――下心がなかったと言えば嘘になる。 風呂場に客が一人もいなかったら……と考えていたのは否定しない。
なにしろせっかくの二人きりの旅行なのだ。
正面切って釘を刺されたのにはちょっとショックは大きいが、誰もいない湯船の中でお湯をはね上げて遊ぶ太一を見ているとまあいいか、などと思ってしまう。
「お前、ちゃんとかけ湯したか?」
「うるせえな」
太一はクロールで湯船の端までいくと、今度は背泳ぎで戻ってきた。
「お前も早く入れよ」
「体洗ってからな」
ヤマトは洗面器と腰掛けを取ると、鏡の前に座った。
「ヤマト――!」
太一がざばあっと音を立てて上がってくる。
「入らないのか?」
「洗ってから入る」
「なんだよ、早く来いって」
太一はヤマトの腕を引っ張る。
「洗ってからだ」
意固地になって立とうとしないヤマトに太一は不満そうにまた湯船に戻っていった。
「つまんねえの。俺、露天にいるな」
太一は続きのガラス戸を開けて、行ってしまった。
静かな浴室にお湯が溢れる音だけが響く。ヤマトはある意味ほっとして、備えてある石鹸に手を伸ばす。
スポンジに泡を含ませながら、ヤマトはため息をついた。
(……つらいな)
さすがに誰か他の泊まり客が入ってくる可能性のあるこんな場所で、太一になにかしかけるわけにはいかないだろう。
けれど、見たところ客はいないらしい。 通ってきた広間にもさきほどの女将がいたくらいで、泊まり客は他にいないようなのだ。
ダメだと言われると余計にやりたくなるのが人間の性だともいうが、誰もいないのなら、ちょっとくらいはいいのでは――。
「うーん……」
体をこすりながら、ヤマトはうなった。
露天風呂は奥にあるようだし、あそこなら人が入ってきても見えないかもしれない。
「でもなあ」
(変なことするなよ)
太一の言葉がこだまする。怒らせるとそれは怖いことになるだろうし、かといって黙って耐えるだけというのもしゃくに障る。
どうしようかと考えていると、とうの太一が露天風呂から戻ってきた。
「ヤマト、髪洗ったか?」
「いや、まだだ」
太一がヤマト横に座る。
「露天風呂、すごかったぜ。なんか竹とか石とかあってさあ。景色もいいし」
「ほら、シャンプー」
シャワーを使いながら喋る太一にシャンプーを取ってやって、ヤマトは体の泡を流した。
太一が髪を洗いながらこちらを見る。
「なあ、ヤマト」
「んー」
髪を濡らして、太一と同じく泡を立てていたヤマトは生返事を返した。
太一の体を滑っていく泡や、火照った肌などはちょっと見づらい。見ていると、みっともない反応を見せてしまいそうになりそうだ。
「ここさ、俺たちだけみたいだな、泊まってるのって」
「やっぱりそうか――あ、くそ」
泡が目にしみた。ヤマトは洗面器に溜めていたお湯を顔にかける。
「悪いよな。俺たちだけのためにお風呂とか用意してくれるんだろ」
太一が手の泡を吹き飛ばした。足下を泡が流れていく。
「でも、それも商売だしな」
髪を洗い流すと、いつもの癖でヤマトは頭を振った。
「うわっ」
「あ、悪い」
太一の方に水が跳ねたようだ。タオルを取ろうとヤマトは立ち上がりかけて、思いきり足を滑らせた。
「わっ――」
「おいっ」
太一が手を伸ばす。その腕につかまったが、今度は太一も足を滑らせてしまった。
シャンプーの泡がそこいら中に流れずに残っていたせいらしい。
ヤマトを助けようとして、逆にヤマトにかばわれる形になった太一はあわてて身を起こした。
「ヤマト、大丈夫か?」
「なんとかな」
片手を後頭部に当てて探ってみるとぷくんと膨らんでいる。
タイルの上に人一人抱えて、倒れたのだからしょうがない。ヤマトはもう片手を伸ばして、起きあがろうとした。
「ひゃっ」
太一が妙な声を上げる。
「ヤマト、変なとこ触るなよ」
ヤマトの上にのしかかる体勢のままの太一が言った。
「変って……」
痛さにくらくらする頭を振って、あらためて太一を見上げる。
「どこ――」
ヤマトはぱっと手を離した。
「悪い」
なんだかとても微妙な場所に触れていた。太一の頬がちょっと赤い。
「あ、いや……」
太一がヤマトから急いで離れた。
「俺、体洗うから」
赤くなったまま太一は背を向けた。ヤマトは自分の手と太一を見比べて、ため息をついた。
生殺し。ふとそんな言葉が浮かんだ。
微妙な空気を含んだまま、とりあえず入浴を終えて、脱衣所に上がる。
「コーヒー牛乳ないなあ」
太一が腰にタオルをまいたまま、広い脱衣場を見まわす。
「おい、湯冷めするぞ」
ヤマトはさっさと体を拭いて、浴衣を着始める。さすがというかこの辺の手つきの器用さは太一がかなわないところがある。
「なあ、自販機とかあったかな」
「先に浴衣を着ろって」
太一が振り向いた。文句を言いかけた顔がびっくりしたような表情を浮かべる。
「……」
「太一?」
「なんでもない!」
太一はさっさと浴衣を着始める。ヤマトは何か言いかけたが、鏡の前のドライヤーを取り上げる。
太一は気づかれないようにもう一度ヤマトを見つめた。
(……くそっ、かっこいいじゃねえか)
大人びて、いつもの倍は男っぽく見える。そのせいで妙な色気があるのだ。太一は思わず、どきりとしてしまった。またどきどきし始めた心臓のせいで帯が上手く結べない。
どうにか適当に結んで、ヤマトの横に立つ。
「太一、お前なあ」
ヤマトは太一を見て微笑した。ドライヤーを戻して、太一に手招きする。
「着方が違う。これだと死に装束になるぜ」
「へっ?」
膝をついて太一の浴衣の帯を解く。この辺りまでは、とくに意識していなかった。
小さい頃の弟を扱っているような気分だったのだ。
「こっちを前にするんだよ。結び方もこうで――」
浴衣がはだけられる。まだ湯の香りが残る肌が目の前に映った。
「ヤマト――」
太一の声がかすれた。ダメだともとれるが、その奥に甘いものが入っていたのも確かだ。
浴衣を閉じかけた手が太一の腰をつかむ。立ち上がって、太一を引き寄せた。
下を向こうとした顔を上げさせ、唇を重ねる。
太一の手がヤマトの胸に置かれた。押し返そうか、それとも抱き返そうか、迷いが感じられる。
抵抗がないので、ヤマトははだけたままの浴衣から手を滑らせる。
「ヤマト!」
腰の辺りを探る手をはたいて、太一はヤマトを突き飛ばした。
「痛っ」
腰を鏡台の角にぶつけて、ヤマトはうめいた。
「お前が悪いんだろ」
そう言いながらも心配そうな顔で太一はヤマトのそばに近づいた。
「痛かったか?」
「いや、大丈夫」
ヤマトは罰が悪そうに言った。
「悪かったな、太一」
太一の裸を見た瞬間、かあっと頭に血が昇ってしまった。
「いや、その……」
じっと見つめあって、ヤマトはふうっとため息をついた。
「ほら、浴衣なおしてやるから」
太一の乱れた浴衣を直してやって、ヤマトは太一の頭をぽんと叩いた。
「今度は一人で着ろよ」
「ああ」
さっきよりも、もっと微妙な空気が漂って、太一とヤマトは所在なげに視線をそらした。
「行こうか」
「そうだな」
服やタオルを持って、脱衣場から出る。
先に立って歩くヤマトの背中を見つめて、太一は怒らせたかなと、不安になった。
何を意地を張っているのだ。早く謝って――。
(謝って?)
太一は真っ赤になった。謝って、それからどうなるのだ。
タオルを頭にかぶって、太一はヤマトの今の自分の顔を見られないようにした。
たぶん、どうにも情けない顔をしているだろうから。
自分の体の熱が、ヤマトとキスしたせいでなく、見慣れないヤマトの浴衣姿を見たときから生まれたのだと、太一は気づいていた。
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