La Vie en Rose
7



 部屋から飛び出したその夜は、歩けるだけ歩き、目についたドアを押し、酒を飲んだ。
 バーにいた男達からやけ酒をするには年が若すぎるとからかわれ、いつの間にか、喧嘩になっていた。物言いからすると、東欧辺りから来た労働者らしい。
 乱闘になりかけ、ついにうんざりしたらしい店主に店を追い出され、また目についた場末の店に入った。出てきた薄い酒の杯を幾つも重ね、しばらくすると看板だからと揺り起こされた。眠っていたらしい。
 こちらをのぞき込むバーテンのタバコ臭い息に日本語で悪態をつき、店を出た。
 途中、道で眠りかけて巡査に怒られたこと、その後友人のアパルトマンのドアを乱暴に叩いたことまでは覚えている。だが、そこからは完全な闇だった。
 ――朝、二日酔いの頭にしみこむようなひどい臭いで起こされた。
「よお、起きたか」
「――臭いぜ、ウォン。何か腐らせたのか」
 悪態をつくヤマトに構わず、ウォンはヤマトに椀を押しつけようとした。
「二日酔いの薬だ。お袋が送ってくれた」
 こちらに椀を差し出すウォンの黒い目は太一に似ている。
 色素が薄い自分の瞳とは違う。そして、あの黒いくせに心を全部見せてくれる瞳が、自分には感情を隠すようになった。
「こんなの、誰が飲むか」
「飲んだら、楽になる」
 ウォンは真面目な顔つきで言う。いっそ、毒でも飲ませてほしい。
「……楽にならなくてもいいから、もう少し寝かせてくれ」
「ここに置いておくぜ。冷めても飲めるからな」
 飲むものかと思ったが、薬はもはや悪臭というのも可愛いほどにすさまじい臭いをはなっている。
 何度、嗅いでもなれない臭いについにヤマトは椀に口を付けた。嗅ぐよりも腹に収めた方がまだましかもしれない。口の端から痺れたような感覚が襲い、臭いが鼻孔を突き抜けていく。
「すっきりするだろう」
 確かにこれでは体内に残るアルコールも吹き飛ぶはずだ。ずいぶんと無茶苦茶な吹き飛ばし方だが、ともかく酔いは醒めた。
 ウォンが今度は水の入ったカップをヤマトに手渡した。
「ヤマトがこんなに酔ったのは初めて見た。日本から来た女朋友に振られたのか」
「恋人? 誰が言ったんだよ」
「みんな言ってる。初めて課題よりプライベートを優先させたってな」
 ヤマトは苦虫を噛み潰したような顔で水を飲み干した。
「ばかばかしい」
 吐き捨てるようにつぶやく。ガラス窓を風が打ちつけ、古いアパートがきしんだ。
 ウォンがコートを羽織りながら話しかけた。
「俺、出かけるからな。留守番頼む」
「いや、俺は……」
「帰るのか?」
「……」
 ヤマトは唇を噛んだまま、ウォンと窓を見比べ、首を振った。
「いい、寝てる」
「変なやつだな」
 聞こえないふりをしてうつむいた。
 何かあると察してくれたのか、ウォンは帽子を深くかぶり、部屋を出ていった。
 一人きりになるとまた微かな頭痛がした。途方に暮れた太一の最後の目を思いだし、ヤマトは唇を噛んだ。
 あんな目の太一を部屋に独りきりにしてきた。もう一人にしないと誓ったというのに、そばにいると誓ったのに。
 今すぐにでも立ち上がり、駆け出したかった。
 だが、戻ってどうしろというのか。何もなかった振りをして、太一の帰国まで友達の振りをするとでもいうのか。
 唇を噛みしめた。できるわけがない。すでに自分は彼の名を出した。
 醜い感情にまみれた一言。太一が謝ったのは、彼がまだ太一の心にあるからなのか。それとも――ヤマトは口元を押さえた。
 自分の考えに寒気がした。骨にまで食い込む冷たい想像だ。
 離れてから気づいたということか? 光子郎の想いの深さ、優しさに、自分が無理矢理抱こうとしたとき気づいたということなのだろうか。
 ――光子郎を恨むつもりなどない。彼がいなければ、今の自分はなかった。彼が居なければ、太一の笑顔を見ることも、その隣りに立つこともまたなかった。
 下卑た想像はしたくない。けれど、自分は知っている。太一がどんな表情を自分の腕の中で見せていたか、自分の指先に誘われ、どんな声を上げていたか、すべて知っている。
 光子郎は――ヤマトは両手で顔を覆った。
 光子郎は太一をどう抱き寄せたのだろう。太一の髪に光子郎は触れたのだろうか。口づけを交わした後、どんな言葉を囁いたのだろうか。
 一夏とはいえ、心を重ねようとしていた二人だ。そうなっていてもおかしくない。光子郎が望み、太一がそれを許したのならば――。
 三年間離れていた。その間に太一が誰と心を通わし、誰と寝ようと太一の自由だ。太一が誰を想っていようとヤマトの及ぶところではない。
 怒る理由も責める資格もなく、それでも自分以外の誰かが太一に触れたかと思うと耐えられなかった。
 決して確かめたわけでもなく、疑心暗鬼もいいところだったが、言葉にして打ちのめされることが恐ろしかった。何もかもうやむやのまま、一つだけはっきりとわかったことがある。
 部屋には戻れない。
 太一を想えば想うほど、部屋には帰れない。ふたたび太一を見つめたとき、今度こそもっと恐ろしいことになる。
 拒まれても、太一の口から光子郎の名が洩れたとしても、今胸にある思いに従って自らの快楽のために、太一の心を無視し、太一を抱いてしまうだろう。
 胸で焦げついたこの思い、棘のように鋭く、火傷のようにひりひり痛むその思いは嫉妬だ。どうしたら嫉妬が消えるのか、ヤマトには分からなかった。
 ただ一つの方法ですら、今は恐ろしい。太一にすべてを問いただすなど、できるわけもない。
 口にしようとした太一の名前すら飲み込み、ヤマトはうなだれた。
 部屋には戻れない。
 ――太一がいる部屋には、帰れない。

ろくに眠れないまま、いつものような朝を迎えると太一は窓の方へ向かった。皮膚を切るような冷たさの窓ガラスをこすり、太一はそこから見える街を眺めた。
 手にはだいぶ固くなったバゲットを持っていたが、囓りもせずいつの間にか放り出していた。
 裏路地には人影もない。まだ早いせいもあるが、寒さが激しいせいもあるだろう。
 太一はカレンダーに目をやって、今日が二十五日なのを確かめるとまた窓の外へ目をやった。
 あの日、出ていったきりヤマトは帰ってこなかった。今日で四日目だ。
 不用心だと思いつつも、太一はドアの鍵を閉めることができなかった。
 ヤマトは呼び鈴を押さないかもしれない。ドアの鍵が閉まっていれば、部屋に入ってこないかもしれない。
 そんな怯えに、部屋にいるときは鍵をかけなかった。
 夜も昼も、旧式の古い鍵と新しいまだ銀色に光る二つの鍵は使われることなく、ドアはいつも建物の歪みに従い、薄く開いていた。
 ヤマトを探しに外へ出たこともある。
 手渡されていた地図の通り、ヤマトの通う大学まで足を伸ばし、待っていたこともあったが、ヤマトの姿はなく、そして他の学生の姿も思う以上に少なかった。大学の研究室の電話にも誰も出ない。
 街はますます華やかになり、帰り道にようやくクリスマス休暇に入ったから、学生がいなかったのだと気がついた。
 やがて、太一は外出することが少なくなった。
 自分でも臆病だとは思うが、自分がいないときにヤマトがドアの前に立っていたらと考えただけで、部屋に引き返したくなるからだ。
 どうしても必要なとき以外は部屋で過ごし、出かけるときは何度も振り返りアーチを見つめ、用を済ませて帰るときは、誰にも負けないほどの早足になった。
 廊下はいつも静かで冷たく、部屋も同じであったが、それでもヤマトの残した生活の匂いがある。眠るときは銀のブレスを握って眠った。ドアの外に誰かが、ヤマトが立てば、すぐに起きあがれるようにベッドではなくソファで眠った。
 マダムが心配そうに話しかけても、愛想笑いと身振りで大丈夫だと伝え、何でもない振りを務めた。
 言葉が通じれば、マダムは食事も睡眠もろくにとっていない様子の太一を心配していたのだと知っただろうが、太一にはそれを知る由もなかった。
 窓から見える景色はすでに馴染みのものだったが、太一は飽かずに裏路地や表通り、そこを寒そうに歩く人々を見つめていた。
 そこにヤマトらしい人影が見えると、すぐに走って飛び出せるように靴紐をきつく締めて。
 ぼんやりしているうちにまた曇ってきたガラスをこすり、太一はふと目を凝らした。
「ヤマト?」
 つぶやくと同時に立ち上がり、走り出した。ドアを乱暴に開け、階段を甲高い音を立てながら降りていく。
 白い息を吐きながら、窓から見えたヤマトらしい影を探し、走った。角を折れ、さらにまっすぐ行くと道を歩く男性の後ろ姿が見えた。名を呼びかけ、太一は足を止めた。何度目の勘違いだろう。
 不審そうに振り返った男性はヤマトではなく、太一はまた来た方向へ歩き出した。むなしさと徒労が広がっていく。
 風の冷たさに身をすくませ、太一はゆっくり辺りを見回した。
 ここはヤマトがいる街だ。彼が今まで過ごし、これから過ごす街だ。たぶん、ヤマトもこの道を歩いただろう。
 この界隈の建物の並びや幾つもの通りを思い出し、太一は建物のヒビから壁を伝う蔦まで、今、自分の瞳に映る全てを、そのまま焼き付けようと何度もまばたきした。
 この街を見るために来た。それだけだった。
 ヤマトがいる街を一度見ておきたかった。見知らぬ場所で見知ったヤマトが、どうしているか、気になってたまらなかったからだ。どんな場所で、どんな人々と暮らしているか、知るだけで充分だった。
 太一は目にゴミが入った振りをして立ち止まった。
 ――いいや、期待していたはずだ。ヤマトと、何か始まるのではないかと期待していたはずだ。
 始めたいのは友情だろうか。それとも、もっと別の何かだろうか。
 熱くなった目頭を押さえた。
 考えるまでもなかった。欲しいのは友情ではない。ヤマトのすべてが独占できる位置に立ちたい。ならば、なぜ拒んだのだろう。拒む必要など無かったはずだ。
 意識を取り戻したヤマトに抱きすくめられたときも、部屋を出ていこうとして抱きしめられ、唇を重ねたときも、あの背に腕を回していればすんだことだ。
 記憶にあるよりもあたたかいヤマトの腕に、何を恐れているのだろう。
 切ないくらいに自分の名を呼び、触れてきたヤマト。流されるまま、昔のように身を委ねたかった。
 ヤマトの声を思い出し、太一は耐えきれず顔を覆った。
 太一と呼ぶ声は今にも泣き出しそうだった。拒みたかったわけではない。あのまま、冷たい床を二人の体温で熱くしたかった。
 ヤマトの指が肌に触れてきたとき、これでいいと思った。これで昔に戻れる。この瞬間を待っていた気さえする。ヤマトとつぶやこうとしたのだ。名を口にすると共に火照ったヤマトの体を抱き返したかった。
 では、なぜ。
 吹きつける風が冷たい。足下から凍りついていきそうだ。
 皆がコートの前を合わせる中、太一は誰よりも白い息を吐いて歩き出した。
 コートも持たずに外へ出たため、アパルトマンに戻る頃には体は冷え切っていた。
 震えながら、太一は階段を上がりかけ、階上から降りてきたマダムと顔を合わせた。階段の幅いっぱいのようにも見えるマダムは太一に挨拶すると、手に持っていたものを差し出した。
 何枚ものヤマト宛の手紙やカードだ。色鮮やかな色彩のほとんどは赤と緑で、すぐにクリスマスカードだと分かる。
 それらは、ここ数日来た郵便物と同じで、読まれることもなく、宛先人の机の上に置かれるだけなのだ。
 うつむきかけたとき、マダムが声を発した。
「タイチ」
 もう何度も呼びかけられたので、鼻に抜けるような声で自分の名を呼ばれてもすぐにそれと知れる。
 顔を上げると、マダムはヤマトと言って、部屋を指さして見せた。
 太一は首を振り、ヤマトの不在を伝える。マダムはため息をつき、まだ階段を降りていこうとした。
 太一はマダムが階段を降りれるよう、二、三段下にある小さな踊り場まで下がろうとした。
「――ミネット」
 響いた低い声に太一は振り返った。
 階段の下に初老の男性が立っている。マダムの巨体に負けない恰幅のよさだ。目深にかぶった帽子と合わせたマフラーの色が粋なその男性は帽子を上げ、ほほえんだ。
「君の家の方に行ったのだけれど、留守でね」
「待ってたよ」
 マダムは太一に微笑みかけ、その腕をつかむと階段を降りだした。太一は突然のマダムの行動に引っ張られるままだ。
 階段を降りきってしまうと、マダムは親しげに男性に話しかけた。
「休みなのに悪かったね。ヤマトときたらどこへ行ったか、ちっともわからないんだから」
「ああ」
 男性はマダムにうなずき、太一の顔に目をやった。
 マダムと男性に挟まれ、二人の間で交わされる早口のフランス語に太一はとまどったように立ちつくしている。
 男性はマダムに目配せし、太一に向き直る。
 初老の白人男性の唇から、なかなかに流暢な日本語が洩れた。
「はじめまして、太一。ヤマトの知り合いのルネという」
 驚く太一にルネ教授はほほえんでみせた。


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