君を待ってる
1




 ここ最近ではめずらしく二人一緒の夕食を取ることができ、翌日の朝も一緒だった。キッチンからの物音に、ヤマトはまだしゃっきりしない頭を振って、体を起こす。
 空が気を使ってくれたのか、寝室のカーテンは閉じられたままだった。あくびと伸びを一つして、寝間着の上を羽織る。ズボンだけは昨夜の内に履いていた。 
 カーテンと窓を開けて、部屋のこもった空気を清々しい空気と入れ替え、ヤマトは寝室の扉を開けた。
「おはよう」
 皿を運んでいた空が笑顔を向ける。
「おはよう」
 ちょうど朝食の支度が終わる頃だった。部屋中にパンの焼ける匂いが立ちこめている。
「今、起こしに行こうと思ってたのに」
「悪い」
 あくびして、答えると、顔を洗いに行った。髭は後で剃ることにして、先に朝食をと、キッチンへ戻る。
 空はコーヒーカップを棚から二つ、取り出していたが、ヤマトは首を振った。
「コーヒーは後でいい。ジュースあったろ?」
「ええ」
 グラスを出す空を先にテーブルに座らせ、ヤマトは自分でオレンジジュースを注いだ。
 朝食を食べ始めたヤマトは新聞を手に取りかけ、訊ねた。
「今日は、義母さんのところに行くのか」
「午後からだけどね。お月謝のこととか相談しなきゃ」
 行儀が悪いという視線を感じたがヤマトは新聞を広げた。年寄りくさい癖だとは思っているのだが止められない。父親に似たのだろう。結婚当初はこれでケンカにもなったが、今はお互いに線引きを作っていた。
 新聞だけに集中するわけではなく、空と会話しながら、社会面に目を落とし、読んでいく。
「雨、降るかしら」
 空がそわそわした声で、つぶやいたので、二つ目のクロワッサンを取ったヤマトは顔を上げる。
「着物、着ていくのか?」
「そうなんだけど」
「大丈夫だろう」
 今は髪を下ろした空を見つめ、ヤマトは頬をゆるめた。
 新婚当初、仕事仲間にさんざん惚気たことをふと思い出してしまったのだ。そのことは、今もからかいの種になっているが、それでも、空は和服も洋服も似合うとヤマトは思う。
「ちょっとテレビ見せて」
 新聞を読む邪魔になると思ったのか、空は断って、リモコンを取り上げた。二十四時間放映の天気予報のチャンネルに合わせるのだろう。そのニュースに切り替わったら顔を上げようと、ヤマトは新聞を読み続けたが、空の小さな声に、また顔を上げた。
「太一」
「え?」
 お互いに朝はゆっくりだったので、時間的にもニュース番組ではなく、ワイドショーの放映が目立つ。華々しい音楽と共に刺激的なテロップが流れるテレビに目を移した。
「――またか」
 ここ数年、ワイドショーに太一はよく登場する。そのどれもが、女性関係の話題ばかりだったが、今日はそれに加えて、別の話題も入っているようだった。
「あなた、知ってた?」
 太一のプレーを映したVTRが流れたとき、空に訊かれた。
「噂では聞いてたけど……」
 感情のこもったナレーターの声が、太一の突然の帰国に対する好奇心を煽る。
「もう帰ってきてたんだな」
 空港で撮られたものか、テレビの中の太一はレポーターやカメラマンをかき分けていた。無表情だったが、どきりとするほどに鋭い視線を浮かべている。
「どうしたのかしら」
 昔なじみを案じる空の言葉だったが、ヤマトには答えられなかった。しばらく二人で画面を見つめていたが、キャスターが不倫騒動で騒ぐ若手の俳優の話題を口に上らせたので、空はチャンネルを変えた。
 ようやく目的の天気予報を観ることが出来たが、目を伏せるようにして歩く太一の姿は、二人の目に長く残った。



  スタジオには泊まり込みの連中が何人か居たようで、ドアを開けたヤマトの目には眠そうな男たちの姿が映った。昨夜は、遅くまで騒いでいたのだろう。自分の家よりも、スタジオの朝は更に遅い。
「はようございまーす」
 出だしが聞こえない、曖昧な朝の挨拶ばかりかけられるが気にしないでうなずいていく。
「今、西野が朝飯、買いに行ってます」
 ヤマトは苦笑して、散らかった部屋を眺め回す。
 打ち合わせと休憩用のための部屋だが、今は合宿所のようになっている。
「結局、昨日は何人帰ったんだ」
「姪浜さんと、芦口さん、木津田のところの奴らも帰ったと思いますけど」
「全員集まるまで、どれくらいかかるんだよ」
 笑って、ヤマトは背負っていたケースを下ろした。口調は和やかだったが、一番年下の渋谷は焦ったように、連絡してきますと、部屋を出ていこうとした。
「いいよ」
 手を振って、渋谷を止めると、手近な椅子に腰を下ろす。
「別に急ぐ訳じゃないし」
 今回の曲作りは仕事というよりも、親しい仲間内での遊びのようなものだ。
「そうですか……」
 うなずいた渋谷がトイレに行って、しばらくすると、急に部屋が騒がしくなった。
「石田さん、もう来てたんですか」
コンビニの袋をがさがささせながら、数人の男たちが部屋に入ってくる。食べ物の匂いをかぎつけたのか、スタジオの中にいる人間全員が集まってきた。
 朝食は食べたからと、コーヒーだけもらって、ヤマトは楽譜に目を通していた。
「石田さん、石田さん」
 早口で呼ばれたと思ったら、目の前に新聞を差し出された。
 派手なあおり文句と大げさな記事で有名なスポーツ新聞に、ヤマトは眉を寄せる。
「どうかしたのか」
「前、八神選手とお友達って言ってたじゃないですか。記事、載ってますよ」
 気を利かせたつもりだろうが、なにしろスポーツ新聞だ。一応礼を言って、新聞を受け取るとヤマトは読み始めた。めぼしい話題が少ないためか、太一の記事はかなり大きな扱い方だった。
 旧友の風聞に呆れつつも、幾分の好奇心が生まれてしまう。
「何が不満なんですかね」
 記事を横で読んでいたらしい西野が言う。
「契約金だって、チームの中じゃトップでしょ」
「さあ。色々あるんだろ」
 新聞を他に読みたそうな男たちに押しつけると、ヤマトは立ち上がった。
「ちょっと煙草買ってくる」
 言い捨てて、足早に部屋を出ると、スタジオを出た先にある自販機に向かった。
 ポケットの小銭を探り、ボタンを押す間に、我知らずため息が漏れた。
 千万円単位ではなく、億単位の契約金や報酬の話にも気が遠くなるが、今までのおさらいのようにして載っていた太一の女遍歴ぶりにも、驚かされる。十人以上の女性と噂になり、 うち二人は既婚者、みなモデルや女優、歌手など、華やかな職業ばかりだった。
 話半分で、聞いたとしても、片手では数えられない。一応、ヤマトもそちらの業界に関わってはいるが、太一の目立ちぶりとは、違いすぎる。
 高校卒業後、まばたきするほどの早さで、実力でも人気でもトップにのし上がった友人を思って、ヤマトはまたため息をこぼした。


「ピアノ、入れたら変かな」
 完成した三曲目を試すための演奏後に、芦口が言ったので、急な変更を余儀なくされた。
 何かが足りないとはみなで言っていたのだが、ピアノとは気がつかなかった。鈍い自分に苛立ちながらも、ピアノを間に入れると、センチメンタルなだけだった曲は、ちょうどいい甘さになった。
 十数人でわいわい騒ぎながらの曲作りや音合わせは楽しくもあるが、疲れも感じる。満足しきって、今日一日を終えたヤマトは飲みに行かないかという誘いを断って、家へ急いだ。
 帰り際、不意に広がってきた曲の構想は、出口を求めて、頭を駆け回っている。
 酒を飲まなくても、これだけで充分酔えた。頭に音符を浮かべ、メロディーを想像しながら、ヤマトは家まで急いだ。 ここ最近の行き詰まりが優しく晴れていく。
 芦口に刺激されたせいかと、くやしくなりながらも、マンション前まで来て、ヤマトは足を止めた。いつでも走れるよう、そしていざとなれば拳を武器に出来るように構える。
 この辺も、それほど安全ではない。つい最近も少年グループによる恐喝騒ぎがあった。ある程度、収入に余裕のある者が多いせいだろうが、強盗や泥棒も多発している。  
 頭にあった曲が消えていくのを悔しく思いつつ、視線の先にいる男を見つめた。
 マンションの前をうろつく男は、キャップを深くかぶり、落ち着かなげに、辺りを見回しているようだった。
 注意し、気を配りながら、ヤマトは男の前を通りすぎようとした。
「あ!」
  明るい声がマンションの前に響く。気をそがれて、ヤマトが男の方を見ると、男はキャップを跳ね上げた。
「よっ」
 綺麗に日焼けした肌が眩しい。
 親しげな、数年の無沙汰など意にも介さない笑みで、太一はヤマトに笑って見せた。
「久しぶり」
「た、太一」
 呆気にとられ、ヤマトのベースを持つ手がゆるんだが、太一の手があわてて、落ちかけたケースを支え、ヤマトも背負い直したので、大事な愛器はなんの衝撃も受けずに済んだ。
「ドジだな」
 太一は手を引くと、かすかに目を伏せて笑った。
「お前、どうしたんだよ」
 驚きが去ってしまうと疑問が湧いてくる。今日の朝に得た情報を思い出さないようにして、ヤマトは訊ねた。
「まだ引っ越してなかったのか。住所、聞いたら前と同じだもんな」
 ヤマトに何か言わせる暇を与えず、太一は早口に喋る。
「聞いたって」
「タケル。――あいつ、元気そうだったな」
 太一は笑い、ヤマトを見つめた。
「お前も元気そうだな」
「ああ……」
「俺、腹減ってさ。なんか食わせてくれないか」
 図々しい言葉だが、太一の笑顔に毒気を抜かれて、ヤマトも笑ってしまった。
「俺が作るけどいいのか」
「我慢してやる」
 減らず口に、声を立てて笑い合うと、二人で歩き出した。
 エレベータを待つ間や、乗り込んでからも、ヤマトは太一に何度も目をやった。以前よりも、もっと強く人目を引く存在になっている。容姿のせいだけではなく、彼が持つ雰囲気や空気、存在感そのものが、周りを輝かせているようだ。
 ヤマトの視線を感じたように太一が顔を向けた。視線が合う前に、なぜか目を逸らしてしまい、ヤマトはそれを気まずく思った。
「空、いるのか?」
「実家」
 太一がにやりと笑ったので、ヤマトは付け加えた。
「ケンカしたんじゃないぞ。来年、自分の教室開くから、そのことで相談に言ったんだ」
「ああ」
 太一は肩を揺らして、忍び笑ったようだった。
 笑い声に緊張が解け、ヤマトは太一に訊ねた。
「お前、なんで連絡しなかったんだよ」
「忙しかったんだ」
 ここだけは本気の口調で言った後、太一は分かるだろと言いたげに、ヤマトを見つめた。
「家にいてもうるさいんだよ。電話が鳴りっぱなしでさ」
 モジュラージャックも抜いて、携帯電話も電源を切ったのだと太一は言うと、さすがに疲れたようなため息をついた。
「……親父さんのところ、顔は見せに行ったのか」
 他の話題を探したが、見つからない。久しぶりなので、積もる話はあるはずなのだが。
「行ったんだけど待ち伏せされてるんだ。電話はしたから、落ち着いたら行くよ」
 太一は何年ぶりかで歩く廊下でも、迷わず、ヤマトよりも先にドアの前に立った。
「俺、前はいつ来たっけ」
 ヤマトは鍵を差し込んだ。
「結婚したときだから……四年くらい前か?」
「もう、そんなになるのか」
 太一はただ微笑した。
 ヤマトはドアを開き、太一を招き入れる。 部屋に足を踏み入れる前、太一はヤマトをじっと見つめた。
 深く、黒い瞳だ。 たじろぐよりも先に、その目に心を引かれ、ヤマトは苦笑した。
「記者に連絡なんかしないから入れよ」
 太一も苦笑し、ドアの内側へ入る。
 扉が閉まり、鈍い残響だけが残った。



 空の心配りからか、冷蔵庫の中にはサラダが、テーブルには煮物と焼き魚が置かれていた。鍋には味噌汁もあり、足りなくなっていた酒なども、買い足されている。それが嬉しい反面、少し照れくさくなった。
 家事は交代制で、お互い忙しいときは連絡し合って、手間を省くようにはしているのだが、やはり空の方がまめだ。
 ソファに上着とキャップを置いた太一は感心したように、テーブルの上の煮物を眺めた。 酒のつまみにもなれば、白飯のおかずにもなる。
 二人分の食事の用意をして、他に数品ほどの料理を食卓につけ加えた。
「お前ら、よくやるよ」
 チーズとジャガイモの入ったオムレツを作り上げ、冷蔵庫の中身でカナッペまで作ってくれたヤマトに、太一は笑った。
「でも、なんか合ってねえな」
 見事に和食と洋食に別れた食卓に、ヤマトはしまったとグラスを出す手を止めた。
「普段でもこうなのか?」
「空が和食ばっかり作るから、俺はそうじゃないやつを作るんだよ」
「お前が、和食好きだからだろ」
 太一は呆れたように言って、箸を取った。
 とんでもない勢いで、皿の中身が消えていく。ワインやビールを用意してしまうと、ヤマトもあわてて席についた。
  腹が減ったというのは本当だったらしく、太一はほとんど一人で、ヤマトと空の作った食事を平らげてしまった。ついでに酒もよく飲む。陽気になって、冗談も飛ばすし、口もほぐれてきだした。
 楽しい酒にしたかったので、ヤマトも妙なことは口にしないように務めた。
 ついに食べ物がなくなり、あり合わせの乾きもので、飲むのを再開した頃、空が帰ってきた。
「よお、空。邪魔してるぜ」
 玄関の靴を見て、客がいるとは知っていた空だが、あまりの意外さに息を呑んだ。
「太一」
「お帰り」
 ヤマトが声をかけると、空は驚いた顔のまま、笑って見せた。
「ああ、びっくりした」
「夕飯は?」
 ヤマトは空が手にしていた花を受け取って、戸棚から花瓶を出した。
「あっちで食べてきたの」
 着替えてくるからと、自室へ消えた空を見送って、太一はふっとため息をついた。
「着物姿、久しぶりに見た」
「そうなのか?」
 あでやかな空を誇りたい気分と、小さな嫉妬も混じり、花を生けていたヤマトは少し低い声を出した。
「向こうじゃ、服が薄いからな。着物って新鮮な感じ……おい、怒るなよ」
 複雑そうなヤマトに言って、太一はビール缶を握りつぶした。
 着替えた空も加わって、昔なじみでの宴会が始まるのは、それから十五分後のことだった。

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