La Vie en Rose
8



 自分は何をしているのだろう。
 酔いが醒めたとき思うのはそればかりだった。どれほど周りの喧噪が賑やかで楽しそうなものであっても、ヤマトの心は冷めていく。
 友人同士で集まって騒ぎ、酒場へ繰り出すのが日常になりつつある。しらふでいるときの時間の方が少なかったかもしれなかった。
 飲んでもなかなか乱れなかったヤマトのクリスマスを前にしての変わり様は、友人たちの間で興味深く騒がれたが、ヤマトはからかいまじりの質問に一言として答えなかった。日本からの友人の話も一言としてしない。
 酔いが混じった分、手加減なしの鋭いヤマトの視線に質問を投げかけた友人達も口をつぐみ、ヤマトに故郷とそこから来た友人の話をするのはタブーになった。
 これを機会にと近づく女性達を失礼にならない程度にあしらいながら、ヤマトは自嘲をこめて、またも俺は何をしているのだろうとつぶやいた。
 聖夜の朝から、飲みに出かけるのはさすがに控えたが、それでも転がり込んだ友人の家で、集まった悪友達とヤマトは飲んでいた。
 誰かが持ち込んだのか、シャンパンの栓が開く音がする。今日の夜も騒ぐというのに、朝からよくやるなと部屋の隅でヤマトは輸入品らしい味の悪いビールを飲んでいた。
 生真面目なウォンのアパルトマンは世話になったその日に出た。追い出されたわけではないが、飲んで帰ればあの漢方薬を飲まされるに決まっている。
 酔いを醒ましたくなかった。体に入った酒が多ければ多いほど、この熱は太一を思い出したせいでなく、酒に酔ったせいだとごまかせるからだ。
 誰かがどこかで誘ってきたらしい女性が絡んでくる。柔らかい体に、構うことなくヤマトはビールを飲んでしまうと、次は別の酒に手を伸ばした。誰が持ち込んだのか、様々な種類の酒がある。それでも日本酒はないなとヤマトはだいぶ酩酊した頭で少し考えた。
 今飲んでいるのはどこの酒なのだろう。ラベルを読もうとしたが、手がふらついて、瓶が床に落ちる。ウォッカかなとヤマトは拾いもせず、瓶から酒がこぼれていくのを見ていた。
「ヤマト!」
 突然、ひどく焦ったような声で呼ばれ、ヤマトはのろのろと顔を上げた。
 この部屋の持ち主のロベールが青ざめた顔でヤマトの腕を引く。
「なんだよ」
「教授が来てる」
 ぼんやりした頭に、言葉が理解できるまで数秒かかった。
 他の友人達も同じだったらしく、しばらくしてから皆ぎょっとした顔になった。
 部屋に集まった友人のほとんどが大学で知り合った仲間で、おまけに教授の本当の怖さを知っている連中ばかりだ。
 だが、ヤマトは素っ気ない答えを返した。
「なんで、来るんだよ? お前、何かしたのか」
 ヤマトは腕を振り払ったが、ロベールは苛立ったようにドアの方を指した。
「違う、お前に会いに来てるんだよ」
「俺に?」
「行けよ。俺は関係ないからな」
 そう言って、玄関へ押しやろうとするので、ヤマトも渋々立ち上がった。
「変なこと言うなよ」
「わかってるよ」
 それはおそらく奥の連中が使っている怪しげな薬のことだろう。
 ロベールはドアを開けようとするヤマトにささやくと、さっさと部屋の奥へ姿を消してしまった。
 一人になって初めて自分の酒臭さに気づき、ヤマトは眉を寄せたが、今更どうしようもなく、それでも幾分姿勢を正して、ドアを開けた。
「こんにちは、ヤマト」
 礼儀正しく挨拶され、ヤマトは気圧された。教授の目の鋭さだけは慣れることが出来ない。
 これ以上に、たじろぐのは――太一の目を思いだしかけ、ヤマトは教授に挨拶を返した。
「こんにちは……」
「楽しそうだね?」
 教授は微笑している。皮肉ではない分、ヤマトはとまどった。
「いや、その――」
「立ちっぱなしもなんだ。カフェに行こうか」
 逆らえるはずもなく、コートを羽織るとヤマトは教授に従ってロベールのアパルトマンを後にした。

 カフェの中でもとくにあたたかい場所に、上手く席を占めると教授は帽子を取り、マフラーを外した。手袋も外し、テーブルの上で手を組んで、ヤマトをじっと見つめる。
 運ばれたカフェ・オレに手もつけず、ヤマトは気まずげに教授から目を逸らす。
「風邪を引いていたと聞いたんだが、具合はいかがかな」
 教授はカップを手にしながら訊いた。
「もう治りました」
「それは良かった」
 教授の視線が痛い。居心地の悪さに酔いも去っていくようだ。
「私が何をしに来たか、分かるかね?」
 大学での講義のようにもの柔らかく教授は切り出した。
「ミネットに頼まれて、君を捜しに来たんだ」
「……マダムに?」
 背筋がひやりとした。マダムが自分よりも太一びいきになっているのは承知している。
「叱ってやってくれと私も怒られた。一応、君のこちらでの保護者でもあるしね」
 教授は首を振り、ヤマトを見つめた。
「何をするにしても、連絡は入れておいたほうがいい。言葉が分からないと言うのは不安なものだよ」
 ヤマトの視線が何ともいえないものにかわる。
「――太一に会ったんですか」
「ああ」
 そこで、教授はおもしろそうな目つきになった。
「私はどんな美女に会えるか楽しみにしていたのだが意外だったな。本当に友人だったとは。日本でも君は堅物なのかね?」
 女性からよく誘いをかけられるというのに、まったくといってよいほど応じない教え子に教授は笑いかけた。
 ヤマトは首を振った。
「自分ではそんなつもりはまったくありません」
 堅物どころか、太一の体に触れただけでおかしくなりそうな自分だ。
 ヤマトの口調に教授はため息をついた。
「帰らないのかね?」
 ヤマトの答えはなかった。
 教授はどうしようかと迷うように顎を撫でた。
「彼から、伝えてくれと頼まれたんだが――」
「太一から?」
 教授は淡々と告げた。
「部屋を出るそうだ。チケットが取れ次第、帰国すると言っていたよ」
「まさか」
 初めてはっきりとした感情の変化を見せたヤマトに教授は本当だとつぶやいた。
「ホテル探しを手伝ったのだから、嘘じゃない」
 ヤマトは立ち上がったが、すぐにどうしようもないというように首を振った。
 客の視線を感じながら、教授はヤマトを見上げた。
「挨拶をしなくていいのかね?」
 ヤマトの顔が苦しげに歪んだ。
「帰れないんです。戻ったら、俺は――」
 かすれた声で言いかけ、ヤマトはうなだれた。
「すみません、失礼します」
 ポケットから手を付けなかったカフェ一杯分の代金を置くと、追われるようにしてヤマトはカフェを出ていった。
 教授は呼び止めようとしたが、小さなため息をついた。
 不思議そうな顔つきのギャルソンに肩をすくめて見せ、教授はカフェを啜った。
 こればかりはどうしようもない。当人同士で話さなければ、距離は広がるばかりだろう。
 帰国すると告げたときの太一の目を思い出し、教授はまた重いため息をついた。
 お堅いばかりだと思っていた教え子が、あれほどに動揺する相手――早いところ仲直りしてくれればいいのだが。

 教授から紹介してもらったホテルのアドレスを、持ってきたガイドブックの地図で確かめて、太一は部屋の隅に置いてあったトランクを引き寄せた。
 トランクを開こうとして、太一の手は止まった。何も今日でなくてもいい。
 明日まで待とう。いや、明後日。いや、やはりその次の日まで――ひょっとしたら教授に諭されて、ヤマトは帰ってくるかもしれない。
 微かに抱いたむなしい希望に太一は首を振った。自分がここにいる限り、ヤマトは帰ってこないだろう。
 荷造りを終え次第、この部屋を出よう。もし、飛行機のチケットが取れなければ、どこか別の、パリ以外の都市に行ってもいい。他の国でも構わない。言葉が分からないのはどこも同じだ。
 一人きりで知らない国を歩き回れば、あるいは自分の心も少しはすっきりするかもしれないし、そうした後はヤマトのもとをまた訪れることができるかもしれない。今度はこんな曖昧なものではなく、友達の顔をして。
 ――部屋を出ようとした決意がもろく崩れていく。
 帰りたくなかった。帰りたくない。ヤマトの隣にいたときよりも、ずっと強く、はっきりと太一は思った。
 できるならば、このままヤマトの側にいたい。どうして離れている今、そんなことを思うのだろう。
 震える指先でトランクを開き、荷物を詰める。なるべくゆっくりと、時間がかかるように、丁寧に。幾らもない荷物はあっという間にヤマトの部屋から太一のトランクへと仕舞われた。
 だいぶ、震えが収まった手がコートを取り上げる。そこで、内ポケットに入れっぱなしの紙に気づいた。
 だいぶしわくちゃになっているが、太一はそれを広げ、ヒカリの書いたおみやげの希望リストを読み始めた。
 半分も買っていない。帰ったらヒカリに怒られるだろう。空港の免税店で買うか、ここを出てから買うかして、ごまかすことにしよう。自分の土地勘のなさとコミュニケーション能力の不足をいいわけにすればヒカリもなんとか納得するはずだ。
 リストをコートに仕舞い直して、太一はトランクを持ち上げた。教授と話した後、部屋に戻ってから、室内をできるだけ綺麗に片づけた。
 自分の気配が残らないよう、訪れたときのままにしたつもりだった。
 太一はすべてを目に焼き付けるように何度もまばたきしてから、背を向けた。
 今度こそ、本当に出ていくのだ。それでも、足を持ち上げ、歩くのは苦しいことだった。
 どうにかドアを開け、廊下に出ようとしたとき、チリンと微かな音が部屋に響いた。
 一瞬の間をおいて、四日間一度として鳴らなかった電話が鳴った。
 旧式なベルの鳴り方。引きつったように太一は動けない。
 ベルは鳴り続ける。早く出ろとせかしているのか、それとも出ないでくれと叫んでいるのか――取る前から誰なのか分かっていた。
 もっと、早くかけてきてくれれば、文句の一つも言えたはずだ。トランクを置く。電話の方へ歩きかけ、立ち止まった。
 あれほど待ち望んでいたはずなのに、どうして腕を伸ばせないのか。
 ベルが鳴る。何回目のベルだろう。取らなければ。耳に響くベルの音に、部屋を出ていく際のヤマトの声が重なった。
 今、このとき電話に出たのなら、あのときのヤマトの言葉に答えを返せるかもしれない。受話器を持ち上げ、耳に当てる。
 もしもしと言いかけて、電話はとっくに切れていたのだと気づいた。
 静かに受話器を戻し、太一はその場にしゃがみ込んだ。
 部屋を出るなど、出来るわけがない。
 会いたい。会って、声を聞けば何か分かる気がする。
 どうして彼を拒んでしまったのかも、拒みながらなおヤマトを求めて仕方ないのかも、すべて分かる気がした。
 行こうと思えばフランスは近く、そして着いてみればヤマトは遠い。自分が遠ざけたというのに、ヤマトが恋しかった。
 ――ヤマトに会いたかった。包み込んでくれた腕が恋しく、あの腕を拒んだ何日も前の自分が憎かった。
 帰れない。涙を堪え、太一はつぶやいた。帰れるわけがない。
 ソファに身を投げ出して太一は無意識に銀のブレスを求めた。
 あれがヤマトの代わりではなく、ヤマトそのものであるように太一は胸ポケットに入れたままのブレスを取り出し、握りしめた。
 こんな冷たく小さなものはヤマトなどではないという思いを消しながら、太一は無心にブレスを握りしめていた。


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