La Vie en Rose
9



 ――いつの間にか眠っていたようだ。
 すきま風に体を震わせ、太一は目を覚ました。暗い部屋に人の気配はなく、風に押されて扉がきしんでいる。
 時計の秒針の音がはっきり聞こえた。暗闇に慣れた目に、扉の前に置き去りにされたトランクが映る。
 目がひりひりすると思えば眠りながら、泣いていたらしい。何時なのかとブレスを見れば、日付はとうの昔に変わっていた。
 泣き腫らして痛い目をなおもこすり、太一は途方に暮れたように扉を見た。
「ヤマト」
 返事は返ってこない。いないのは分かっている。
 確かめるように扉を開け、しんとした廊下を見まわした。風の音だけしか聞こえない。
「ヤマト」
 それでもすがるように、今度は浴室のドアを開けた。
 乾いた白い陶器のバスタブと蛇口、シャワーからぽつんと水が滴り落ちた。かすかに石鹸の香りがする。ドアを閉め、居間を見まわした。
 奥のドアが、微かに開いているように見えた。
 胸がざわつき、なぜか足音を忍ばせながら太一はドアの前に立つ。慎重にドアノブに手をかけ、ドアを開けた。
 雑然とした机の上、ヤマトが出ていったときのままだ。
 暗い部屋に居間からの明かりで浮かび上がった白いシーツには、皺一つない。埃っぽいのは換気をしてないからだろう。
「ヤマト?」
 沈黙が返ってきた。
 ――ひとりぼっちだ。
 太一は握ったままのブレスをヤマトの机の上に置くと、寝台に腰掛けた。
 ゆっくり目を閉じ、ため息をつこうとしたが、口からこぼれたのは吐息ではなく、ヤマトの名だった。
 ドアの金具がきしみ、いっそう部屋の静けさをあおる。
「帰って来いよ……」
 つぶやきは太一以外の誰にも聞かれることなく、床に落ちていった。

 風のせいで冷え切った体が重い。もうどの店も閉まっている。人気のない広場には、猫の姿も見えない。四方向に伸びている道をヤマトは見まわした。
 今、立っていた場所からまっすぐ行けば繁華街に出る。そちらに行くつもりはなかった。酒を飲んでも酔えない。もっと別の心が自分を酔わせるように混乱させている。
 右に折れればロベールの部屋がある。家主を始めとして、放蕩者の友人達はまだ騒いでいるに違いない。
 左に行けば自分の部屋があるアパルトマンがある。暗く、誰もいない部屋がヤマトを待っているだろう。
 どの方向にも足を踏み出さず、ヤマトは中央にある噴水の縁に腰を下ろした。
 水面は動かず、かすかに輝いている。手を伸ばし、触れると薄く張っていた氷が儚い音を立てて割れた。氷の張るような水でさえ、温く感じるほど指先は冷えていた。
 濡れた指先に風が刺さるように吹きつけ、ヤマトは手を握った。
 ――太一は今頃、ホテルで眠っているのだろう。教授が太一に紹介したというホテルの名前を教えてもらえばよかったかもしれない。
 いや、もう少し早く電話していれば、引き留められたのかもしれなかった。
 だが、ホテルの場所を知り、そして引き留めてどうする? 
 自分は戻ってこれないが、あの部屋で自由にしていてくれと言うつもりだったのだろうか。都合の良すぎる考えだ。いつか太一は出ていく……日本に帰ってしまうのだ。
 だが、それだけは嫌だ。
 つぶやきに、白い息が舞った。
 ――帰らせたくない。たとえ見つめることしか許されていなくても、太一を自分の腕の届かない場所へ行かせることなど嫌だった。
 三年間の断絶は消えた。けれど代わりにもっと遠ざかった気がする。それも自らの嫉妬のせいで。嫉妬の裏にある激しい執着、欲望に自分でもむなしさを感じる。それでもなお、太一を求めずにはいられない。
 出ていかせたくない。帰らせたくない。
 どこにもいかないように閉じこめて、たとえ誰の名を呼んでも、拒まれても、その目に光子郎の影を見つけてしまっても、自分の側に縛りつけたい。
 どこかの道を歩く酔っぱいの調子外れなクリスマス・ソングが聞こえた。続いて、上機嫌なクリスマスおめでとうと言う大声が。笑い声が響き、遠ざかっていく。手首を返して、時間を確かめてみると十二時をとっくに過ぎていた。
 教授と別れた後は、酒場に入り、少し飲んで歩いた。飲んだ酒の熱が醒めれば、また酒を飲ませる店に入り、客の笑い声が気に障らないうちに出る。その繰り返しだった。
 やがて、賑やかな市街に背を向けるように、ふと目についた教会に入った。
 突然姿を見せた酒の香りがする青年を神父やクリスマス・ミサに参加していた人々は望めば扉は誰にでも開かれていると迎えてくれたが、参加者が聖歌を歌い始める頃にはまた、人ばかり多い冷たい道を歩いていた。
 蝋燭の灯りはあたたかそうに見えたが、あの清らかな光に包まれたくはなかった。見上げた十字架とそこにかけられたキリストの像を見つめている内に、自分は一体何を求めているかを思い知らされるからだ。
 どの界隈を歩き、どんな店に入っても、どんな酒を飲んでも体は温まらなかった。
 体の一部が乾いている。心が火照っている。距離をおいても、時間をおいても消えない。一度触れた太一のあたたかさは消えない。
 唇が震えた。ようやく寒さを感じ、ヤマトは立ち上がる。
 どこへ行こうか。誰もいない部屋か、それとも賑やかな酒場か。
 曇が広がった夜空に星が見える。またたきもせず、空で凍りついてしまったようだ。
 足音を忍ばせ、ヤマトは歩き出した。

 時計の秒針の音がこれほど大きな音だとは思わなかった。
 チクタク、チクタク、時間を刻んでいく。時計の音に耳を澄ませ、ヤマトを想った。
 ――友人という言葉は便利だ。曖昧な意味にもはっきりした意味にも使える。男性にも女性にも構うことなく使える。
 昔からの友人ヤマトは今、どこにいるのだろう。誰の部屋に、誰の横にいるのだろう。
 責めることなどしない。自身の身で考えても、男なら、誰にだって欲求はある。欲望をずっと我慢していられるほど、自分は清らかではない。同性とではなくとも、異性とは何度も交渉を持った。
 女性の柔らかい体にすがりたいのもあったし、男性とならばヤマトを思い出すからだろうという恐れもあった。
 抱きしめられる立場でなく、抱きしめる立場に立ったとき、ヤマトを好きでいた自分を忘れられた。あるいはそんな気がした。そんな欲望だけの一方的な関係は長くは続かなかったが、心とは反対に欲望に燃える体を静めてはくれた。
 終わった後の心の飢餓感に目をつぶっていれば、それはある程度は気休めになったのだ。
 体が先か、心が先か、そんなことは関係ない。心が満たされなくても、体を鎮めれば満足を感じることだってあるのだ。
 二つある合い鍵、一人用にしては大きな寝台、三年間、ヤマト一人しかそれを使わなかったなど、誰が断言できるのだろう。
 たとえ、ヤマト本人から違うと聞かされても信用できない。容姿のことだけでなく、ヤマトの性格や心を知って、想いを抱き、彼を求める女性、あるいは男性はいるだろうから。
 自分だってその一人なのだ。ヤマトだけしか見えていない。ヤマトのことしか考えていない。
 太一は立ち上がって、冷え切ったブレスを手に握りしめた。
 拒んだのは、光子郎に罪悪感を覚えたためか。今なお、その面影が心から消えることなどないのだ。けれど――手の中のブレスの鎖が擦れ合い、微かな音を立てる。
 ――逆に言えば光子郎に罪悪感を覚えるほど、ヤマトのことしか見えていないのかもしれない。自分でも分からなくなる。なんというパラドックスだろう。
 今はただ、ヤマトに会いたかった。誰を抱いてきた腕でもいい。自分に触れて欲しかった。抱きしめて欲しかった。
 一人、立ちつくしたまま、太一はまた小さな声でヤマトとつぶやいた。

 懐かしい気もするアーチの前でヤマトはコートのポケットに手を入れ、自分の部屋の窓を見上げた。当然のことながら、明かりは点いておらず、そこだけは以前こうして窓を見上げたときの同じだった。
 あのときは階段を登りかけ、やはり太一を待とうと振り返ったところで、彼が帰ってきたのだ。
 くしゃみをして、自分の早い帰宅に少し驚いた顔をしていた。
 今、同じように振り返っても闇の中、見慣れた町並みがぼんやり浮かぶだけだ。
 ヤマトは、首を振った。さんざんこの辺りを歩き回ったあげく、足は自分の部屋へと向いている。
 きっと部屋にはまだ太一の気配が残っている。彼が腰掛けた椅子や寄りかかっていた壁、手を伸ばした戸棚、安らいだ寝顔を見せてくれた寝台。太一が訪れて半月も経たないうちに、自分が二年以上過ごした部屋には、隅々まで太一の気配が満ちてしまった。
   これから、あの部屋でまた時を過ごすのだ。太一の気配が薄れるまで、彼のことを思いだし、消えてなお彼を想うのだ。
 幸せと相反する苦さとを感じながら、ヤマトは歩を進めた。
 どうしたらいいのだろう。何も分からない。
 あんなひどい別れ方のまま、ふたたび断絶してしまうのだろうか。
 いや、連絡はいつだって取れる。そう思いながらアーチをくぐった。
 太一の家の電話番号も住所も知っている。知っていてどうすることもできないのが、きっと今の自分であり、これからの自分であるとは理解していたが。
 音を立てないようにマダムの自室も兼ねている管理人室の前を通り過ぎた。
 階段にかけた足、膝を持ち上げて初めて体がどれだけ強張っていたか知った。
 ゆっくりと、たまに立ち止まりながら階段を上がっていく。螺旋を描き、小さく足音を立て、自分の部屋へ。これからまた静かに時を過ごすための部屋へ戻っていく。
 この階段を太一も降りていったのだろう。きっと階下にはマダムが待っていたはずだ。別れの言葉を交わし、手を振りつつ去っていく太一とそれを見送るマダム。目に浮かぶような情景だ。ただし、部屋を出るときの太一がどんな表情をしていたかは想像できない。
 悲しみか、それとも怒りか。それとも何の感情も感じられない表情か。言えるのはどんな太一でも構わないと言うことだ。
 太一が太一でありさえすれば、自分はそう思い続けるだろう。
 ――こみ上げてくる執着心と嫉妬、突き抜けてなおあまりある太一への想い。体への欲望とその笑顔を見つめることだけで幸福を感じてしまうこと、何もかもが真実だった。
 どうしたらいいのだ。言葉で、伝えればいいのか。
 好きだ? 愛している? そう言って、受け止めてもらえるほどの何を行い、どんな時間を重ねてきたのだろう。
 別れと三年の断絶とふたたびの溝。その間にあった幸せな時間はとっくに使い切っている。
 ゆっくり足を引き上げ、段を登った。
 あと少しで自分の部屋だ。


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