――本当だった。
「はい、うかがっております。石田様ですね」
檜の香りがする玄関口で迎えてくれた女性はうなずいた。ここの女将らしく着物の着こなし方や振るまいが粋だ。
ヤマトは確かめようと、名前もつけ加えてもう一度聞いてみた。
「石田ヤマトですが、違うってことはありませんよね?」
「はい。東京の石田ヤマト様で、承っております」
間違いないだろう。呆気にとられたヤマトに宿帳が差し出される。
「こちらにご署名をお願いいたします」
「あ、はい」
ボールペンを取り上げるヤマトの横で、太一は玄関に飾られた盆栽などを呑気に見ている。
「では、お部屋までご案内させて頂きますので」
荷物を持ち上げようとする女将に、自分で持てますからと断ると、ヤマトは太一を呼んだ。
「太一」
「ああ」
すっすっと滑るように歩く女将に付いていきながら、太一はこっそりささやきかけた。
「なあ、俺たちなんだと思われてるかな?」
「さあ……」
兄弟と言うには歳が近すぎるし、親子などは問題外。せいぜい友人といったところだろう。
「でも、なんか、いけないことしてるみたいでわくわくするな」
太一は悪戯っぽく笑った。
「いけないこと?」
「駆け落ちとか、不倫とか」
「なんだよ、それ」
「こちらでございます。お足元に気をつけて……」
そんな話の途中で突然声をかけられてぎょっとするヤマトだった。
「外なんですか?」
太一が用意された履き物に履き替えながら、聞いた。
「はい。離れを用意させて頂きました。お客様の履き物は後でお持ちいたしますので、ひとまずお部屋の方へどうぞ」
案内された離れを見て、今度は太一も目を丸くした。
「部屋風呂もございますので、ご利用下さい。もちろん旅館の方のお風呂もご自由にどうぞ。露天と、岩風呂とございます」
部屋の窓を開け、エアコンをつけると、女将は風呂の利用時間や食事の時間を聞いて、丁寧に膝をついたお辞儀をすると
「では、ごゆっくりどうぞ」
と、ふすまを閉めて行ってしまった。
「すげえ……」
太一は窓から見える海と街の様子に歓声を上げる。
部屋には新しい畳の香りが漂っていて、用意された茶器も座布団も品の良い落ち着いたものばかりだ。
「広いなあ。俺の部屋よりずっと広い!」
ぱたぱたとあちこちのふすまを開け、そのたびに太一は歓声を上げる。
この離れだけで一軒家くらいはあるらしかった。
「あ、風呂もある。おっきいなあ。おい、ヤマト見ろよ」
「ああ」
太一の言うようにどこもかしこも立派すぎるくらい立派だった。
「俺たち騙されてないか?」
太一と一緒に檜の風呂を見たとき、ヤマトはついに疑問を口にした。
「パンフレットの写真とも違うし……」
「どれ?」
太一はだいぶ皺が寄ったパンフレットを広げて、首を捻った。
「確かにだいぶ違うな……」
こんな和風造りではなく、旅館というよりはホテルのような外見をしたその写真に太一も不安を感じたようだ。
「でも、お前の名前でちゃんと予約入ってただろ?」
「そうなんだよな」
とりあえずお茶を入れて、ヤマトは足を崩した。
「こんなとこ泊まれるような金持ってきてないしなあ」
太一がヤマトの入れてくれたお茶を啜る。お茶請けに用意された盆の上の菓子に手を伸ばしたところで、また女将の声がかかった。
「こちらに、お靴を置いておきますので」
「どうもすみません」
ヤマトは立ち上がって、ふすまを開け、離れの玄関で履き物をそろえている女将に、声をかけた。
「あの、ここ本当に山清旅館ですか?」
は? と言う顔をする女将に太一がパンフレットを見せる。
「この写真と違うから、驚いていたんですけど」
「ああ……」
女将の顔がほころんだ。
「これは別館なんです。こちらが本館ということになってまして」
別館の方が街の中心にもあるし、便利がいいので利用客も多いそうなのだ。値段の点でも別館の方が安いらしい。
「俺たちもこっちの別館じゃないんでしょうか?」
「いいえ、さきほど頂いた券ですとこちらの本館になりますので」
安心したようなヤマトと太一にもう一度笑いかけると、女将はまた行ってしまった。
「良かったな」
「ああ」
やっとこれでゆっくりできる。ヤマトはお茶を入れ直そうと急須を持ったが、太一は押入を開けている。
「太一?」
「な、温泉行こう」
収納用の押入から、山清と染め抜きされた浴衣を取り上げ、太一はヤマトを誘った。
「さっき、もう入れるって言ってただろ。行こうぜ」
「もう少し休ませてくれよ」
「爺くさいなあ」
太一はつまらそうな顔になった。
「お前、温泉好きなんだろ。部屋でごろごろしてたってつまらなくないか」
「じゃあ、こっちの風呂、入ればいいだろ」
「露天風呂と岩風呂はあっちだけなんだって」
「俺より、太一の方が温泉好きなんじゃないか?」
ぶつぶつ言いながらヤマトは太一から浴衣を受け取って、タオルや下着の替えを荷物から取り出す。
「太一、行くぞ」
ふと太一はちょっと微妙な表情で下駄を履くヤマトを見つめた。
「なんだ?」
視線に気づいて、ヤマトが振り向いた。
「――変なことするなよ」
「なっ!」
赤くなったヤマトの横をすり抜けて、太一は下駄を鳴らしながら風呂場まで走っていってしまった。
「俺だって、人目くらいは気にする!」
太一の笑い声にかぶさって、ヤマトの声が庭に響いた。
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