君を待ってる
11



 ――秒針が時を刻む世界で太一は一人きりだった。
 こめかみが痛い。頭痛がひどくて、目を閉じても、頭で心臓が鼓動しているようだ。唇の中がべたついている。それなのに、喉はからからだ。赤く汚れた手も動かない。
 少し指先が動いたと思ったら震えているだけだった。情けない姿で横たわっている自分を笑おうとしても何もできなかった。
 床に体を横向きにしたまま、太一は出ない声で、ヤマトと呼んでみた。声が出ない代わりにわずかな量の涙が出て、太一は唇を動かした。
 大声で笑いたい。この虚無感から逃れたい。
 もう一度、呼んでみた。
 ――ヤマト。
 外から雀の鳴き声が聞こえた。頬も唇も動かず、涙もとうに乾いていた。



  何が、しつこい男ではない、なのだろう。車を運転しながら苦笑が浮かんでくる。
 やんわりと帰国を促すメールが増え始めていたが無視して、パソコンの電源を落としてきた。こちらでやれるだけの仕事はやっているし、今は休暇中なのだ。
 もし、首になっても、次の仕事先が見つかるまでは、日本にいてもいい。いっそ日本で、いや太一が行こうと決めた先で仕事を見つけようか。
 ゆっくり家を出たつもりだったが、時間を確かめれば、まだ太一が眠っていても遅くない時間だった。
 最近は早目に起きて、ジムに向っているようだが、さきほど岡に電話して確かめたところ、今日はまだ来ていないということだった。
 いつもの気まぐれらしいと岡は言っていたが、最後に付け加えた一言が気になった。自宅にかけても、携帯にかけても太一が出ないというのだ。
  自宅の電話はともかく、携帯電話は必ず持ち、鳴ったら出るように岡は言っているし、太一もそれを守っている。酒でも飲んで、深い眠りについているのならいいのだがと、岡は不安そうに呟いていた。
 これから、ヨーロッパのクラブ関係者と会う岡の代わりに、太一の様子を見に行くことを引き受け、光子郎は朝食を取ったコーヒースタンドを出た。
 頼まれなくても、太一には会いに行くと決めていたが、理由が出来れば、照れもごまかせる。
 空き始めた道路を、事故を起こさない程度のスピードで走り、光子郎は太一のマンションにまで急いだ。
 途中で、太一がただ寝坊していたときのために、食材を購入して、車に戻った。長い一人暮らしのために、最低限の自炊は出来るようになっている。仁山がよい顔をしないだろうが、これくらいは大目に見て欲しい。
 光子郎は紙袋を滑り落ちないよう、助手席に置いて、空を見上げた。今日も良い天気になりそうだ。


 マンションに向かう途中、靴底に奇妙な感触を覚えた。立ち止まり、後ろを振り返ると、踏み崩された煙草が二本捨ててある。風紀にもうるさいこのマンションの住人はゴミの投げ捨てなどしないと考えていたが、違うようだ。
 太一は煙草を吸わないので、非常識な別の住人か、その来客の残したものだろう。光子郎はため息をついて、ホールへと歩いた。
 古めかしくはあるが周りのデザインと違和感のないように造られたベルを押す。澄んだ音が響いて、少し待ったが、太一の声は聞こえない。
 聞こえなかったのかもしれないと、もう一度押した。
 高いホールの天井に音が吸い込まれ、消えていっても、やはり太一は出なかった。更に六回、ベルを鳴らしても応答がなかった。光子郎は丁寧な刺繍が施されたソファの上に持っていた荷物を置いて、携帯電話を取り出してみた。
 最初はこのマンションにある太一の部屋へかけてみる。しつこいくらいに呼び出し音を鳴らして、誰も出ないと確認すると、今度は太一の携帯にかけた。
 うるせえなと言う太一の声を期待したが、やはり応答はなかった。ジムに居る仁山に連絡して、太一が来ていないかを訊ねた。地下の駐車場やロッカールームまで見てもらったが、太一は姿を見せていない。
 ホールに立ちつくして、光子郎はどうしようかと考え込んだ。友人の家に泊まって、まだ寝ているだけなのかもしれない。すぐに記憶を辿って、太一が会う可能性のある友人知人に電話をかけてみた。
 最初は太一の実家だ。母親が出て、あいさつを交わした後、太一はこちらには来ていないと教えてもらった。礼を言って、電話を切る。次は丈の家。あいにく丈は大学へ行って、留守だった。実験中か講義中らしい丈の携帯に留守電を残しておいたが、彼も太一の行方は知らないだろう。
 伊織や大輔、賢、タケルにそれぞれ連絡を取っても、知らないとすまなそうな答えが返ってくるばかりだった。
 光子郎はためらったが、ヤマトの自宅にもかけてみた。電話に出たのは空で、彼女も太一には最近会っていないと言うだけだった。 ヤマトに聞いてみたらという提案をされて、光子郎は渋々教えられた番号にかけてみた。
太一の携帯電話に書けたときとは違い、ヤマトは数秒ほどで電話を取った。
「もしもし?」
 名前を名乗り、不審そうな声が驚いたような声に変わるのを待った。
「光子郎。どうしたんだ」
「太一さん、そちらにいらっしゃいませんか?」
 ヤマトの声が急に硬くなった。
「いや、いない。……どうかしたのか」
 さりげない調子だったが、感情が妙にこもっている。光子郎は簡単に事情を述べた。
「家まで来てるんですが、留守のようなので、お聞きしてみたんです」
「家? 太一の?」
ヤマトの声が少し高くなった。
「はい」
「太一、いないのか?」
「ええ」
 無愛想に聞こえたかもしれない。けれど、ヤマトが太一を呼ぶときの声音が気にくわず、光子郎は素っ気なくうなずいた。どうして、不安になるのだろうか。彼には空がいる。
「……昨日、知り合いと家で会うとか言ってたけど。そいつらと飲みにいったんじゃないか」
 ぼそりと言って、ヤマトは黙り込んだ。
「家で、ですか」
 ヤマトが太一の予定を知っていたことが意外で、光子郎は繰り返した。
「たぶんな。じゃあ、俺、忙しいから」
 礼も言わない内に切られてしまったが安心した。その後、どうして安堵したかが不思議で首を捻ったが、電話を仕舞い、ベルの前に向き直る。
 ベルを押しかけて、光子郎は正しい番号でしか開かない分厚い扉に視線を向けた。ためらったが、そちらに向かい、ドアの横にある目立たない黒い数字盤に片手を伸ばした。
 番号は太一が教えてくれた。番号を使用して、奥へ入っても問題はない。最初からこうしていれば良かったのだが、主のいない部屋へ行くのは嫌だった。太一が出迎えてくれる部屋へ行くことが楽しみだった。
 不安を込めて番号を押し、自分の掌を機械に読み取らせる。登録された正しい掌紋と指紋、番号に反応して、扉が開く。黒く光るドアをくぐって、光子郎はエレベータを目指した。
 木で造られたエレベータの扉はすぐに開いた。部屋まで行って、それでも太一がいないようだったら、どうしようか。
 迷う心とは反対に足はまっすぐ、広く長い廊下を歩いていく。明るい青空の色が、不意に安っぽく見えた。
 それをなぜだと思う暇もなく、光子郎は足を止めた。
 太一の家のドアが開いたままだった。隙間は狭いが、それでも開いていると一目で分かる。
「太一さん」
 声を出すと、不安が膨れ上がった。抱えた紙袋の中から、リンゴとオレンジが落ちていったが気にしないで、ドアノブを開けた。
 玄関に泥の痕がある。板張りの廊下に薄く足跡が付いていた。
「太一さん!」
 紙袋を放り投げ、光子郎は靴を脱ぎ捨てると、部屋の奥へと駆けた。
 幾つもある部屋のドアはみな開いていたが、荒らされているだけで、太一の姿はどこにも見当たらない。
 ドアを閉めることもせず、部屋中を探し回った挙げ句、光子郎はようやく、太一を見つけた。
 光子郎が探し求めた彼は寝室の横にある部屋に、いた。点けっぱなしになった電灯の下、散らばったトロフィーの傍らで、太一は手足を投げ出し、床に転がっていた。
「太一さん――」
 光子郎の語尾が震えた。部屋に立ちこめる、すえた臭いが鼻をついた。吐き気ではなく、叫びたいのを堪えるため、光子郎は口元を手で覆った。唇を噛み、手の震えを抑える。
 その場にしゃがみ込んで、そっと太一の頭を抱きかかえた。太一の目元にたまっていた雫がこぼれ落ち、光子郎は自分の目元が熱くなるのを感じた。
「……太一さん」
 静かな声を出した。それなのに、声を待っていたように太一の目が開いた。驚きが理解に変わり、諦めの中へ消えていくのを光子郎ははっきり見た。
 濁った瞳をまたたかせ、太一は汚れた唇を開こうとした。
 ひゅうっと太一の喉の奥が苦しげに鳴り、光子郎は首を振った。
「後で……いいですから」
 太一の顔にも、髪にも固まった体液がこびりついている。白濁したそれは、血も混じらせて、太一の肌を覆っていた。頬のあちこちが腫れている。痣と打ち身が、体中に散らばり、鋭い切り傷も赤い線を見せていた。
 衣服を身につけていない代わりとでもいうように、汗や体液、油のようなもので体が汚されている。とくに下腹部から膝にかけての状態はひどい。足の間に幾筋か血が流れ、体液もそれに混じるようにして、流れていた。
 あまりのむごたらしさに、光子郎は開きかけた唇を閉じ、また開き、やっと太一の名を呼べた。太一を傷に障らない強さで、抱きしめ、光子郎は涙を堪えていた。
 太一は目を閉じたまま、動かない。 凍りついていた感情がよみがえったのは、太一を抱きかかえようとして、その腕を優しく取ったときだった。壁にぶつけたりさせないため胸で手を重ねようとして、取った左腕に、わずかではあったが小さな赤い痕を三つ見つけた。
 それが何を意味しているか、光子郎には理解できる。夜の街で、よく見かけた光景が生む傷だった。乱用を続けていた部下を病院へ放り込んだこともある。
 奥歯を噛みしめ、光子郎はわき上がってくる怒りを抑えた。後で、存分に解放できる。今は、何よりも太一が先だ。
 出来るかどうか、初めは心配だったが、三つの針の痕を見たあとでは簡単だった。太一を抱きかかえ、寝室に入ると、ベッドに寝かせた。大柄ではないが、鍛えられた体を持つ太一を抱いた光子郎の手は、一度も震えなかった。
 寝かせる際に、どこか痛んだらしく、太一は眉をしかめたが、すぐに目を開いて、光子郎を見つめてきた。
「少し、休んで下さい」
 太一が首を振る。同じ目線になるように、しゃがみ込んだ。  体を見下ろした太一の目が嫌悪に代わり、光子郎は太一が言いたいことを悟った。いつまでも、そんな体のままでいるのは嫌だろう。光子郎自身も嫌だ。すぐにも洗い流してしまいたい。
 だが、無理をさせても、太一の体に負担がかかるだけだ。起き上がることも、言葉を発することも出来ないほどに、疲弊した太一を休ませるのが先だった。
「分かってます。でも少しだけでいいですから眠って下さい」
 ためらいがちに手をのばす。瞼を優しく、閉じさせて、光子郎は大丈夫だと囁いた。
「ここに、いますから」
 もう片手で太一の傷ついた手を握った。太一が痛みを覚えないように力は入れない。
 太一はまた何か言いたげに、唇を震わせて、苦しげな息を漏らした。目がせわしなくまばたかれ、次々に恐怖が浮かんでくる。思い出せたくなく、光子郎はその瞳を覆った。
 瞼も顔も強張っている。光子郎の手の下で、太一は喘ぎ、光子郎は自分であることを何度も教えた。そうしなければ、太一は起きあがり、逃げていくだろう。
「光子郎……?」
荒い息の合間に太一は呟いた。
「はい」
 太一は大きく息をついた。唇が震えたが、固く閉じられる。それ以上、太一は何も言わず、乱れがちではあったが普通に呼吸し始めた。
 光子郎は太一が眠るまで、彼の視界を守り、己の無力さを噛みしめた。



 太一が目を覚ましたとき、その体はある程度まで清められていた。太一が目を覚まさないように注意しながら、光子郎は濡れたタオルで太一の体を出来る限り、拭き清め、顔の汚れもぬぐっていた。
 切れた唇と頬の腫れが痛々しい太一は目を開けて、一度咳き込むと、からからの声で、風呂、と呟いた。
「手伝います」
 きつそうな息を吐きながら太一は体を起こし、立ち上がろうとした。
「平気だ」
 肩や腰を支えようとする光子郎に太一は言ったが、光子郎は首を振った。
「無理です」
 太一の体の重みは、すべて光子郎にかかっているようなものだ。手を離せば太一はその場に崩れてしまうだろう。
 嫌がる声は聞こえない振りをして、光子郎は太一を浴室まで連れていった。タオルを探すときに、ちらりとのぞいたが、浴室は広く、ゆったりしている。男二人が入っても余裕はあるだろう。
 傷の痛みを少しでも押さえるためにタオルを敷いた浴槽用の椅子に、太一を座らせた。
「一人で、やる」
 ためらったが、光子郎は太一にシャワーを手渡した。
 太一の手は乾いた血がこびりつき、傷口が開いている。褐色の血が濡れて、鮮やかさを取り戻していた。
 太一は流れる湯に口を付け、口をすすいだ。十数回、それを繰り返すと、太一は湯を体に流そうとした。
「あつっ」
 太一が叫んで、シャワーを落とした。湯の勢いで、シャワーが押されて、噴水のように周りに湯が撒かれた。
 太一が湯から逃れようとして体勢を崩し、光子郎は倒れかけた太一をあわてて、支えた。
「熱かったですか」
 片手を伸ばして、湯を止める。相当ぬるめに調節していたのだが、太一は顔を歪めてうなずいた。
「もう少し、ぬるくします」
 シャワーのノズルをつかんで、光子郎は湯を出す。水に近い温度の湯に調節して、太一にかけ始めた。太一は眉を寄せ、痛みを堪えるようにうつむいた。
 ズボンの裾やシャツの袖が濡れるが、構わず、太一の肌に湯を流していく。
 太一はぼんやりと体から落ちていく湯を見つめていたが、しばらくして小さな声を上げた。瞳に、湯からも光子郎の体からも離れようと、太一はもがいて、バスタブの縁に手をかけた。どんな感情を込めた意志でか、太一は立ち上がろうとした。
 混乱と恐怖に押されて、必死に自分から逃れようとする太一の震える膝がつらく、光子郎は手をさしのべた。
「太一さん、僕です」
 太一の瞳は光子郎をとらえていたが、太一は首を振り、その場にうずくまった。
「……一人で、やれるから向こう行ってろ」
 太一が弱々しく呻いた。
「見るな」
 近づいた光子郎の手を太一は払って、また首を振った。顔を背け、肩を大きく揺らす。不規則な呼吸を繰り返して、太一は細い声で、もう一度呟いた。
「もう見ないでくれ……」
 一度震わせると光子郎はさしのべていた手を下ろした。うなだれ、拳を作った。まだ流れていた湯が足を冷やして、音を立てながら排水溝へ吸い込まれていく。
 時間が巻き戻せたらと激しく願った。もし何でもない電話をかけたあのときに時間が戻ったのなら、何を捨てても太一の元へ走っていた。
 光子郎はノズルを手に取ると、もう片手で太一の腕に触れた。嫌がって、体を強張らせる太一の体を洗う。
 ぬるぬるしていた肌を湯で流した。首周りや肩に残る男たちの歯形や唇の痕はしつこく太一の肌にしがみつき、消えない。あちこちにある細い傷が肌に浮かび上がってきた。爪痕、歯を立てた痕、そして刃物で切られたような鋭利な傷。痕跡は体中に散っている。
 そんな場所の方が少なかったが、太一の肌に傷がなくても、またあったとしても、光子郎の優しい手つきは変わらなかった。
 最初はスポンジに泡を含ませて洗った。太一がスポンジと光子郎の手を払おうとすると、スポンジを捨て、自分の手を使った。爪先が太一を痛めないよう指の腹だけで体についた汚れを払う。
 自分の手で太一を洗いたかった。そうすれば少しでも男たちの気配が消えるのではないだろうか。
 背骨を辿るような傷には触れないようにして背中を流し、手を下へ落としたとき、太一が胸を押した。
「いい」
 光子郎は太一を胸に引き寄せると、ほんの一瞬だけ抱きしめた。太一が身をすくませ、濡れきったシャツをつかむ。
 腰から下へ手をすべらせて、足まで流れ、乾いてこびりついた体液を落とす。指先に太一の肌の感触しかなくなるまで、光子郎は太一が抵抗しても許さなかった。
 これも屈辱の一つだと分かる。だが、このままにしておくなど耐えきれなかった。指が形をなぞるようにして性器に触れたとき、拒否と苦痛の呻きを太一が発し、ひときわ強く胸を突かれた。
 腫れたのか、熱を帯びたそこにぬるま湯をかけ、体毛にからむ精液を洗い流した。押しやろうとする弱い動きが変わって、光子郎の指が触れるたびに太一はきつく光子郎の胸をつかんだ。
 爪が食い込んでも、光子郎は指を止めない。体の前から今度は後ろへ、シャワーの勢いをゆるめて光子郎は指先で静かに一番無惨だと思われる箇所を探った。
「つっ……」
 太一が光子郎の腕の中で激しくもがく。止めようと思えば出来た。自分が触れるのを許された場所ではない。それでも体の奥底で熱い感情が弾けた。
「いやだ――ああっ!」
 熱いそこの中は、まだ湿っているようで湯とは違う濡れた音を立てた。光子郎を嘲笑うように残されていた体液が指先に絡む。
「もう、いやだ……」
 太一が力無い声でつぶやく。
 湯を当てるとどこかに染みたのか、太一は悲鳴のように声を漏らし、それきり力を失ったように動かなくなった。
 ぐったりと寄りかかる体のかすかな変化に気づき、光子郎は息を呑んだ。太一の唇から聞き逃してしまいそうなくらい小さな切ない吐息が洩れる。
 怒りとは違う甘いおののきを自覚しながら、光子郎はしっとりと熱い太一のそこを清めた。


 髪や顔もすすいで、しつこく残る傷以外は汚れをすべて流す。太一は目を閉じたまま、光子郎の手に体を委ね、たまに苦しげな声と息をこぼすだけだった。
 濡れた太一の体をタオルとバスローブで包んで、寝室に戻る。ベッドに寝かせる間、太一は目を見開いて、天井を見つめていた。
 全身ずぶぬれになってしまったので、濡れた服を脱いで、もう一枚あったバスローブに光子郎が着替えてくると、太一はまばたきもせず、やはり天井を見続けていた。静かというよりも、鬼気迫るその瞳に、光子郎は黙って、太一の側に膝をついた。
「太一さん」
 呼びかけられて、太一はびくりと光子郎を見上げた。張りつめた瞳が壊れて、恐怖を堪えようとする表情に変わる。
 枯れきった瞳で、太一は光子郎を見た。
「……には、言わないでくれ」
「え?」
 太一は唇を噛んでから、続けた。
「誰にも言わないでくれ」
 うなずいて、光子郎はためらいがちに言った。
「僕が部屋にいない方がいいですか」
「いや……」
 太一は首を振って、目を閉じた。太一はなかなか寝つくことが出来ないらしく、何度も目を開け、そのたびに横にいる光子郎に怯えた視線を向けた。
 太一が眠ってしまってから、光子郎はその手を握り、額に押し当てた。浴室で感じた欲望を恥じるようにうなだれ、光子郎は太一と同じくそのまま動こうとしなかった。


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