春になっての最後の変化は、配られるプリントに進路の二文字が目立ち始めることだった。保護者面談の要項に書いてある進路相談の字をはじき、ヤマトは頬杖をついた。
ペンを握る片手はせわしなく動き、担任教師の言葉をメモしていく。字が乱れるのは分かっていたが、思考は来月中旬にある保護者面談ではなく、太一へと流れてしまう。
数日前の横顔は、胸に焼き付いていた。自分の知らない太一もいるのだと思い知らされた気分だ。当たり前と言えば、その通りの考えに、苛立ちが混じる。
ふと浮かんだのは、太一に疎まれ始めたのではという、恐ろしい考えだった。
嫉妬が激しいのは、お互い様だが、自分のそれは太一のそれに比べて、醜い気がする。心のままに太一に触れたいと思うときもあるし、太一の拒みを押し切って、そうしてしまうこともある。そんな我が儘を、呆れたようなため息と優しい呟きで、太一は受け入れてくれるのだ。それも、やがてなくなっていくのかもしれない。
悪いように考え始めると、坂を転げ落ちるように自分のダメな点ばかりが思い出された。 馬鹿げたことで怒り、くだらないことで落ち込み、そうして、そんなことをいつまでもじめじめとひきずってしまう。
自己嫌悪に浸り込む前に、太一に嫌われたのではないと分かったのは、幸いだった。
これで、拒まれたらとびくびくしながら、ヤマトは飲みかけのペットボトルを持った太一に顔を近づけた。ここが裏庭で、グラウンドや校舎から歓声も聞こえてくるような時間帯だということは忘れ、ただ太一が拒むか、拒まないかが、ヤマトの心を占めていた。
「お前……」
太一が一瞬目を見張り、すぐにペットボトルの蓋を閉めた。
太一の手が伸びて、ヤマトの頬に触れる。同じように太一の耳の辺りに、ヤマトも手を伸ばす。瞼が閉じられるのを確かめてから、ヤマトは唇を寄せた。
太一が今まで飲んでいたスポーツドリンクの甘さが舌に感じられる。唇は離しても、体は離さなかった。キスだけでは不安だった。
太一の膝から、ペットボトルが落ちて、わずかな中身がちゃぷんと揺れた。
「あ……」
シャツの裾から手を入れて、太一の肌に触れる。
太一に押しのけられる前に、ヤマトはシャツを上げ、胸に顔を伏せた。唇と舌で触れれば、日に焼けていない肌も、滑らかだった。
「おい!」
太一がヤマトの肩を押し、引き離そうとする。ヤマトは顔を上げ、太一と目を合わせた。
自分がどんな顔をしているか、ヤマトには分からなかった。目に薄い膜が張った気もしたが、泣いているとは考えたくない。
太一は息を止めると、ヤマトを押し戻すのを止めた。
「……あんまり長くするなよ」
太一は体の力を抜くと、ヤマトに身を委ねた。
その重みと温もりを受け止め、ヤマトは太一にもう一度、口づけた。太一がゆっくり唇を開き、ヤマトの舌に応える。
もっと激しく、荒々しく服を剥ぎ取りたいという心をヤマトは抑え、静かに太一のシャツのボタンを外した。シャツの奥にあった太一の肌の匂いに、体中が熱くなる。
唇は肌に当てたまま、手だけで太一のベルトをゆるめた。忍び込ませた指先が、太一の喘ぎを誘い、ヤマトは動きを早くした。
指と舌で、太一を追い上げてやる。自分ではなく、まず太一の熱を解放させたかった。
太一は無意識にか、ヤマトに抱きついてくる。首筋を吸いながら、ヤマトは好きだとささやいた。こう言えば、太一は必ず、同じ言葉を返してくれる。ヤマトよりは、もう少し切なげなその告白の言葉を聞きたかった。
太一がうっすらと眼を開ける。
その眼差しにヤマトは情欲を忘れた。太一の目はヤマトだけを映していた。ひたむきに、ヤマトだけを。
どうして太一を疑い、恐れていたのだろう。心から想われていると、ヤマトは今度こそ、泣きたくなった。
「太一……」
心から溢れたものが、目からも溢れそうだ。
太一はヤマトの耳元で、好きだと何度も繰り返した。その言葉を聞くのも、太一を抱きしめるのも初めてではない。それだというのに、何もかもが、ヤマトをとまどわせた。
「太一」
声が震えてしまう。太一に変に思われないかと恐れ、それでも言った。
「好きだ」
「俺も」
それ以上、太一への愛撫も続けられず、ヤマトはしっかり太一を抱きしめた。好きだという言葉も、もう言えない。口づけても、抱きしめても、安堵と共に恐れも湧いてくる。たぶん、あまりに幸福だからだろう。
今出来たのは、太一を抱く手に力をこめることだけだった。背中に回った太一の手にも、ヤマトと同じだけ、力がこもる。
昼休みに交わした口づけの中で一番長いそれが終わる頃、予鈴が鳴った。
ヤマトは服装を乱した太一の身支度を、手伝ってやった。
「お前さ」
太一はボタンを留めることは、ヤマトにまかせて、代わりにヤマトの髪に指を絡めていた。
髪を引っ張るようにしながら、太一はヤマトに訊く。短くしたとはいえ、それくらいの長さが、ヤマトの髪にはまだあった。
「何かあったのか?」
「別に」
太一のこんな鈍感さに、ため息がこぼれた。原因が自分にあるとは、夢にも思わないのだろう。それでも心配そうに太一はヤマトを見つめてくる。
「あるだろ、ヤマト」
「ないって」
ボタンを留め終え、ヤマトは立ち上がると、服の埃を払った。
「遅刻するぞ」
「ああ」
太一は呆けたような顔でうなずき、立ち上がった。
手を貸そうとしたヤマトの手を叩いてから、握りしめる。ヤマトは微笑し、手を握り返した。ヤマトの手を包む太一の手はあたたかく、力強い。
太一が笑い返したので、途中まで指を絡めたまま、歩いた。
校舎の影を出る前、強い風が吹き付け、木々を強く揺らした。葉や枝が擦れ合うその音に、太一がものすごい勢いで振り返ったので、ヤマトも振り返る。
「太一、どうかしたのか」
太一はうろたえたように、首を振り、もごもごと口中で何か言った。
「何だって?」
聞き返すヤマトに太一は再度つぶやいた。
「え?」
「ほら、行くぞ」
太一がヤマトの手を引っ張る。手を引かれ、歩きながら、ヤマトは振り返った。淡い緑の葉が茂る梢が揺れている。
――デジモンが、出てきたかと思った。
太一のつぶやきを思い出しながら、まだ揺れている木を眺め、耳を澄ませる。
風が木を揺らす音は、翼持つデジモンが羽ばたく音に聞こえなくもない。ヤマトは太一の背中に視線を戻し、妙なことを思いつく奴だと、太一に聞こえないように静かに笑った。
※
嫌われていないのだという喜びは、長く続かなかった。
太一は相変わらず、何か考え込んでいるようだったし、そうでないときは、じつに明るく振る舞っていた。それをわざとらしいと勘ぐる自分が、ヤマトは嫌になるが、どうしてもそうとしか見えない。
休み時間に教室の前を通りがかれば、太一の笑い声が聞こえ、廊下を駆けていく姿も見られる。ヤマトを避けるわけでもないし、それを言うなら、前以上に太一は、ヤマトと居たがるようになった。そして側にいればいるほど、太一が何か思い悩んでいるということもヤマトには分かる。
何度、どうしたと訊ねかけただろう。休み時間の合間、放課後、擦れ違ったとき、まだ肌寒い帰り道を歩く途中、二人でいるすべての時間に、一体何を悩んでいるのだと言いかけた。
だが、何も聞けず、代わりに、ごまかすような笑いが得意になっただけだ。口づけても、体を重ねても、今の太一の心の奥底が見えない。
震える声や熱くなる体、すがる腕にも、太一からの想いは感じられるというのに、これ以上何が欲しいというだろう。俺は欲張りだと、傍らで眠る太一の髪を梳きながらヤマトは思った。
薄闇の中、太一の顔がおぼろに浮かび、二人分の息づかいが響く。太一の頬をつまみ、ヤマトはため息のようにして笑った。
自分自身というちっぽけなものと引き替えに、太一の全てを手に入れることができた。もっと素晴らしいものを得られるはずの太一は、ヤマトのものだ。ふとした一瞬に、それがどれだけの幸運だったのかを思い知らされている。
幸福だから怖いのか、怖いから幸福なのか。ただ太一だけが愛おしい。
「太一」
太一から手を引いて、ヤマトはうなだれた。
「教えてくれよ―― 」
面と向かっていえない自分が腹立たしい。同時に心を秘め隠す太一が憎らしく、なおも愛おしい。
強くなれたはずだ。太一一人の心を受け止められるくらいには、成長できたはずだった。けれど、太一も成長してしまった。三年前から、そうだったのかもしれない。太一はヤマトよりも先を見つめ、自分が見た苦しいものすべてを一人で抱え込む。教えてもくれず、見せようともしないで最後まで我慢する。我慢した挙げ句、壊れてしまうことだってありえるだろうに。
体を横たえ、太一を腕の中に抱き寄せた。太一は、むずかるように体を捻ったが、すぐにおとなしくなる。
寝息を首筋に感じながら、ヤマトは太一の額に口づけた。眠っているときの太一はあどけない。寝顔だけは、三年前から、変わっていないようだった。
太一を思いながら、目を閉じる。眠りに落ちるわずかな間だけ、なんの不安もないというのが哀しかった。
※
「――石田」
雨音に声がかき消されたので、ヤマトが振り向くまでに、もう一回クラスメイトは彼の名を呼ばなければならなかった。
「石田」
ようやくヤマトは振り返り、クラスメイトが扉近くを指しているのに気づいた。
「八神、来てる」
ヤマトの目にどこか浮かない顔をした太一が映った。
友人に礼を言って、太一のもとへ行く。
「太一」
「あのさ、ヤマト」
太一は前置きも無しに、明後日の休みに会う約束は無しにしてくれと頼んできた。
「……別にいいけど、理由は?」
「部活の奴と、ちょっと……。この間の試合、負けたから、自主トレしようかって」
気が咎めるのか、太一はヤマトから目を逸らした。
それに苛立ちながらも、ヤマトはうなずいた。
「分かった。がんばれよ」
「ああ。ありがとうな」
太一がほっとしたように笑う。
考えていた予定が狂うが、それも仕方ない。空いた時間は、ギターでも練習することにしよう。ヤマトは太一にぎこちない笑みを返した。
休日前日になると、今度は光子郎から呼び出された。
上級生ばかりが行き交う廊下でも、生真面目な表情を崩さない後輩に、ヤマトは負けじと表情を引き締めた。
「どうかしたのか?」
光子郎はヤマトよりも太一に会いに行くことが多いのだ。最近はとくに事件もないので、ヤマトに会いに来るとはめずらしい。
光子郎はしばらく考え込むように、眉を寄せていたが、やがて小声で太一さんが、とつぶやいた。
「太一が、どうかしたのか」
表情を隠していたヤマトだったが、途端に動揺を面に表した。
「その……何か変だなと思いませんか?」
「お前も知ってるのか?」
互いに言葉が途切れてしまう。廊下では他の生徒の耳もあるので、人の来ない廊下のはずれに場所を移した。春だというのに、雨が続いているため、昼間でも薄暗い廊下の空気は冷えている。せっかくの桜も散ってしまうに違いない。
光子郎はためらいがちに、ヤマトに切り出した。
「昨日、太一さんに訊かれたんです」
デジタルワールドへのゲートは、光が丘の他にないかと、太一は訊ねてきたのだそうだ。
「ゲート? それなら、タケルたちのD3で開けるだろ?」
不思議そうなヤマトに、光子郎は首を振った。
「自然な―― もとから存在しているような所はないかって、太一さんは言ってました」
ヤマトはゆっくり息を吸った。
光子郎は、ヤマトを見つめている。
「あるのか?」
「どこかに、としか言えませんけど、あります」
その答えにヤマトはほっとした。
光子郎も表情を和らげ、微笑する。
「きっと、世界中にありますよ」
「そうか」
ただ、と光子郎は声を低くした。
「開く方法は分かりません」
「だから、D3で――」
光子郎がため息をつく。馬鹿にされた気がし、ヤマトは眉を寄せた。
「D3ならゲートは開けるだろ」
「開けますよ。でも……」
光子郎は苛立ったように唇を噛んだ。
「太一さんが知りたいのは、そういうことじゃないんですよ、きっと」
「じゃあ何だよ」
「……僕だって知りません」
太一さんは教えてくれないと、光子郎はつぶやき、うなだれた。
「ヤマトさんには、分かりますか」
独り言のような光子郎の言葉に、ヤマトは黙り込んだままだった。 チャイムが鳴るからと、静かに立ち去ろうとした光子郎を止めもせず、ヤマトは壁をにらみつけていた。
そうだ。太一は教えてくれない。あまりの歯がゆさに、ヤマトは床を蹴りつけ、爪先に走る痛みと共に教室へ戻った。
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