道の果て
6



 遅い昼食は木漏れ日の下で取った。公園の先にあったコンビニでおにぎりやサンドイッチを買って、また公園に戻る。
 遊歩道にあったベンチで、昼食を食べている間、太一は黙っていたが、ヤマトが唇のご飯粒を取ろうとしたとき、鋭い視線を向けた。
「なあ、金、幾ら余ってる?」
 太一の唇の横に付いていたご飯粒を地面に落として、ヤマトは答えた。
「あんまり、ない」
 電車代も馬鹿にはならないが、もともとそれほど中身の詰まった財布ではない。中学生の財布はそんなものだろう。
 太一が見せろと言うので、財布を渡してやった。
「……帰りの分くらいしか、ないな」
 ヤマトの財布の中身を確認して、太一はがっかりした声を出した。
「お前は?」
 太一は黙って、自分の財布を差し出した。もちろん金額は同程度しか残っていない。
「どうするかな」
 太一は足をぶらぶらさせ、思い出したように自分の頬に触れた。
「もう俺が、取ったぞ」
 太一はおかしそうに、ヤマトを指さした。
「お前だって、卵付いてるぜ、ヤマト」
 急いで頬を拭うヤマトを笑って、太一は立ち上がった。
 ゴミを入れたコンビニの袋の口を締めて、向かい側にあるゴミ箱を目指して放り投げる。見事に収まり、太一は満足そうにうなずいた。
 ヤマトもパンくずを払って、立ち上がった。
「ヤマト」
 太一は靴紐を結び直している。
「なんだ?」
「協力しろよ」
 何をと訊ねる前に、太一は歩き出していた。

 ついに行き先を決めたらしい太一は、迷うことなく足を動かし、幾つもの通りを渡る。ヤマトは、道を選ぶのは太一に任せ、その横を歩いていた。
「あっちの方だよな」
 ようやく、とある通りで太一が足を止めた。一度深く息を吸うと、太一はガードを乗り越え、車道に降り立つ。
「危ないぞ」
 太一の身軽な動きに、目を奪われつつ、ヤマトは言った。
「お前も来いよ」
「この先に横断歩道――」
 太一は首を振り、腕を水平に突き出す。親指を立て、ヤマトに笑いかける。
「太一?」
「手伝えって言ったろ」
 ヤマトが黙っている間も、太一は手を挙げて、車を停めようとしている。排気ガスを吐き出して、何台も車が通り過ぎた。
「あそこまで行くのか」
 ヤマトはガードに手を掛け、太一の後ろ姿に訊いた。
「いいか?」
 答えないで、太一の後ろ頭をそっと小突くと、ヤマトもガードを越えた。

 腕が痺れるまで、挙げ続けても、車はなかなか止まらなかった。どのドライバーも忙しそうに、あるいは無関心に通り過ぎていく。
 何十台、もしかして何百台目かの車が行ってしまった後、太一は手を下ろした。しびれを取るため、ぶらぶらと振り、横のヤマトに目を向ける。
 疲れのせいで、無表情なヤマトだったが、太一の視線に気づくと、微笑した。
「止まらないな」
 苛立ちは感じられない。太一はヤマトが交替して、親指を上げ始めるのを見ていたが、やがてぽつりと呟いた。
「俺だったら、止まるのに」
「でも、他人を乗せるのって抵抗ないか?」
 また一台通り過ぎる。ガスのきな臭い匂いが、体中にこびりつくかもしれない。
「ヤマトだったら、俺は乗せる」
「……それって、俺に似てたら誰でもいいってことか」
 どんな表情の変化も見逃すまいと、ヤマトは太一をじっと見つめた。
「違う」
 続いて、聞こえた言葉はヤマトだけ、だ。派手にエンジンを吹かして、通り過ぎたスポーツカーのせいで、はっきり聞き取れなかったが、太一の頬が少し赤かったので、ヤマトは納得することにした。
「俺も太一だったら、乗せる」
 太一は嬉しそうに笑い、そこであっとヤマトの袖を掴んだ。
「止まった」
 白い車が車道の端に車を寄せ、ハザードランプを点けた。
 駆け出したのはヤマトが先で、それを引き留めたのは太一だった。
「どうしたんだ」
 なぜか太一の視線が、険しい。
「ヤマト見て、止まったんだろ、今の車」
 ヤマトが車に合図していたのだから、その通りだろう。
「若い女だったら、乗らないからな」
 太一は不機嫌そうな顔で言うと、ヤマトの前に立って、ドライバーの元へ向かう。
 ヤマトは、歩道を歩く人々に、不審に思われないよう咳をして、こみ上げてくる笑いをごまかした。

 停車した車のドライバーは、若い女性でも年輩の女性でもなく、物静かな外見の五十代ほどの男性だった。
 太一が開いた助手席の窓で、男性に行き先を告げると、あっさりうなずいてくれた。
「行ってもらえますか?」
「ああ。構わないよ」
 かすかに煙草の匂いがする車内の後部に、太一とヤマトが並んで座ると、車は滑らかに発進した。
 男性は、平日に私服でうろつく少年二人に、何か聞くわけでもなく、黙って車を運転している。車内が静かなので、太一もヤマトもたまに小声で話すだけだ。途中で男性がラジオをつけ、交通情報のアナウンスに耳を傾けた。
「思ったより、早く着きそうだ」
 男性は微笑し、後ろの太一とヤマトをバックミラーで見つめた。
「そうですか」
 太一がぼんやり窓の外を見ていたので、ヤマトが答えた。
 車はそれほどの混み具合でもなかったが、場所が場所なので、時間は掛かる。太陽が西にかなり傾いた頃に、車からヤマトと太一は降りた。
「ここで合ってるね」
「はい。ありがとうございます」
 二人で交互に礼を言うと、男性は目を細めた。
「昔は、私もやったよ。ヒッチハイクで、色々回ったな」
 懐かしげな口調に寂しげな目線で、男性はヤマトと太一を見やると車をバックさせた。
「気をつけて」
 笑った男性にヤマトは頭を下げた。
「ありがとうございました」
 ガラス越しに静かな笑みを残して、男性は行ってしまった。
 辺りは静かだったが、車の物音がなくなると、さらに静けさが浮かび上がる。暮れていく空や、緑が広がる周りの景色を見渡して、太一は大きく伸びをした。
「来ちゃったな」
「もっと奥だったな」
 太一の声と違い、ヤマトの声は固かった。少しずつ暗くなる空のように、不安や怯えが足下から這い上がってくる。それを振り払うために、ヤマトは歩き出した。
 テント設営のための空き地には、草が茂り、若草の匂いを漂わせている。冷え始めた空気の中、伸びた草の間にある遊歩道の先を目指した。
 人の姿はなく、踏み固められた道に、影ばかりが伸びていく。
 白っぽい石で出来た石段が見えると、微かに震えている太一の指が、ヤマトの手の中に滑り込んできた。
石段に足をかける前に、太一と視線を交わした。互いを促し、勇気づけるように、小さくうなずきあう。
 繋いだ手に力を込め、デジヴァイスをしっかり握り、石段を昇った。一段昇るごとに、胸が高鳴る。足下の確かな感触に安堵し、希望か、畏れかに震える手を握り合った。
 堂の屋根の一部が石段の向こうに現れると、すぐに戸も壁も見え出す。古く黒ずんだ木壁は、夕陽を受けて、あたたかそうに思えた。
 土と若葉を踏んで、堂の前に立つと、今まで歩いてきた方を、太一は振り返った。遅れて、ヤマトも太一と同じ方角を見上げた。
 黄昏の空が、不思議な色合いで、雲を染めている。
 夕日が、冷えた肌を暖めてくれたが、それだけだった。何が起こるわけでもなく、日は沈み、星が小さく光り始める。
 太一はゆっくりまばたきしながら、それを見つめていた。太一の横顔の静けさに耐えきれず、ヤマトは太一を呼んだ。
「太一」
 ヤマトの強張った顔に気づき、太一は包むような視線で笑いかけた。
「やっぱり……」
 諦めではなく、悟ったような太一の口調に、ヤマトは激しく首を振った。
「違う」
 何も起きないのではない。きっと、起こすことが出来なかったのだ。
「二人だけじゃだめなんだ。みんな呼べば……丈や空や光子郎、ミミちゃんたちと一緒なら開く。絶対開く」
 タケルも、ヒカリも呼んで、始まりの日のように集まるのだ。
 そうすれば、きっと出来る。ゲートを開くことも、自分たちだけであの世界へ行くことも出来るはずだ。あの仲間たちとは、世界さえ救えたのだから。
 熱くなる目頭とは対照的なほど、デジヴァイスは冷たかった。
 太一は、ヤマトを否定するのではなく、慰めるように小さく首を振った。
「もういいんだ」
「太一……」
 繋いでいた手を離し、太一はヤマトを抱きしめた。
「ありがとうな、ヤマト」
 細かい震えは、どちらのものなのか、分からない。太一の背中に手を回し、抱きしめた。
 心音も聞こえるかと思うほどに近いこの距離は、ぬくもりと幸福を与え、切なさも教えてくれた。だから、もう思えない。太一と触れ合えるこの喜びを知ったから、共にあることを望んだから、戻りたいとは思えなかった。
 それなのに胸が痛む。苦みを帯びた涙が浮かぶ。時間が過ぎれば、過ぎるほど、あの夏は大切な思い出になり、遠ざかっていくのだ。
 楽しいばかりではなかった。苛立ちも嫌悪も、負の感情はすべて味わった気がする。妬みもし、憎みもした。傷つけ、孤独に浸りかけたこともある。だが、そんな思いも時に濾され、眩しくなるばかりだった。すべてが始まったあの頃には、冒険していた頃の自分たちを、羨ましく思うことになるなど、考えもしなかったというのに。
 涙を太一の服にこぼし、ヤマトは太一に頬寄せた。
「泣くなよ」
 濡れたヤマトの頬に、太一が言う。新しい涙が浮かびそうなくらい、優しい声だった。
「泣いてない」
 強がりを最後に、ヤマトは呼吸と一緒に、涙も止めた。涙が風で冷たくなり、乾いていく。
 失ったものはないはずだった。今も、昔も、何一つ失ったものなどないはずだ。
 ヤマトにぴったりと頬を当てていた太一が顔を上げ、辺りを見回した。
「……暗くなった」
 堂の影は濃くなり、緑も黒みがかったように見える。手が互いの背中から滑り落ちて、自然にまた絡まった。
 太陽の光が消えていくので、山も黒い。西だけ、まだ赤い空を太一と見上げた。
 この空にオーロラが浮かんだこともあった。あの世界が、垣間見えたこともあった。それは数年前のことだ。
 今は、ただ―― 太一がぽつりと、つぶやいた。
「綺麗だな」
「ああ」
 陽は消えて、空はいよいよ昏かった。西の空も、もう少し経てば夜空に変わるだろう。最後の陽が、足下の影を一つにしてくれる。
 風が冷たくなって、ヤマトは握っていた太一の手を、そっと離した。太一が不思議に思わないうちに、その手を包み込む。こんな時だからなのか、思ったよりも手は小さく感じられた。
 一度、太一にお前の方が指が長いと、言われたことがある。ギターを弾いているせいもあるが、太一よりもヤマトの方が、指が骨っぽく長い。あの夏、太一と手を繋ぎ合ったときは、同じくらいの大きさだったはずだが、こんなところにも時間は流れていたのだ。 
 こちらを見ていた太一と目が合う。似たようなことを思っていたのか、太一はかすかに笑っていた。
 つられて微笑し、ヤマトはデジヴァイスを左手に握りしめた。太一も同じように自由な方の手で、デジヴァイスを包んだ。これは確かな証だった。記憶と思い出のこの機械は、いつかまた、という希望にも繋がっている。
 太一はため息ではない、長い息を吐いた。
「帰ろうか」
「いいのか」
 いいんだと太一はうなずいた。
 最後に振り返って、堂とその後ろの木々を眺めてから、石段に足をかける。
 半ば程まで降りたところで、太一は目線を手に移した。風から守るように、ヤマトの指が太一の手を包んでいる。
「ヤマト、手が冷たい」
 太一は包まれていた手を広げ、ヤマトに指を絡めた。
 自分の手が温めていた、太一の手のあたたかさがヤマトには嬉しい。
 昇ったときと同じように、石段をゆっくり降りた。
「……もしかしてさ」
 太一の声は辺りの空気に吸い込まれていった。
「誰かが、またここから、あっちに行ったりするかもな」
「ありそうだな」
 ヤマトが笑うと、太一も笑みを浮かべ、ヤマトの肩に額をこつんと乗せた。
「今日、楽しかった」
 ヤマトは太一に顔を近づける。
「――俺も、楽しかった」
 囁くと、吐息で太一の髪が揺れて、頬をくすぐった。太一が顔を上げたので、睫毛が触れ合うくらいに近い場所で、またほほえみあった。
 しばらくして顔を離すと、太一はヤマトに訊ねた。
「もし、サボりがばれてたら、どうする?」
「その時は、その時」
 ヤマトは太一にからかうような目を向けた。
「俺より、太一の方がやばいかもな。家に連絡が行ってたりして」
「これは共犯だろ」
 太一が憤慨したようにヤマトを小突き、それに押されて、ヤマトは段を先に降りきった。太一もヤマトを追って、段から飛び降りる。
 太一は星が眩しくなった空を一度、見たが、何も言わなかった。ヤマトもつられて、空を見上げたが、同じく黙ったままだ。繋いだ手に、少し力がこもって、それで空を見るのは終わりにした。
 何も起こらない夕暮れだった。そして、何かを見つけた一日でもあった。それでいい。残ったものは確かにあった。この地にも、胸にも、それは残り、刻まれていた。
 今、見つめるのは、お互いのどこか晴れやかな横顔と、進む道の先ばかりだ。
 ヤマトと太一は、手を繋ぎ合い、視線を交わし合いながら、歩き出した。視線は暗い道にまっすぐ向けられ、もう、堂を振り返ることはなかった。

(終)
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