってた条件も満たしてる。メールを、今送ったから、それを見て決めるといい。」
「そうですか。ありがとうございます」
 電話を切ると、光子郎は電話ボックスを出た。彼のような知人を持っていて良かったと初めて思えた。 


 すべての結果がすぐ出るわけではなかったので、検査が済むと、すぐに帰宅した。太一をジムまで送り、彼がガラスドアの向こうに消えるのを見届けてから、光子郎は家まで戻った。
 休んでもよいと言われているが、意地のように太一はジムに通っている。体を疲れさせて、夜に目覚めないようにしているのだろう。もっとゆっくり休んで欲しいのに、それもできない太一が悲しい。
パソコンの電源を付け、立ち上がるまでの時間にコーヒーを煎れた。デスクの上に置かれたディスクや書類を適当に押しのけ、マグを置く。
 目的のメールは届いていたが、他にも相当の数のメールが届いていた。アドレスを見て苦笑した光子郎は、小声ですみませんとつぶやいた。休暇はとっくに過ぎているというのに、いまだ日本にとどまっている仲間や、部下、上司を心配するメールばかりだった。
 こちらでやれる仕事は片付けているが、それにも限界があるようだった。むしろ、よくここまで許してくれたとの思いがある。
 いつ帰国するのかという質問は後にして、光子郎は男から届けられたメールに目を通した。
 残念ながら、人捜しのスキルは持っていなかった。ならば、信用できるプロに仕事を頼むべきだ。興信所の名前や責任者、業界での評判や、男自身のコメントを眺め、光子郎は少し考え込んだが、上から二番目に書かれた興信所の名に目を留めた。
 すぐ脇にある電話を取り上げ、興信所の番号へかける。電話に出た愛想の良い男に、手短に目的を伝え、明日会う約束を取り付けると、光子郎は電話を切り、目を細めた。
 今からやることは難しくない。太一が一時住んでいたマンションの警備システムにアクセスするだけだ。
 不法侵入になるが、こちらの方のスキルには自信がある。太一の持つIDを使えば、違法な行為にはならないが、それは避けたかった。後々のことを考えれば、何の痕跡も残さないことを選ぶべきだ。
 入り口に設置されている防犯カメラで撮られた映像は、警備会社のメインコンピュータの方に送られているはずだった。
 太一には見せない冷たい光が光子郎の瞳に宿る。莫大な記録が残っているが、必要なのは一日、それもわずかな時間だけの映像だ。
 何の問題もなく、十分もかからないうちに、幾つかの画像が画面に出てきた。ぼやけて見える画像を、鮮明に写るよう処理して、光子郎は四人の男が映る映像を見つめた。よく見知った愛しい彼と、それを囲む見知らぬ男たち。瞳にしっかり映した。沸き上がってきた感情は冷たい炎だ。
 昨夜の太一とは異なる激しさと、彼には見せない酷薄な視線で、光子郎は淡く光る画面を見つめていた。


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