道の果て



 受け継がれたということは、手離したことでもあるのだと気づくには、幾らかの時間が必要だった。日々は、あまりにめまぐるしく流れ、生まれた新しい想いとぬくもりに夢中になり、恵まれた時間ばかりを過ごしているのだと、思っていた。 
 自分たちが何を失ってしまったのかは知らず、ただ互いを信じ、想い合っていれば、それで良かった。幸福だった。
 そうして気がつけば、あの日々は遠く、眩しいものに変わっている。戻らない時間の苦さを知った、あの日の想いは、ただ喪失という言葉だけでは表せない。

 桜の花が咲いている間が、春だというのなら、もうすぐそれも終わるだろう。新学期を迎えてのヤマトの変化といえば、進級したこと、新入生が入ったこと、それに髪を少し切ったことだった。 
 髪を切ったのには、立派な理由がある。別に最上級生になったけじめだとか、教師に注意されたからだとか、そんなことではない。太一に言われたからだ。
 期待していた最後のクラス替えも、当てが外れ、太一とは隣のクラス同士になっただけの四月の始め。落ち込むヤマトを慰めようと思ったのか、太一がひょっこり顔を見せた。
「そんなに気にするなって。新しいクラスも楽しいだろ?」
 早速クラスメイト達と馴染んでしまった太一らしい言葉に、ヤマトはため息をついた。
 来年の春はどうなっているか分からないのだから、せめて最後の一年は太一と過ごしたかった。そう言うと、太一は困ったように笑って、機嫌を直せと口づけてきた。
「直るか」
 宥めるようなキスにむっとして、ヤマトはそっぽを向く。
 子どもっぽい態度だとは思うのだが、太一の余裕が気にくわない。もう少し、同じクラスになれなかった無念さを表してくれてもいいではないか。
「ヤマト」
 すねたようなヤマトに、笑いを我慢して、太一はヤマトの膝に上った。
「隣なんだから、体育も一緒だしさ。な?」
 太一に頬を挟まれる。瞳の優しさに、ヤマトは諦めのため息をついた。素直に降伏したと認めたくなかったので、憎まれ口を叩く。
「太一、重い」
「……悪かったな」
 太一が下りようとするので、ヤマトは太一の頬に唇を押し当てた。
「重いんじゃなかったのか」
 太一がくすぐったげに笑い声を漏らす。
「だから――」
 ベッドがいいとヤマトが言うと、太一は明るい部屋を眺めまわした。
「まだ昼前だぜ」
「ダメか?」
「いい」
 太一はあっさりと服を脱ぎ始めようとした。この大らかさが魅力でもあるのだが、恥じらいが無いというのも少しつまらない。
 複雑な思いでベッドに横になった裸身を見つめていると、太一は顔を赤くした。じろじろ見るなと怒られたので、笑ってキスをする。
 引き締まった太一の体が、自分の腕の中で波打って、熱くなるのが好きだ。じゃれ合うように互いに触れ合って、笑い声よりもため息しか出なくなる頃、ヤマトはそっと太一の膝を割った。
 太一が柔らかい声を上げて、ヤマトに掴まってくる。汗ばんだ肌に髪が張り付いたが、その感触も気にならないほど、太一を感じている。喉を見せる太一に何度も口づけて、同じく汗の浮かんだ肌を味わった。
 少しして、ヤマトが太一から離れると、太一は眉を寄せている。繋がりが解けるときの、悩ましい表情と、甘い声はいつものことなので、それほど心配はしなかった。
 先に情事の後始末をと思ったのだが、太一の横でまどろむ誘惑に、つい負けてしまった。
「なあ、ヤマト」
 かすれた太一の声が耳に響く。眠気の中で聞く太一の声もヤマトは好きだった。
「もう少ししたら、シャワー、浴びるからな」
 太一への答えを先に言ったつもりだったが、太一は笑って首を振る。
 まだ湿っているヤマトの額を撫で、太一はヤマトの髪をつまんだ。ヤマトは目を閉じて、太一の指が自分の髪をいじるのを楽しむ。
「ヤマト、髪の毛、切ってやろうか」
「遠慮しとく」
 どんな髪型にされるか、想像しただけで怖くなった。
 ヤマトが目を薄く開いて、太一を見ると、難しい顔をしている。
「なんか、こう……うっとうしいんだよな」
「うっとうしい?」
 顔には出さず、ヤマトは動揺した。
 太一は敏感に、それに気づき、ヤマトに体を寄せてきた。太一の体はもう汗が冷え始めていて、ひんやりとしている。
「くっついたとき、くすぐったいんだよ」
「だから、切れってことか」
 おどかされた仕返しに、太一をくすぐった。太一が暴れたので、おとなしくさせるために抱きしめて、ヤマトは前髪で太一にまた悪戯した。
「止めろって」
「イヤだ」
 そうやって太一に触れている間に、くすぐる以外の別のことまでやりたくなり、指先に別の動きも加えた。太一は、吐息を漏らしただけで、嫌がらなかったので、そこでその話は終わってしまった。
 それでもヤマトは翌週には髪を切ってしまい、太一の何気ない要望に応えた。
 家事をするにも邪魔なときがあるし、結ぶには中途半端な長さだったので、ちょうどいい機会だったかもしれない。
 そんな髪を短くしたヤマトへの、太一の最初の一言は、へえ、だった。それきり何も言わず、じっとヤマトを見つめている。
「変か?」
 短すぎる気もしたのだ。どうも床屋とは相性が合わない気が、小学生の頃からしてならない。太一が黙っているので、ヤマトは問い直した。
「なあ、変か?」
 少し声を大きくすると、太一ははっとうなずきかけ、あわてて首を振った。
「いいんじゃねえの」
 太一は眩しそうに目を細めた。視線に照れて、ヤマトは目を逸らした。
「それだったら、くすぐったくないよな」
 太一が顔を寄せてくる。まだ早朝の人気のない道ばただったので、出来たことだ。
「あ、大丈夫だ」
 太一がすぐ近くで笑うので、迷いながらヤマトは太一の肩に手を置いた。
 呼びかけようとすると、不意に太一が訊ねてきた。
「ヤマトは髪が長い方が好きなのか?」
「そういう訳でもないけど……」
 後から思い返せば、それが最初の異変だったかもしれない。けれど、太一の声音は不審に思うには明るすぎた。
「俺、長いのも好きだけど、短いのも好きだったな」
「短いって、小学校の時みたいなやつか?」
 そうだと太一は笑って、ヤマトから離れた。行き場を失った手を下ろして、ヤマトは太一と共に歩き始めた。

 太一の様子が変だということに気づいたのが、いつなのかはよく分からない。
例えば、名を呼んだとき、こちらを向くタイミングが一秒ほど遅く、話しかけると、返事もわずかな間を置いてから、返ってくる。ぼんやりしていることが多くなったのか、それとも何か考え事をしているのか、ヤマトが隣りに立ったことにも気づかないときさえあった。  
 ささやかなことなのだが、気づき始めれば、不安になる。そんな小さなことを不審に思うほど、太一との付き合いは長く、過ごした時間も多い。
 どうかしたのかヤマトが訊くと、間を置いて、何がと逆に問い返される。何かあるだろと言い返すのを止めたのは、太一の横顔を見たせいだ。
 自惚れもあるだろうが、自分ほど太一の表情を見知った者もいまい。世界中で、ヤマトだけしか知らない表情もある。自分の指先や唇、吐息で変わっていく太一のその表情に、何度胸を熱くしたか、数えられないほどだ。
 それなのに、隅々まで知ったと思える太一だというのに、そのときの太一はヤマトの知らない太一だった。
 貸していた教科書を返してもらおうと、太一の教室まで行った。  
 HRもとっくに終わり、部活動の始まる放課後の時間帯だった。途中ですれ違った男子生徒がサッカー部の部員だったので、ヤマトは足を早めた。ひょっとしたら、太一もグラウンドに行ってしまったのかもしれない。
 バンド仲間との約束の時間に間に合えばいいのだがと、ヤマトは最後まで閉められていない教室の戸に手をかけた。
 慌ただしい放課後の始まりだというのに、太一の居る教室は静かだ。ちらりと見えた太一の姿になぜか、ヤマトは音がしないよう戸を開けた。
 スポーツバッグが載った机の前に、太一は立っている。中身を確かめようとして、ふと手を止めたとでもいうように、バッグからは白い体操着がはみ出ていた。
 呼吸のため、かすかに肩と胸は動いているが、それ以外に動きはない。後頭部しか見えなかったので、分からないが、まばたきすらしていないように思えた。
 ヤマトが教室に入ったことも気がつかず、太一は窓の外を眺めている。窓から見えるのはグラウンドと、その向こうに広がる街。見飽きあるくらいに、いつも見ている眺めだ。
 正面に回っておどかしてみよう。軽い悪戯気分でヤマトは足を進めた。そこに太一に対する恐れが混じっているとは信じたくなかった。
 一歩進むごとに太一の横顔が見えてくる。まだ明るい太陽が、太一を照らし出していた。
 太一の横顔は、正面から見つめるより、表情が柔らかい気がする。もちろんどこから見つめる太一も好きだ。
 だが、今の太一の横顔はどこか遠かった。眼差しも、表情も、ヤマトの知る太一とは違う。 大人びたというには寂しげで、何かを堪えるような風に見える。せめて、涙でも浮かべていてくれたなら、堂々と近づけた。
 ヤマトは拳を作った。太一が我慢しているのは涙ではない、別の何かだ。たった一人で堪えるような何か。拒まれるのではなく、あの太一の見ている世界に最初からヤマトはいない。
 息を止めたヤマトに、太一はすぐに気づいた。
「ヤマト、どうしたんだ?」
 多少罰の悪いように太一は笑った。ごまかし笑いにも見えるのが悲しい。
「――教科書」
 ヤマトはわざとむすりとした声で答えた。
 今まで太一を見つめていたことを知られたくなかった。
「教科書?」
「お前なあ……。数学の教科書、貸しただろ」
 太一は慌てて床に置いていた鞄を開け、すでにしまい込んでいたヤマトの教科書を取り出した。
「悪い、忘れてた」
「だろ。取りに来て良かったぜ」
 教科書を受け取る手が震えたのを、ごまかそうと、ヤマトは急ぎ足でまた教室を出ようとした。
「ヤマト」
 振り返った先にいたのは、太一だ。逆光で細かい表情は、よく分からないが、普段通りの太一がいる。
「今から、練習?」
「ああ」
 太一はスポーツバッグと鞄を持ち上げ、近づいてきた。
「下まで一緒に行こう」
 うなずいて、ヤマトは太一の腕をつかんだ。
「太一」
 一歩先を行きかけた太一の目が、驚きに見開かれる。
 勢いがありすぎて、ヤマトの唇は太一の唇からは、多少ずれてしまった。それでも、お互いの唇の柔らかさは残っている。
「ヤマト」
 太一は照れたようにヤマトに掴まれた腕を引いた。
「あ……」
「何だよ、いきなり」
 悪いと目を伏せたヤマトに、太一は笑った。
「人いないから、いいか」
 太一は手にした荷物を戸口近くの机に置いて、手を伸ばす。今度はヤマトが太一に腕をつかまれる番だった。
 太一はゆっくりとヤマトに顔を近づけたので、唇がずれることもない。教科書は机の上に放り投げて、ヤマトは目を閉じた。
 短いキスを何度か繰り返した後、重ねていた太一の唇が、引きつるように動いたので、ヤマトは思わず目を開けた。
 おかしそうな太一の目とぶつかる。
「……何、笑ってんだよ」
 唇を離して太一に問う。太一は喉の奥で笑いながら、ヤマトに抱きついてきた。
「お前、睫毛長いなあ。ばさばさしてる」
 太一はヤマトの横顔をしばらく見つめ、肩に頬を載せた。
「目に入ったら、痛そうだな」
 ため息を隠すように太一はささやき、ヤマトを抱く手に力をこめた。甘えたいのは太一なのか、それとも自分なのか分からないまま、ヤマトは太一を抱き返した。服の下で息づく体に、頭の芯が痺れていく。
「……家、来るか、太一」
 返事に間があるのは、太一が迷っているからだと思うことにした。
「――今日は、止めとく」
 言葉と同時に太一は身を引き、ヤマトは太一を離した。
「あーあ、怒られるな」
 時計を見上げた太一はヤマトの教科書を取り上げ、ヤマトに渡す。
「行こう」
 自分の荷物も持ち、太一は歩き出した。言いかけた言葉を呑み込んで、ヤマトは太一を追う。いつの間にか、太陽は赤みを帯び、廊下の空気は冷たくなっていた。


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