La Vie en Rose
5



 起きようとするたびに世界は回り、ぐにゃぐにゃになった。
 ひやりとした冷たいものが、額に当たり、熱くなり、また冷たくなる。手を動かそうとしても動かず、体はひたすら重かった。
 耳鳴りの中、遠くで太一の声が聞こえた。何を言っているか全く分からず、それがもどかしい。聞き返そうとし、そのたびに吐き気がした。
 太一がどこにも行かないでくれるといいのだが。
 せめて、あと数日は一緒にいたい。それがかなうのならば、この体の欲望も抑えてみせる。やっと会えたのだ。冗談も言い合える。笑顔も交わせる。
 それだというのに、今の自分の情けなさはどうだろう。たかだか風邪くらいでベッドに横になるとは。
 もっと色々なところに二人で行きたい。こちらに来てくれたのに、ほとんど案内も出来ずに、別れてしまうのは嫌だ。もっと見せたいものがあった。この古い町は、どこに行ってもいつも何かがある。そこを一人ではなく、二人で歩きたかった。何か面白いものを見つけ、それを二人で見たい。
 驚き、感心するときの太一が見たい。あの率直さは何も変わっておらず、嬉しさと錯覚を起こさせる。まるで昔のように、久しぶりにあった恋人同士のような気分に浸れるからだ。
 太一はどう思っているのだろうか。
 強引に部屋に泊めさせ、あちらこちらに引っ張り回し、挙げ句の果てに倒れてしまった自分を、どう思っているのだろうか。
 ――彼が自分を見つめる目に、昔の感情の名残がないか、今でも探している。
 今年の夏に確かに何かが変わったはずなのに、それをまだつかみきれない。太一を見つめるだけで苦しくなる感情を、ただもてあますだけでだ。
 太一の名を呼びたかったが、そうすればするほど彼が遠ざかりそうな気がした。自分の名をうわごとで呼ばれ、太一は自分を疎ましく思うかもしれない。
 それでも、どうしても抑えきれないときだけ、ヤマトは太一の名を呼んだ。
 太一の名を呼ぶたびに、太一の声が聞こえる。そう気づいたのも束の間、ヤマトはふたたび眠りに落ちていった。

 どのくらい眠っていたのか。次に目が覚めたときは、手が動いた。気怠さは残るが、あのひどい吐き気はなかった。
 ただ、喉がひりひりする。水が欲しい。ゆっくり首を傾け――ヤマトはそこに太一の顔を見いだした。
 太一は起きており、ヤマトを見つめていた。目が腫れて、顔がむくんでいる。
 ヤマトの視線に、太一は立ち上がると、水を持ってきてくれた。
 差し出した手に、かさぶたのできた傷が見えた。
「飲めるか」
「ああ」
 声はお互いかすれきっていた。ヤマトは熱のために、太一はおそらくは寝不足と疲れのためだろう。
 ヤマトの声は水を飲んでしまうと、いくぶんいつもの調子を取り戻したが、太一の声は変わらなかった。
 枕元に椅子を置き、太一はヤマトをじっと見ていた。
 枕に頭を戻し、ヤマトは喉の痛みを圧して訊いた。
「俺、どのくらい寝てたんだ」
「二日」
 太一はぼそりと答え、付け加えた。
「今は、朝の十一時」
「そうか」
 太一はヤマトが身動きしたせいで、めくれた毛布を直してやった。
「もう少し寝てろよ。まだ熱があるから」
「ああ……」
「なんか食いたかったら、あるぞ」
 食欲はない。食べ物のことを考えただけで、胸焼けしそうだ。
「いや、いい」
「今はいいけど夜は食えよ」
「わかってる」
 そのまま太一とヤマトは見つめ合った。お互い髭も剃らず、かなりやつれたような格好だったが、おかしくなく、笑いもしなかった。
「ヤマト、お前……」
 太一がそれしか表情が見つからないとでもいうように、唇をつり上げた。
「お前が風邪引いて、どうするんだよ」
「ああ」
 太一は椅子から立とうとしたが、ヤマトが手を伸ばしたのを見て、動かなかった。
「太一」
「謝るなよ」
 ごめんと言いかけたヤマトの言葉を聞かないまま、太一は言った。
「謝るくらいなら最初から、風邪なんか引くな」
「ああ……」
 ヤマトの手が触れる少し前に、太一は自分の手を引いた。
「俺の肩に吐いたんだぜ? 覚えてるか」
「……覚えてない」
「そうだよな」
 太一はうなだれた。ヤマトが覚えていないことに憤ったせいではなく、あのときのことを思い出したからだった。
 不満そうに言おうとした言葉は、かすれただけだった。
「人の足なんか、心配する前に……」
 ――太一の頬から落ちる涙を受け止める程度の力も今のヤマトにはなかった。
 それでもヤマトは体を起こして、ゆっくり手を伸ばした。
 太一を抱きしめるというよりは彼が太一にすがるような仕草だった。
「太一……」
 かすれていくヤマトの声がごめんと呟いた。
 太一の手がヤマトを押し戻そうとして、力無く垂れた。
「離せよ……」
 ヤマトの腕の中の太一の声は弱々しかった。
 それきり太一の抵抗はなく、ヤマトはマダムがドアをノックするまで、太一を抱きしめていた。

 ヤマトの風邪はかなりひどいものだったらしく、どうにか部屋を自由に歩けるようになるまで、さらに二日かかった。
 喉の炎症が治まり、話せるようになると、マダムはルネ教授に連絡した方がいいと言ったが、ヤマトは断った。こんな風邪くらいで面倒をかけたくなかったし、こちらでの保護者代わりにもなっている教授に連絡すれば両親にもこのことは伝わるだろう。
 だいたいこれから何年もこちらにいるのだから、この程度のことでいちいち心配をかけるわけにもいかない。医師も熱は下がっているし、後一週間おとなしくしていれば大丈夫だろうと言っている。新年に今年の古い風邪は持ち込まずに済みそうだ。
 医師が帰ると太一はドアを開けて、寝室に姿を見せた。
 綺麗に皮を剥かれたリンゴを片手に、太一はドアを閉め、枕元の椅子に腰掛けた。
「喰うか」
「ああ」
 甘酸っぱい香りが部屋中に漂って、ヤマトはリンゴを一つ取った。食べやすいように切られているリンゴは瑞々しく、ところどころに蜜が見える。
 太一も食べ出したので、しばらく部屋にはリンゴをかじるシャリシャリという音しか聞こえなかった。
 ヤマトがなんとか起き上がれるようになった今でも、太一はヤマトのそばを離れない。風邪が移るのではとヤマトは心配したが、何を言っても太一は聞き入れず、医師の診察のとき以外はヤマトの側で一日を過ごしていた。
 どこにも行かず、寝るときもヤマトの側で眠る。ただし、二人の距離は微妙なものだった。
 ヤマトの手が届かないぎりぎりの距離に太一は身を置き、そこからヤマトを見つめる。ヤマトが意識を取り戻した日の抱擁など、忘れたような目でヤマトに接し、話しかけてくる。
 必要なこと以外は、ほとんど話さないまま、クリスマスは迫っていた。
「暇じゃないのか」
 リンゴを食べ終えたヤマトは太一に訊いた。
「別に」
 太一は果汁が残る皿をこぼさないように床の上に置いた。
「俺がいたら邪魔か、ヤマト」
「いや」
 ヤマトの答えは早く、声は真剣だった。
「なら……ここにいてもいいか」
「……ああ」
 ヤマトはうなずいた。太一は黙って皿を取り上げ、部屋を出ていった。
 皿を置いて、すぐに太一は戻ってくるとヤマトの横に座り、小さく息を吐く。
「邪魔だったら言えよ。あっちに行くから」
「行かなくていい」
 それきりまた言葉を交わさず、ヤマトは目を閉じた。

 本当に眠ってしまったことに気づいたのは起きたときだ。部屋は暗く、静かだった。暖房の稼働音だけが響いている。
 もう夕方なのかとヤマトは起きあがり、太一が眠っていることに気づいた。
「た……」
 呼びかけようとして、ヤマトは口ごもった。
 太一はソファを寝室に運び込んで、その上で眠っていた。毛布にくるまり、寝息を立てている。
 本来ならばホテルに泊まり、暖かい部屋のちゃんとしたベッドで眠られたはずだ。それなのに、何日もこんなソファで寝かせていたのだ。
 ソファは時代物らしく大きかったが、ベッドのように広くはない。太一は窮屈そうに、あるいは寒いせいか、身を丸めている。
 側にしゃがんで、太一の寝顔を見つめた。
 疲れたようにも見える横顔。暖房のせいか唇は少しかさついているようだ。
 ヤマトは目を閉じた。耐え難い衝動を堪えるために、拳を握り、うなだれた。
 意識を取り戻したその日に、太一を抱きしめた。
 けれど――もっと触れたい。すぐそこにいる太一に唇を重ね、そのままその体の熱さを確かめたい。
 抑えようとする理性とは反対に欲望は強くなるばかりだ。
 声を聞けば、見つめたくなる。見つめれば、触れたくなる。触れればもっと深く太一を感じたくなる。太一の側にいる限り、どこまでいっても満足することなどない。
 螺旋階段を登ったときのようなめまいを感じた。一度だけ、そう言い聞かせながら、ヤマトは太一の唇に自分の唇を近づけようとした。
 一度だけという思いがどれほどむなしいかは承知していたが、それすらもいいわけにしてしまうほど、太一に触れたかった。
 かさついたそれでも柔らかい感触、怯えたようなヤマトの口づけは短かいものだった。
 すぐに唇を離し、ヤマトは口元を手で押さえると立ち上がった。
 足音も消さずに寝室を出ていく。
 太一の側にいると堪えきれなりそうだった。こんな子供のようなキスだけで自分の体は反応していた。
 すぐ側に感じた太一の呼吸と体温に、欲望だけが膨れ上がっていく。冷え切った浴室へ駆け込んで、ヤマトは鍵を閉めた。
 こんな情けない姿を見られるのは嫌だ。壁の冷たさすら心地よく思うほど、体は熱くなっていた。

「お前、何してるんだよ!」
 浴室から響いてきた水音に目を覚ました太一は起き上がり、浴室のドアを叩いた。
「風邪引いているのに、風呂入るバカがいるか」
 返事はなく、しばらくしてから濡れた服を手に、髪からしずくを垂らしたヤマトが出てきた。
 浴室に置いてあるバスローブを羽織り、無表情のまま太一の横をすり抜ける。
「ヤマト」
「シャワー使っただけだ」
「体が冷え――」
 ヤマトは首を振った。
「汗くさいのは嫌だったんだよ」
「だからって……」
「もう熱はないんだからこれくらい、いいだろ。ほっといてくれ」
 太一は何か言いかけ、そうだなとうなずいた。
「……良かったな、汗流せて」
 少し歪んだ笑みでそう言うと、太一は乱暴に寝室のドアを閉めた。
 がたがたと音が響き、次にドアが開いたとき、太一はソファを引っ張ってきた。
 重いソファを引きずり、居間の方へ戻すと太一は手を払った。ガラス片で切った傷は薄い線だけになっている。
「お前も治ったみたいだし、そろそろホテル探すよ」
 太一は顔を逸らして言うと、部屋の隅に置きっぱなしの荷物を持ち上げた。
「世話になったな」
「太一 ――」
 呼び止めようとし、ヤマトは口ごもった。
「一人で探せるのか」
「バカにするな」
 ヤマトを押しのけて、太一はドアへ向かった。ヤマトは咄嗟に太一の腕をつかむ。
「離せよ!」
 つかまれた腕を太一は振り払った。
 ヤマトの必死の表情も目に入らないくらいに、やけになった太一は背を向けようとした。
「クリスマス前だ。部屋は全部ふさがってると思う」
「だから何だよ。見つからなかったらその辺で寝るから、ほっといてくれ」
 ふたたびヤマトは太一の腕をつかんだ。
「たぶん、死ぬ」
 太一は何をバカなことを、と眉を寄せた。
 確かに外は寒いだろうが、子供ならともかく、そんな言葉で二十歳を超えた男を脅そうとは情けない。
「死ぬか。明日帰るから空港で寝るよ」
「違う、俺が」
 ヤマトの目は冗談をいう目つきではなかった。呆気にとられ、太一はヤマトを見つめた。
「お前がいないと死ぬ。だからいてくれ」
「……お前、バカか」
 呆れたような太一に構わず、ヤマトは太一を引き寄せた。
「何、変なこと言って――」
 言葉が消える。太一の体はヤマトの腕の中にあった。
 ヤマトに抱きすくめられ、太一は荷物を持った手を下ろした。
 抱き返すためではなく、押し戻そうとするためにヤマトの胸に手を当てた。
「離せよ」
「……頼むから、行かないでくれ」
 消えそうなヤマトの声――太一は目を閉じ、その手をヤマトの背に回そうとした。だが、その手は迷うように空をつかんだけだだった。
 体の温かさに安堵しあいながら、お互いの肩越しに、二人は唇と肩を震わせた。
「ここにいてくれ」
「分かったから、離せよ……」
 ヤマトの腕に力がこもったが、それは一瞬だけで太一が何か言う前にヤマトは太一から手を離そうとした。
 その動きでヤマトの濡れた髪が頬に当たり、太一の指先に力がこもった。
 バスローブに皺が寄る。ヤマトが低く息を呑み、すぐ横にあった太一の方へ視線を向ける。
 当たった熱っぽい息づかいに太一は顔をずらし、そこで二人の視線が出会った。
 吐息が重ならないように息を殺し、ヤマトは太一の目を、太一はヤマトの目を見つめた。ほんの少し近づけば何かが変わるのかもしれないが、それに怯えるかのように太一とヤマトは黙って見つめ合っていた。
 ヤマトの髪からしずくが落ちる。腕に当たった冷たさに太一はまばたきし、目を伏せた。
 とぎれた視線を追うように、ヤマトが顔を寄せ、髪を揺らした吐息に太一はまた目を上げる。ヤマトの唇が前髪をくすぐり、そっと額に押し当てられる。まだ迷いのある唇に太一が横を向こうとした。
 ヤマトの指先が伸びて、太一の頬に触れる。太一の瞳に自分が写っていた。では、自分の瞳の中にも太一は在るのだと思い、ヤマトは目を閉じる。
 その姿を閉じこめたかった。
 太一も目を閉じるのが見え、その吐息が唇にかかった。それに引き寄せられるようにして、ヤマトは太一に唇を重ねた。幻と交わした口づけのような気がしたが、それは太一も同じだったかもしれない。
 唇を離して目を開けると、呆然としたような太一が、その目の中に呆けたような自分の顔が映っていた。
「太一?」
 意識して行った行為のはずなのに信じられなかった。
 唇を近づけたことも、受け入れられたことも、ほんの少し前のことなのに遠い昔のようだった。
 太一の目が伏せられた。
「こんなの、挨拶代わりなんだろう……」
「違う」
 太一の言葉を否定するため、そして今のキスが幻ではないことを確かめようと、もう一度太一を抱きしめようとしたヤマトの腕は届かなかった。
 太一はヤマトから逃れ、玄関のドアを開ける。
 その手はトランクを持っていなかったが、ヤマトは怯えた声を出した。
「太一」
「――戻ってくる」
 太一は少し笑ってみせると、外へ出ていってしまった。ヤマトが風邪を引いて初めての外出だ。
 ヤマトは一人残された部屋で自分の唇に触れてみた。そこにはまだ温もりが残っている気がしたが、それこそ本当の幻なのだろう。
 どんな幼い恋人同士でもしないような、キスとも言えない、唇が当たっただけのそれだった。
 だからこそ想いが募った。太一が早く帰ってくればいい。そうなればいっそう苦しくなるのだと知っていても、太一に側にいて欲しかった。


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