La Vie en Rose
6



「ヤマトと太一は――」
 夕食の差し入れに来たマダムは太一をちらりと見て言った。
「仲がいいのよね」
 ヤマトの一件のせいか、マダムと太一はかなり親しくなったようだ。
 マダムが単語を使って、ゆっくり太一に話しかけるので、太一も片言ながら言葉を返し、会話が成立しているようにも見える。好感情があれば、ある程度の意志疎通は可能と言うことかもしれない。
 受け取ったシチューを太一がキッチンへ持っていったので、ヤマトは玄関近くでマダムに聞いた。
「どうしてそんなことを?」
「日本から訪ねて来るくらいだから、きっととても仲がいいと思ってたのよ」
 マダムも鼻風邪を引いたのか、声はくぐもっていた。
「なのにヤマトはずいぶんよそよそしい紹介の仕方をするでしょう」
 マダムは微笑した。
「でも今は、紹介してくれたときみたいにヴじゃなくてテュなのね」
「そうですね」
 そうやって親しい間柄として太一に呼びかけるほど自分たちの距離は近いのだろうか。
 いっそ熱に浮かされているときのキスならば諦められたものを。抱きしめた太一の体の感触は現実で、唇を重ねたのも幻ではない。
「……昔、喧嘩したことがあるんで、たぶんそのせいだったんですよ」
 こうしてぼやかして曖昧に言っておけば、それ以上は聞いてはこない。長い滞在でそれはすでに心得ている。
 マダムはくすんと鼻を鳴らした。
「もう仲直りしたのね?」
「ええ」
 ヤマトは微笑み、マダムが去っていくのを見送ってからドアを閉めた。
 マダムの言葉が胸に応えた。仲がいい――友人としてか、それとも以前のような関係でか。ヤマトが望むのは後者であるが、太一が望むのはどちらなのだろう。
 太一はあの後一時間ほどで何事もなかったように、またヤマトの部屋に戻ってきた。帰ってきた太一の態度を見て、ヤマトは自分たちの距離が遠ざかっていくのを感じた。
 キスは二人を近づけたのではなく、遠ざけるだけの結果しか生まず、やり場のない想いだけが募っていく。
 遠ざかっていた三年よりも、もう少し近づいた。その位置は太一の友人、古い昔なじみという位置だ。
 ――そんな立場が欲しいのではない。太一が側にいればいるほど、友人としか言えない自分の立場とそのもどかしさが憎くなる。
 どうしてこんなに欲深いのだろう。欲しいのは心だ。
 自分を想う太一の心、昔は当たり前と思っていた自分を見つめるその目。それらを得て初めて太一を腕に抱きたかった。
 けれど、こんなに側にいるというのに――ヤマトは息を吐いた。
 待てるのだろうか。待ったその先、太一が振り向いてくれるのかもわからない。
 もし、他の誰かのもとへ太一が行ってしまったら? いや、待たねばならないのだ。
 一度得た希望をなくすことが何より恐ろしかった。だが、今は手を伸ばせば、そこに太一がいる。何かが膨れ上がった。激しく、体を燃え上がらせる衝動を堪えようとする。ドアの冷たさに体を預け、目を閉じた。
 何としてでも抑えなければならない。今の状態を壊したくなかった。だが、こんな距離で自分は満足などできない。
 今はただ無茶苦茶に太一の体と自分の体を重ね、熱を感じあいたい。記憶にある太一のぬくもりより現実の太一の体の熱さを感じたい。
 堪えるのと、手を伸ばしたいのと――相反する心で、狂ってしまいそうだ。
「ヤマト?」
 太一の声に振り向いた。
 太一がキッチンに立ち、こちらを見ている。シチューの匂いが漂い、食卓には皿が並べられている。
 まるで同棲しているようだ。並べられた二つの皿と二つのグラスにそう思った。
 同時に泣きたくなった。ままごとの同棲生活だ。同じ屋根の下に暮らしているというのに、お互いの肘がかすめるだけでびくびくしている。
 幼いキスに怯え、体が訴える熱を殺そうとしている。何も変わっていない。
 距離の近さなど、この熱の前にはなんの意味もなかった。いや、距離の近さのせいかもしれない。何が欲望を抑えてみせる、だ。
 もてあまし、いつかは爆発することだと分かり切っていたのに。
「ヤマト、飯……」
 太一の顔が歪むのにも構わず、手をつかみ、引き寄せた。
 とまどう唇を開かせ、舌を滑り込ませた。太一の舌の柔らかい感触に周りから音が消えていく。
 弱々しい太一の抵抗に腰を抱く手に力をこめた。
 太一の手が胸を突く。解放した唇が声を上げる前にまた唇を重ねた。
 今は別の声が聞きたい。舌に太一の歯が当たる。噛み切られるかと思ったが、それでもよかった。血の味がするキスでさえ、体を冷やすことは出来ないだろう。
 今の自分を宥められるのは太一だけ、太一の熱だけだ。
 太一の抵抗はなく、ヤマトの舌に触れた歯はなめらかな感触を残しただけ、唇を閉じようとする太一の抵抗もむなしいだけだ。
 なぜ噛まないのか。太一の唇の端から唾液がつたう。
 胸に置かれていた太一の手から力が抜け、やがてヤマトは太一の体を探り始めた。
 寒さのため重ねられた衣服の裾を持ち上げながら、素肌を求めた。少しかじかんでいた指先に温みが広がる。太一の体はあたたかい。あの雨の夜のように冷たくなく、事故の日のように血は流れていない。
 温かい、生きた血が流れる体だ。
 ヤマトの指先の冷たさに太一が体を引きつらせる。けれど冷たさに実を引き締めただけではない。
「太一」
 熱にうなされていたことを思いだした。あのときもうわごとで太一の名を呼んだ。そうすると声が返ってきた気がする。
 今度も呼んでくれるだろうか。ヤマト、と。
「……」
 太一がもがいた。今まで以上に強く抱きしめ、開きかけた唇に口づけ、言葉を封じた。
 手首をつかみ、足の間に膝を割り込ませ、太一が淡い反応を見せているのを確かめた。
 体は自分を欲してくれているのだろうか。ならば、心は?
「太一」
 拒まないでくれ。ヤマトはささやいた。そうしないと、おかしくなりそうだ。いや、もう狂っているのかもしれない。
 離れようとする唇に、胸を押し戻そうとする指先に、自分以外の誰かを想う太一の心を感じてしまいそうになるなど。
「太一」
 首筋に唇を押し当てた。
 自分以外の誰かを想うなど許せない。そんなことはないと言って欲しかった。
 太一に受け入れられることで証明して欲しかった。
「ヤマト、やめてくれ……」
 ヤマトの手から逃れようと太一は弱々しい声を漏らした。
 泣いているわけではない。涙を見れば、この欲望は掻き立てられるだけだっただろう。
「頼むから――」
 そのまま続ければ、すぐに押し流してしまえそうなくらい細い声だった。抵抗というよりはも誘っているようにも聞こえた。
 ただし、それは強引さもときには許される恋人同士の間柄でだけだ。ずっと昔だったら、笑いながら本当にいいのかと聞けた。覗き込めば太一の目に熱っぽい光が浮かんでいるのを知っていたあのころの自分なら、そのまま太一を抱きしめていられた。
 今は――離すしかない。
 血を吐くような思いで太一の体から離れた。
 一歩離れるたびに太一からのぬくもりが消え、かわりに胸が焼き爛れていく。
「――ヤマト」
 まだ乱れた服装のまま、太一がこちらを見つめている。
 信じられない言葉を太一は口にした。
「ごめん」
 目が哀しげにまたたき、太一はうなだれた。
 罵られた方がまだ良かった。殴られ、そうやって太一に痛めつけられたほうがまだよかった。
「なんで……なんで、お前が謝るんだよ」
 恐怖にかられ、ヤマトは太一から一歩後ずさった。
 なぜ、太一が謝るのだ。太一は弱くはあったが抵抗し、それを無視して自分は太一を組み敷こうとしていた。
 太一の体が口づけに応えるような反応を見せていたからと言うのは理由にならない。
 決して許されないのは自分の方だ。
 太一は顔を上げ、どうしたらいいのか分からないようにヤマトを見ている。
 湧いた疑問の答えがその眼差しの奥にあるような気がした。
 彼なのか? ヤマトは苦しげな息をもらした。どす黒い思いが胸に広がる。
 彼を想っているのか? だから自分を拒み、そして謝ったのか?
 ヤマトは太一から目を逸らした。
 ソファにかけたままのコートを取ろうと足を踏み出し、その動きに太一はびくりとした。
 怯えるような素振りを見せる太一に背を向けると、取り上げたコートを羽織り、ヤマトは足早に部屋を立ち去ろうとした。
「どこに行くんだよ」
「頭、冷やしてくる」
「ヤマト!」
 怯えたような太一の叫びに一度だけ、ヤマトは振り返った。
 立ち止まるためではなく、どうしても訊かずにはいられないことを口にするためだ。
 ヤマトはドアノブに手をかけながら、ひび割れた声で訊いた。
「――光子郎か」
 太一が目を見張り、ヤマトはそれ以上太一を見つめることができなかった。
 太一に背を向け、ヤマトはドアを開けた。
「ヤマト!」
 太一の声に押されるようにしてヤマトは出ていった。足音も聞こえないほど、静かに早く、ヤマトの姿は見えなくなる。
 太一の足がヤマトの後を追おうと踏み出されたが、ドアに手を伸ばしたところで、太一の手は垂れた。
 冷たい部屋にヤマトの体のあたたかさを思い、目に涙を滲ませ、息を吐いた。
 何も考えたくなかった。テーブルの上のワインが入った瓶をつかんで、思い切りあおると、飲めるだけ飲んだ。むせて、また涙を滲ませ、それでも飲んだ。ほとんど一気のみに近い飲み方で瓶を空にし、二本目を取ろうとした。開かないコルクに苛立ち、瓶を乱暴に投げ出し、ソファに横になる。
 涙が出る前に目を閉じ、クッションに顔を押しつけた。眠るのだ。自分にそう命じた。眠れば、何も考えずに済む。泣くのを堪えたかわりに、太一の寝息はいつまでも苦しげなものだった。


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