道の果て
5



 空が晴れれば、荷物は何もいらなかった。必要なのは、デジヴァイスだけだ。それと、もうひとつ、大切な財布をポケットに押し込み、ヤマトは太一を促した。
「そろそろ行くか」
 ソファに、眠たげにもたれかかっていた太一が、身を起こす。
「ああ」
 登校する生徒達に会わないよう始業時間を過ぎた時間に家を出る。
 学校への連絡はお互いにやり合った。ヤマトは病欠。太一は親戚の不幸。電話を取った国語教師は、二十分の間を置いてかかってきた二つの欠席連絡を、疑う様子はなかった。
 エレベータの中で、太一とヤマトはちらりと、笑い合った。
 もちろん、ほんの少しではあるが、後ろめたさもある。
 だが、それを消してしまいそうなほどに胸を騒がせる思いは、何だったのだろう。期待と不安が混じり、恐怖と喜びが交互に手を震わせる。これに一番似た思いを感じていたのは、あの夏の冒険の時だったのかもしれない。
 マンションから出れば、陽射しが二人を包んだ。最初に向かう場所はもう決まっている。一人でも行ったはずのそこへ、太一はヤマトともう一度行きたがっていた。

「ヒカリとな」
 光が丘の陸橋の上で太一は頬杖をついて、普段通りの声を出した。
「来たことあったんだ」
「二人だけで?」
 二つの団地に挟まれるようにして、雲が浮かんでいた。太一はそれを眺めながら、うなずいた。
「そう。……いつだったかな」
 車が通るたびに、陸橋はかすかに震える。その震動を感じながら、ヤマトも陸橋に寄りかかった。
 並木の緑は淡く、風に優しく揺れている。乳母車を押す母親の姿が歩道には見え、子供たちの甲高い声も聞こえてきた。遠くに点のようにして飛行機が見え始める。
「あいつの方が、はっきり覚えてるから、色々教えてもらいながら、ぶらぶらしてさ」
 太一はヤマトに顔を向け、お前は覚えてるかと訊いてきた。
「なんとなくならな。やっぱりタケルの方が覚えてるみたいだし」
 記憶の底に残ってはいても、それはどこか霞んで見える。もっと幼かったら、純粋に信じ込み、覚えていられたのだろうか。
 すべての始まりであった、その記憶が薄れていたことを、悔しく思った。
「昔、ヤマトもここに住んでたんだよな」
「ああ。あの辺だったと思う」
 見覚えのある部屋の窓を指す。開いた窓から白いカーテンが揺れている。今は、誰があの部屋で過ごしているのか、分からなかった。
「――みんな、ここに住んでたんだろ? だったら、どっかですれ違ってたかもな」
 飛行機の音よりも、はっきり太一の笑い声が聞こえた。
「そうだな」
 太一に相づちを打ち、ヤマトは空を見上げた。飛行機の後ろに何か見える。
「次、どこ行こうか」
「うーん」
 太一は欄干を握り、ぐっと身を逸らした。
 空に少しずつ飛行機雲が伸びていく。雲が長く伸び、飛行機も見えなくなる頃、太一はどこでもいいやと呟いた。

 光が丘から始まったゲート探しは、どこまでも続いた。
 電車と徒歩で、あちこちを行く。どこへ行っても、次の行き先は決めなかった。
 電車に乗れば、過ぎていく景色を眺め、心引かれた駅で降りる。道を歩けば、好きな場所で曲がり、疲れれば足を止めた。
 たまにデジヴァイスを手にして、反応していないかと確かめ、そのたびに二人で顔を見合わせ、仕方無しに笑った。もしゲートが見つかったとしても、どうしたいのか太一は考えていないようだった。それで、いいのかもしれない。
 時間が時間なので、通りがかった繁華街も、もの寂しく、シャッターの降りたところばかりだ。捨てられたビラやガムを避けて、落書きされた壁の前を通り過ぎた。
 日陰の空気はまだ冷えているので、太一は少しでも日が当たる場所を歩きたがる。壁に道路に、太一の影が映り、それはたまに動きを止めた。
 ヤマトがいるかを確かめるように、振り返った太一は目を細め、近づいてくるヤマトを待つ。追いついたヤマトはわざと太一の影を踏み、太一はまた足を早める。
 影踏みのような遊びを繰り返しながら、いつしか二人で肩を並べ、ビルの谷間にある住宅街に足を踏み入れていた。
 大きな日時計のように、ビルは小さな家々に影を投げかけ、都市部のざわめきが微かに響いてくる。ビルを見上げ、目線を落とすと、洗濯物がはためいていた。
 何処を歩いても、のどかな光景は変わらない。小さな植木鉢の傍らで、ひなたぼっこする老女がいるかと思えば、猫がトタン屋根や瓦葺きの屋根を横切っていく。
 その素早い動きに驚き、立ち止まった太一を見下ろし、猫は小さく鳴いた。
「あいつ、俺のことバカにしてる」
 家で飼っている猫のことを思い出し、太一は顔をしかめた。たまに猫は、あんなあざけるような鳴き声を上げ、表情めいたものを浮かべるものだ。
「そんなわけあるか」
 行き止まりになっているらしい角を、覗いていたヤマトは吹き出した。
「だって、こっち見て、鳴いてたぞ」
「知らない顔だからじゃないか」
 ヤマトに笑われたので、太一はこの話は止めることにした。
「なあ、腹、減らないか」
 ヤマトは腕時計に目をやった。正午を過ぎて、学校の昼休みも終わる頃だ。
「そうだな」
 コンビニでもないかと思って、周りを眺めたが、どの系列のコンビニの看板もなかった。小さな古い家ばかりが、並んでいるだけだ。
「通りに出たら―― 」
 太一に言いかけ、ヤマトはぎょっと辺りを見回した。肝心の太一が見あたらない。
「太一!」
「ヤマト、こっち」
 曲がり角から、太一の手が見え、声が聞こえた。
「お前、先に行くなって!」
 あわてて、太一を追いかけて、角を曲がったヤマトは太一とぶつかった。
 衝撃に太一はよろけ、ヤマトにつかまる。
「悪い」
「平気。気をつけろよ」
 支えになったヤマトの手を離して、太一は冗談混じりの口調で呟いた。
「置いて行くわけないだろ、ヤマト」
「……知ってる」
 真剣な目で言って、ヤマトは唇を噛むと、歩き出した。

 暖かくなるばかりの陽気に、太一はシャツの袖を折り、ヤマトは上着を脱いだ。
 大きな通りにはなかなか出ることが出来ず、よりいっそう迷っていく気もする。
 古めかしいマンホールを踏みながら、曲がった先は、今までよりも細い道になっていた。馴染みの薄い、時代がかった建物が並び、汚れた看板も見える。
 大きな雲が、太陽を遮ったせいか、路地はどことなく薄暗い。ひやりとした風が吹いて、ヤマトは足を止めてしまった。何か不安を呼び起こす雰囲気がこの道にはある。
 迷ったヤマトの手を掴んだのは、太一だった。
「行くぞ」
 太一が走り出す。ヤマトは転びそうになり、太一の手にしっかりつかまった。
「太一」
 太一が振り返ったとき、太陽が雲の隙間から顔を出す。ヤマトに笑いかけただけで、太一は何も言わなかった。
 走り続ける太一の青い背中を眺めながら、心に不思議な思いが浮かんだ。それは形にもならず、言葉に出来そうでも、出来ない。それでも心を、体を、優しく包んでいく。
 道は登り坂になり、舗装された道路が終わってしまうと、苔の浮かんだ狭い階段が現れた。錆の浮いた手すりにもつかまらず、太一は階段を軽やかに駆け上がっていく。
 コンクリートのひび割れから生えた雑草を揺らし、ヤマトも階段を上がった。
 まだ続くと思った階段は不意に途切れて、太一は立ち止まる。高台にある団地近くに出たらしい。
 霞んでいた地上とは対照的に、空のてっぺんは青かった。足下に広がる公園の緑も鮮やかだ。まだ散らない桜も、緑の中に混じっていた。
 握った手を離さないまま、太一がポケットを探り、単眼鏡を取り出した。
「持ってきてたのか」
 懐かしいそれに、ヤマトは頬をゆるめた。
「いるかと思って」
 太一は熱心に、単眼鏡越しの景色を見つめている。
 繋いだ太一の手を、子供っぽく揺らしながら、ヤマトは足下の石を蹴った。
「あと、ゴーグルがあったら、完璧だったな」
 今日の太一は青い服を着ている。空よりは濃い色で、そこだけは昔より大人びた風にも見えた。
 太一は単眼鏡を覗くのを止め、ヤマトの方を向くと、にこりと笑って見せた。
「あれは、大輔にやったから、いいんだ」
 風に合わせて、太一の前髪が揺れる。ヤマトはそれを指先で押さえた。
 静かな確信が、自然にそうさせた。太一に手を引かれ、太一の背中を見つめていたときの答えを見つけ、ヤマトは太一に口づけた。
 想いそのままの、優しい唇の重ね方に、太一は驚かなかったようだ。
「バーカ」
 唇が離れ、太一が悪態をついて笑う。背後の雲が眩しく見えて、ヤマトは目を細めた。
「下の公園、通って行こうか」
 太一は照れくさそうに視線を変えて、下に見える公園を指した。
「そうだな」
 ヤマトは微笑した。どこへ行ってもいい。太一となら、どこまでも行ける。それだけは、確かだった。


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