弦が切れた瞬間、勢いよく立ち上がって、部屋を出ていったヤマトに誰も驚かなかった。彼の機嫌が悪いというのはとうに知れ渡っていた。
苛立ちを表に出すわけでもないし、誰彼かまわず絡むわけでもない。黙り込んでベースを鳴らしているだけなので、たいして実害はなかった。
もともとが愛想の良い方だとは、お世辞にもいえない男なので、しょうがないと皆はとうに諦めている。ヤマト自身の気が済むまで放っておこうと友人や仕事仲間、それに妻の空も決めていた。
もっとも狭いスタジオでなら、顔をつきあわせるだけで済むし、嫌なら逃げ出せばいいが、妻ともなると、そうもいかないだろう。
大変ですねとヤマトを迎えに行った一人が漏らしたが、空は目を細め、ほほえんだだけだった。
ヤマトにはもったいないと、ふたたび空の評判が上がったことも知らず、ヤマトは吸っていた煙草を灰皿に放り込んで、唇を噛んだ。何を怒っていると、いつも思うのだが苛立ちは消えない。
父親からは電話が入っていたが、駄目だったと無愛想に返事して切った。
直接、聞いたわけではなかったが、太一のあの態度では断られたようなものだ。自分に気づいていたというのに、わざと無視して行ってしまった。
マンションまで行った夜、しばらく突っ立って、太一の部屋を見上げていた自分を思い出すと、歯がゆくて、たまらなくなる。
もしかしたら太一が部屋から抜け出して、自分を捜しに来るのではと思っていたのだった。
ごめん、抜けられなくてさ――片手を上げて、口だけで謝る太一を想像して、ヤマトは彼を待っていた。文句は言うまいと怒りを静めようとしていた。
我に返ったのは煙草を吸おうとして、道に落ちていた誰かの吸い差しを見つけたからだった。
太一の非常識な友人達は歩道に車を乗り上げさせていたが、その側に二本、煙草が落ちていた。煙が薄く立ち上っていたのでヤマトは煙草を足で消すと、自分の煙草は仕舞って、身を翻した。
煩わしげな目を見せた太一が戻ってくるわけがないし、こんなところにいつまでも立っていると不審者扱いされる。車に戻ってヤマトは太一のマンションを後にした。
太一にあのような視線で見られたのは初めてだった。いつも太一がヤマトに見せる目はからかいの混じった親しみの情で、彼が友人に見せるあたたかい瞳だった。口づけされたときは、もちろん例外だが。
壁に身を預け、ヤマトは重い息を吐いた。
その瞬間の太一を思い出すと胸が騒ぐ。驚きが、かすかに胸を痛ませ、甘くする。それなのに自分から目を逸らした太一を思い出すと、あたたかくなった心は冷めて、とまどうほどの怒りがわき上がっていく。
太一はあんな男ではなかった。知り合いや友人から目を逸らし、いないように振る舞うような男ではない。むしろ親しく声をかける方だ。ヤマトが何かしていても、お構いなしに話しかけてきた。それでケンカしたこともある。
漏れ聞こえる賑やかな音に拍子を合わせるように、組んでいた腕を指先で叩く。苛立ちを交えて、早く、真剣に叩く。手の怪我は、とっくに治っていた。
はっきりさせたかった。なぜ、あんな目を見せ、口づけたのか。どうして自分を無視したのか。答えを知りたい。思いながらもヤマトは恐れた。その先にあるものが見えなかった。だが、その場所が甘く激しい何かを秘めているのだけは分かる。甘美な、一度得たら、手放せないような、そんなものがある恐ろしい場所だ。
ここにとどまなければならない。強く思う。ここに、彼女の側に。空の顔を思い浮かべて、ヤマトは指を止めた。
今、一つ分かった。押し流された先にいるのは太一だ。
太一がいる。では、彼以外に何があるというのだろうか。散乱する思考の流れに、久しぶりの苦笑を浮かべ、ヤマトはスタジオへ戻っていった。
流された先に太一がいる。この理解は安堵を呼び、意識の底に新しい不安を生じさせた。ヤマトはそれを、空に謝る気恥ずかしさゆえだと思い込もうとし、無視した。恐れることは何もないのだ。――何一つとして。
「ただいま」
玄関で聞こえた声に、空はくすりと笑った。どうやら、いつものヤマトに戻ったようだ。
「おかえりなさい」
ドアの方に顔をのぞかせると、ヤマトは決まり悪げに笑みを浮かべた。
「夕飯、作ったのか?」
「今からね」
ベースケースをことりと床に置くと、ヤマトは咳払いして、少し小さな声で、外で食べるかと言った。
「え?」
空はわざと聞き返した。ここ、しばらく仏頂面で、ほとんど口を開かないヤマトと過ごしていたのだから、これくらいはさせてもらおう。
「何か、言った?」
「だから……外に食いに行かないか。俺のオゴリで」
空はほほえんだ。
「待っててね。着替えてくるから」
いつもなら、そのままでいいなどと言われるが、今日はヤマトも文句を言わなかった。部屋着から外出着に着替えて、空は軽く化粧を直すと、バッグを手に取った。
「高いところは無理だからな」
靴を履いて、待っていたヤマトはぼそりとつぶやいた。
「期待してません」
ヤマトの腕に手をかけ、空は返事すると、唇を引き結んだヤマトの横顔に嬉しげな笑みを浮かべた。
予約もしていなかったが、運がよいことに良い店が見つかった。味もサービスも空とヤマトの唇に笑みが、しょっちゅう浮かぶくらいだ。
デザートに付いてきた苦めのコーヒーを飲んでいると、空が笑っている。
「なんか、ついてるか?」
ヤマトは口元に手をやった。
「あのテーブル見て」
空が少し離れている斜め横のテーブルを、静かに指差した。そこは家族席で、子供連れの客でも他の客に気兼ねなく食事できるように他のテーブルと分けられていた。
子供用に作られた椅子に、やっと一人で食事が出来るようになったくらいの、子供がちょこんと座っている。一生懸命にスプーンを使って、彼女から見れば大きなパフェに挑戦していた。横の父親と母親が楽しげな目で、それを見守っていた。
幼女はすました顔でアイスクリームをスプーンで掬うが、頬や唇についたクリームが彼女の無理な努力を可愛らしく飾っている。
ヤマトも笑ってしまい、あちらの父親と目があってしまった。父親は照れくさげに笑い返し、娘の口元をナプキンでぬぐった。娘の方は不満そうに父親の手を払って、生クリームを口に頬張った。その頬がほころんで、クリームの甘さを両親だけでなく、ヤマトと空にも教えてくれる。
「可愛いな」
素直にそんな言葉が出てきた。空もうなずく。
ヤマトの視線にはないものが、空の視線には含まれていた。どことなく羨ましげな、暖かく優しい眼差しに、ヤマトはコーヒーを傾ける手を止めた。
もう四年過ぎている。暮らしにも余裕が出てきているし、いつまでも二人きりというのも寂しいではないか。
ふとほほえみたくなり、ヤマトはうつむいた。
「なに、にやにやしてるの?」
「いや……」
まだ顔も分からない、生まれてもいない赤ん坊を抱き上げる自分を想像して、ヤマトはおかしくなった。
店を出て、夜道をゆっくり歩きながら、ヤマトは男の子の方がいいと言ってみた。
「え?」
「野球、教えてさ。ギターも、もちろんだけど。だいたい女の子は嫁に行ったら寂しくなるし」
空が目を丸くして、こらえきれないように笑い始めた。
「なんだ?」
「せっかちすぎよ」
空に小突かれて、ヤマトも吹き出した。真剣に考えていた自分がおかしい。空の肩に腕をしっかり回して、道を歩いた。
「――でも、私はやっぱり女の子かな」
甘い眠りに引き込まれる前、空がヤマトの耳元でささやいた。その彼女の額に口づけて、ヤマトも目を閉じた。
夢に出てきたのは空でもなく、未来の自分の息子でも娘でもなかった。太一だった。目を逸らす直前の、切なげなやりきれない眼差しをした太一だった。
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