たまにはさ
5



「……旨そう!」
 食卓にもられた料理の数々を見て、太一がため息を洩らした。
 季節の魚の活け造りを始めとする色鮮やかな、目にも鼻にも楽しい料理にヤマトもため息をもらす。
「こちらは火をおつけになって、その火が消えてからお召し上がり下さい。ご飯はこちらにありますので」
 おひつを見せ、いくつか説明をすると、女将は部屋を出ていく。
 太一とヤマトは向かい合って座ると早速食べ始めた。
「この出汁なんで取ったんだろ?」
 すりみが浸された前菜の一つを口に運んで、ヤマトが首をかしげる。
「鰹? ワカメ?」
「どっちでもいいじゃん」
 イカの刺身を取った太一がふと悪戯っぽい笑みを見せた。
「ヤマト」
 前菜を食べていたヤマトは顔を上げる。
「はい、あーん」
「おい!」
 身を乗り出して、太一はヤマトに迫る。ヤマトはたじろいだが、せまる刺身にしょうがなく口を開く。
 太一がヤマトの口にイカを入れる。
「――!!」
 ヤマトが口を押さえた。
 この鼻につんとくる辛さは半端ではない。むせるのを堪えて、お茶を飲む。
「あれ、辛かったか?」
 太一が澄まして言う。――やられた、と思った。
「太一、お前……」
「ヤマト、まだガキだなあ。ワサビが食べられないなんて」
「今のはつけすぎだ!」
 太一は涙目のヤマトを受け流して、茶碗蒸しを食べている。
 何か仕返しをしてやろうとヤマトは考えたが、同じ手に太一は乗せられないだろうし、かと言って、他に何かいい手はあるだろうか?
 ヤマトの視線にも気づかず、太一は呑気に銀杏って苦手だなあとつぶいている。
「そうだ、忘れてた」
 太一は箸を置いて、立ち上がった。
「どうした?」
「ここの風呂にも入ろうと思ってさ」
 太一が席を立った隙にヤマトは、しょうもないとは思ったが、お茶にワサビを入れて、そしらぬ顔で食事を続けた。
「だって檜風呂だもんな」
 太一がつぶやきながら戻ってくる。ヤマトはちょっと辛目の和え物を太一に勧めた。
「これ?」
「そう」
 ぴりっと舌を刺す味なので、お茶が欲しくなること間違いない。
 太一は一口食べて、予想通りお茶に手を伸ばした。なるべく妙な視線にならないようにヤマトは太一の様子をうかがっている。
 湯飲みに口をつけたところで、太一が顔を上げた。
「ヤマト、風呂に何か忘れてたぜ」
「え、俺の?」
「うん」
 何だろうとヤマトは立ち上がって、風呂場へ行く。
「何もないぜ」
「え、そうか? なんか歯ブラシがあったと思うけど」
「あれは自分で置いたんだ」
「何だ」
 太一はうなずいて、小鍋の蓋を開けた。ヤマトは太一のお茶をちらりと見た。
 間違いなく減っているのに、太一の様子には何の変化もない。
 量が少なかったかなとヤマトは自分のお茶を飲んだ。
「――!!」
 むせたヤマトの目に太一の笑顔が映った。
「気が付くかと思ったのに」
 太一が笑う。
「自分でしかけておいたのに、引っかかってやんの」
 素直に太一の言葉に従った自分が、恨めしい。湯飲みをすり替えられるという可能性に気づかなかったのだ。
「太一……」
 もはや仕返ししようと思う気持ちもなくして、ヤマトはがっくりうなだれた。

 食器を引き取りに来てもらったとき、ヤマトは上に羽織る丹前を取り上げて、外へ出ていった。
「散歩してくる」
 下駄の音が遠ざかっていく。
   太一はどうしようかと迷ったように仲居たちが食器を運び出すのを見ていたが、すぐに自分も追いかけた。
 あの悪戯のせいでヤマトの様子が変わっていた。冷たくはないけれど、少しだけよそよそしい。
 悪ふざけが過ぎた――それは分かっている。
 でもそんな子供じみたことをしかけずにはいられないほど、自分の体の熱はどんどん高まっていて、ヤマトの顔を見ただけで、涙ぐみそうになっている。
 自分をごまかそうとはしゃいでみても、空回りするばかりだった。
 太一の下駄の音を聞きつけて、ヤマトが振り返った。
 庭の石灯籠に小さな明かりが灯っているだけなので、ヤマトの表情は分からない。自分の顔も見えないのだと思い、太一はほっとした。
「ヤマト……」
「なんだ、お前も来たのか」
 ヤマトは足を止め、太一を待っている。並んで歩きたくなくて、太一も立ち止まった。
 ヤマトはしばらく黙っていたが、太一が突っ立ったままなので仕方なく歩き出す。
 太一も後から付いていく。下駄の音に混じって、波の音が微かに聞こえてくる。
「ここ、星きれいだな」
 ふとヤマトがつぶやいた。太一も空を見上げ、うなずいた。
「本当だ」
 天の川見えるかな、と太一は空を見まわした。
 ヤマトも空を見上げ、それから太一を見た。
「なあ、太一」
 ヤマトが静かな調子で言った。
「やっぱり旅行嫌だったか」
「なんで、そんなこと聞くんだよ」
「夕飯の時、なんか変だったから、ちょっと気になったんだ」
「……俺、変だった?」
「無理してるみたいだった」
「そんなことない」
「風呂に行ったときのせいか?」
 太一はたまらず自分の拳を握った。心臓がどきどきしてくる。
「……俺、舞い上がってたみたいだ」
 ヤマトは長いため息をついて、腕を組んだ。
「よく考えたら、中学生が二人きりで旅行するって、まだ早かったかもな」
 顔が熱い。唇にヤマトのキスの感触が戻ってくる。
「頭も冷えたし、今日は、もう早めに寝るか」
 ヤマトが離れに戻ろうと近づいてくる。太一の側まで来て、ヤマトは不思議そうに太一の顔をのぞきこんだ。
「太一?」
「――見るなよ!」
 太一はヤマトが太一の表情に気づいて、腕をつかもうとするのを払って、叫んだ。
「さっさと寝て来いよ」
「お前、何泣いてるんだよ」
「これは汗だよ」
「バカ、目から汗出すやつがどこにいるんだ」
 ヤマトは太一の顔を上げさせようとしたが、太一は抵抗した。
「触るな!」
「触るなって……なんで泣いてるか訳くらい聞かせろ」
「知らねえよ」
 ヤマトは力を込めて、太一の手をつかみ、顔を上げさせた。
「そんなに泣いて、知らないもあるか!」
「俺だって、泣きたくねえよ! 勝手に出てくるんだから仕方ないだろ!」
「勝手にって……」
 ヤマトは荒い息を吐く太一をじっと見つめた。
「俺、何かしたか? その……風呂、入ったとき以外ってことだけど」
「いっぱいしてるだろ」
「……お前のこと見てたこととか?」
 部屋に戻って髪を拭いていたときの太一や、荷物を片づけている太一を気づかれないように見つめていた。こんな浴衣姿は初めて見たから、ひどく新鮮で、まるで初めて太一を見るみたいだった。そんな視線に気づいていたのだろうか。
 隠しようもない欲望を込めた視線を太一は知って、それで嫌がったのかもしれない。
「見てたのか?」
 太一は涙を急いで拭って、不思議そうに聞いた。
「え、あ……」
 どうやら気づいてなかったらしい。
 太一は顔をそむけた。
「でも、そんなんじゃない。もっと……」
「もっと?」
 ヤマトの吐息が太一の前髪にかかった。揺れた髪が、額をくすぐる。
 自分の髪ではなく、ヤマトの指が触れたと思うくらいに、その感触は艶めかしかった。
 ヤマトがつかんでいる太一の手が震えだした。目がまた潤んでくる。
「太一」
 ヤマトが心配そうに顔をのぞき込む。
 気が付けば、鼻と鼻が触れ合うくらいに顔を近づけていた。お互いの吐息が甘く絡みあう。
「太一?」
 涙ぐむ太一にどう接してよいか分からず、ヤマトは優しくささやいた。
「太一、どうしたんだ。言ってくれよ」
「……ヤマト」
「うん?」
 言葉と一緒に涙もこぼれてきた。
「部屋、帰りたい」
「――分かった」
 何か聞き出すのは諦めて、ヤマトはうなずいた。
 妙に情緒不安定な様子は気にかかるが、今はそっとしておいた方がいいだろう。
 太一の手を離しかけて、ヤマトはちょっと迷った。
 手を動かして、驚かさないように優しく手を握る。
「これくらいはいいか?」
 太一の返事はなく、代わりにヤマトの手を握り返す感触があった。太一の顔を見ないようにして、ヤマトは歩きだした。
 庭は涼しいのに、手は熱い。そして太一の体の熱はもっと熱い。
 この熱を冷やしてくれるのはヤマトにしかできないのに、どうしても、どうしてもその一言が太一には言い出せない。

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