La Vie en Rose
4



 朝、起きたときに体がだるかったのは昨日飲み過ぎたせいだとヤマトは思った。もしくは夜更かしして、モニターをずっと見つめていたせいかもしれない。
 体のだるさを構わず、太一を起こし、パン屋まで一緒に歩いていく。
 雨は雪に変わらないのが不思議なくらい冷たかった。
 朝食用に一本、太一のつまみ食い用に一本、全部で二本バケットを買って、家まで歩いていく。
 太一は不思議そうに辺りを見回している。夜としか思えない暗い通りには、車道の横にある溝から水が流れているせいか、水の匂いがした。
 まだ暗いが、建物の上の住居にはすでにいくつもの明かりが灯っている。そこに住まう人々の朝の風景を眺めながら、ヤマトと二人で並んで歩いていると、ずっと昔からこうしているような気が太一にはした。
 二人で暮らして、二人で一緒にどこにでも行くのだ。幼い夢想を思い浮かべたのはたぶん、昨日ヤマトのベッドで寝たからだろう。
 懐かしい香りと見知らぬ香りが入り交じるヤマトのベッドと毛布。ヤマトに抱かれて眠ったようで、心地よかった。ベッドは彼の腕のようにあたたかく、幸せな夢を見た。
 そんな夢を見て幸せだったと考える自分に罪悪感を感じ、太一はつまみ食いの手を止めた。
 のうのうと平気な顔をしてヤマトに会いに来た自分。勢いと心に任せたこの旅行に、初めて太一は後ろめたさを覚えた。
 ヤマトのもとに押し掛けてきたようなものだ。
 黙り込んでいるヤマトの横顔をちらりと見つめ、太一は今日はホテルを探そうと密かに思った。
 本当なら、帰国するのが一番いいのだろう。だが、やらなければいけないことがまだある。
 もう少し――せめてクリスマスまではこちらにいよう。パリに、ヤマトの側に。
 太一はヤマトから前に目を移したが、少し遅かった。
 でこぼこした石畳の縁に引っかかり、太一はつんのめった。パンごと道路にキスしそうになった太一をヤマトがあわてて支える。
「何してるんだ」
「いや……」
 触れられたことよりも、太一はヤマトの手の熱さに驚いた。
「お前、熱でもあるんじゃないか」
 ヤマトはぼんやりと太一に目を向け、ゆっくり首を振った。
「いや……たぶん、寝起きだからだろ」
「そうか?」
「ああ」
 ヤマトはそれきり黙ってしまったので、太一も何も言えず、二人は黙って家まで歩いた。

 朝食を終え、太一が出かけようとすると、ヤマトもコートを羽織りだした。
「ついてこなくていい」
 太一はだるそうなヤマトの横顔に気づき、一人で出かけるから家にいろよと言ったが、ヤマトは聞き入れる様子を見せない。
「せっかく来たんだから、色々見に連れて行ってやるよ」
「いや、俺、一人で行きたいから、お前は家にいろよ」
 ヤマトの目が鋭くなった。太一は目を逸らしていたので気づかない。
「どこに行くんだ?」
「色々……ヒカリのおみやげとか、買わなきゃいけないんだ」
「だったら、俺が付いていった方がいいだろ」
「お前、熱あるのに、馬鹿なこと言うなよ」
「熱なんてない」
 言い切るヤマトに押され、太一はヤマトの同行を許してしまった。
 自分の予定が狂ったのが残念なのと、嬉しいのと半々の気分だった。
 ヤマトに連れられて、パリを訪れた観光客が訪れるような場所へ一通り足を伸ばす。
 初めて乗るメトロの不思議な、やけに人間くさい臭いに驚き、おなじみの凱旋門やエッフェル塔を見上げ、通りの小店を見ていく。馴染みがない骨董品も見るだけならばめずらしい。
 一山いくらのがらくたを太一が漁っていると、蚤の市がある日に買えばいいとヤマトは言って、昼食を取りにカフェに向かった。
 男には少々素っ気ないギャルソンの態度に太一は腹を立て、すでにそんな態度には慣れていたらしいヤマトは太一の顔を見て、微笑した。太一には気づかれないよう、愛しさをこめて、静かに笑った。
 カフェを出て、美術館へ向かう。本当なら一日かけて観た方がいいのだが、と洩らしつつ、慣れた足取りでヤマトは美術館を案内してくれた。もう何度も来ているらしい。
 観光客に混じって、美術の教科書や雑誌でも観たことのある絵画や彫像を二人で観た。ヤマトが説明してくれるとなぜか嫌味がないのが不思議だ。
 午後はほとんど美術館で過ごし、出る前に太一はヤマトに勧められて葉書を一枚買った。途中、郵便局に寄って、家族宛に送る。
 街灯やネオンが灯る頃になると、ヤマトは太一を連れて、唄にも歌われる通りまで行った。通りにはクリスマスに近いということもあってか、圧倒されるほどのすばらしい夜景が広がっている。
 イルミネーションを眺める観光客で出来た人混みを避けるような場所に立って、ヤマトは太一に話しかけた。
「お前、カメラとか持ってきてないのか」
「忘れたんだよ」
「もったいないな」
 ヤマトは笑った。
「腕時計もしてないだろ」
 太一ははっと左手に目を落とし、機嫌の悪そうに人の勝手だとつぶやいた。
「それはそうだけど」
 それを機に通りを後にして、家まで戻る。
 メトロへの階段を降り、太一は切符を買うヤマトに小声で呼びかけた。
「――なあ」
 ヤマトの反応が遅かったのは、疲れていたせいかもしれない。
「なんだ」
 すぐには答えず、切符を受け取って、太一はヤマトと並ぶ。改札を通り、プラットホームへ。ホームには新聞紙が散らばり、太一は何度かそれを踏んで、乾いた音を立てた。
 ヤマトがなんだともう一度訊いたので、太一は低い声でつぶやいた。
「やっぱりこっちのこと詳しいな」
「一応住んでるからな。知らなかったら暮らしていけないだろ」
「そうだよな」
 今日案内してくれたヤマトの顔を思い出しながら、太一は言った。
「好きなのか」
「……何がだ?」
「ここに住んだりするのがってことだ」
「ああ――」
 ヤマトは微笑した。
「嫌いだったら住まないぜ」
「そうだな」
 太一の横顔がはっきり分かるほど寂しげなものになった。
 ヤマトはプラットホームに止まったメトロのドアのレバーを押し、太一を先に乗せる。
 太一の背を見つめながら、やはり低い声でぼそりとつぶやく。
「でも、俺はやっぱりお台場の方が好きだ」
 太一が振り向いて、笑った。
「偉そうなこと言ってるんじゃねえよ」
 それもそうだとヤマトは苦笑するとメトロに乗った。

 帰宅時間のせいかメトロは混んでおり、中は蒸し暑かった。咳をする人の姿があちこちで見られる。ヤマトも何度か咳をして、そのたびに太一にごめんと謝った。メトロから降りて、寒い駅を歩きながらもヤマトの咳は止まらなかった。
「大丈夫か、ヤマト」
「平気だ」
 言う側からヤマトは咳をする。ホテル探しのことを言い出しにくくなり、太一はヤマトの白い頬を見つめた。
 暗いせいではなく、確かにヤマトの顔色は悪かった。かなりきつそうだ。
「部屋に薬置いてあるから、飲んだら直るだろ。どうせ明日も休みだし」
 ヤマトはそう言って笑ったが、太一は笑わなかった。
 家を出るときもっときつく止めておけばという後悔と、体調をおしてまで自分に付き合ってくれたヤマトに対するすまなさ、それに楽しかった今日一日に対する思いが複雑に絡まって、何も言えなかった。
「太一」
 ヤマトが少しかすれた声で呼んだ。
「なんだ?」
「……足、大丈夫か」
 人のことを心配している場合じゃないだろうと言いかけ、太一は目を伏せた。
 ヤマトが憎らしい。同時にたまらないほど胸が締めつけられた。
「平気だ」
「そうか」
 ヤマトは何か言いかけ、また咳をした。それ以上は話さず、アパルトマンまでの道を黙って歩く。
 長いとは言えない距離だったが、どこまでいってもヤマトの部屋にはたどり着けない気がした。
 その夜、薬を飲んでおとなしくベッドに入ったヤマトを見て、太一はソファに座ると膝を抱えた。ふと思いついて、グラスとこの間買ったワインを持ってくる。
 栓を開け、一人で飲みながら、太一はコートのポケットに入れっぱなしだった銀のブレスを取り出してきて、手の上でころがした。
 これをヤマトの目の前で付けていても平気でいられる日がくればいいのだが。
 修理に出してから、いつも持ち歩いている。時計の針は日本時間を指しているため、太一は居間の時計を眺め、時間を確かめた。
 いくらなんでも、フランスの時間にこの時計の時刻を合わせるほどのロマンチストではなかった。そういえば時差ボケもしなかったなと、太一はため息をついた。
 ヤマトがいれば、すぐにその生活に合わせられるということかもしれない。もうそんなことを思う自分に嫌悪感も、苛立ちも覚えなかった。ただ、寂しいと思うだけだ。
 ここの管理人であるマダムと親しげに話し、馴染みらしいレストランやカフェで常連として扱われるヤマト。太一には英語以上に分からないフランス語を流暢に喋り、すべてを知り尽くしたように堂々と市内を歩く。
 こちらで暮らしているのだから、それも当たり前の話なのだが、とっくに葉が落ちきった並木の下を歩くヤマトは、日本にいた頃以上に目立っていた。 人々とすれ違うとき、観光客だけでなく地元の女性達もヤマトを振り返って見ている。
 ヤマトは気にする様子もなかった。きっといつものことなのかもしれない。
 太一の知らない町で、太一の知らない人々と想像もつかない時間を送っているのだろう。
 始めから分かり切っていたことだ。嫉妬するよりも、ただ寂しかった。
 少なくなったグラスをふたたび満たして、太一はあまり上品とは言えない飲み方で中身を干した。今飲んでいるのはレストランで飲んだワインと同じものだが、ヤマトと飲んだときに比べれば、おいしくなかった。
 酔いばかりが空きっ腹に染みていく。夕食を取っていなかったが、食欲もなかった。それほどにヤマトの街中を案内する姿がショックだったのだろうか。
 それもある。そして、どうしてそんなにと言いたくなるほどヤマトは優しかった。自分の足を口にはしなくとも気遣い、どこへ寄っても必ず休憩させてくれた。日常生活を送るにはもう何の不自由もないというのに。
 美術館の階段を上がる際、膝が思ったほど上がらず、躓いたときなど、太一よりもヤマトの方が青ざめていた。そのせいで予定を繰り上げようとするヤマトを宥める方が太一には大変だった。
 痛みなどなく、痛んでも平気だ。そんな優しさの方が哀しく、寂しく痛みを感じるときもある。
 太一は黙って飲み続けた。
 ヤマトの具合が良くなったら、すぐにホテルを探そう。これ以上、ショックを受けない内にヤマトから離れないと日本には帰れそうにない。いや、もう帰りたくない。それでも今だったらまだ押し殺せる。
 ワイン一本を空けたとき、太一は服を着替えもせずソファに沈んでいた。

 目が覚めたのはガラスが割れる音でだった。あまりよい目覚めではない。口の中にも粘っこいアルコールの気配が残っている。
 頭を振って、太一は小さな明かりが点いているキッチンの方を見やった。
「ヤマト!」
 台に寄りかかるようにして、ヤマトが立っている。足下に割れたガラスが散らばっていた。
 口元を抑え、寝乱れた格好のままヤマトは太一を見た。
「起こしたか、悪い」
 声のかすれ具合に太一はぞっとして、あわてて起きあがった。
 ヤマトはかがんで、ガラス片を拾おうとしている。
 近づき、はっきり見えるヤマトのやつれたような顔に太一の体も冷えた。
「俺がやるからお前寝てろよ」
 ヤマトの手が震えるようにしてガラスを一つ摘んだのを横から取って、太一は言った。
 ヤマトは太一を見て、何か言ったらしいが、聞こえなかった。
 太一はためらったが、今は自分の感情に振り回されているときではないとヤマトに手を伸ばした。額に手を当てると、思った通りかなり熱い。自分の風邪が移ってしまったようだ。
「……熱、あるぞ」
 ヤマトが太一を見たが、その目は熱でとろんとしている。
 ガラスを拾おうとする手を叩いて、太一はヤマトをベッドまで追いやろうとした。
「水、くれ」
 太一の手を払いのけて、ヤマトは振り返った。
「ベッドに持ってく」
 ミネラルウォーターのボトルを太一は持って、ヤマトを支えた。
 触れた体は熱いが、ヤマトは寒いと何度か呟いている。早くベッドに寝かせた方がいいだろう。
 ソファの辺りでヤマトの足がもつれた。太一の肩にヤマトの体の重みが一気に伝わり、太一はよろけそうになった。
 ヤマトは立ち上がろうとして、そのまま太一に寄りかかる。抱きすくめられるような形になって、太一はびくりと震えた。
「ヤマト」
 苦しそうな吐息と咳が耳元でした。
 手に力がこもり、ヤマトは顔を上げようとしている。口元を抑えたのが太一には見えたが、間に合わなかった。
 何度か太一の肩の辺りに嘔吐して、それからヤマトは床に崩れ落ちた。
 ずり落ちていくヤマトを見つめる太一の顔はヤマトに負けず劣らず、真っ青になった。
「ヤマト」
 汚れた上着を脱いで、太一はヤマトを引っ張るようにして寝室まで連れていった。ベッドに寝かせ、ソファの分の毛布も彼に掛ける。
 自分の額に浮いた汗を気にすることもなく、タオルを濡らしヤマトの額に当てたが、どれほどの効果が得られるかは疑わしかった。
 太一は荒い息を続けるヤマトと開けっ放しのドアを見比べた後、ドアに向かった。自分だけではダメだ。誰か呼ばなければならない。医者か、それとも医者を知っている誰かを。

 朝食用のカフェを煎れて、ついでに猫のためのパンをミルクに浸していたマダム・ミネットの家のドアを開けたのは、別れた夫でもなく、嫁いだ娘でもなかった。
 ノックどころか声もかけず、部屋へ姿を見せたのは、彼女の遠縁に当たるルネの紹介でアパルトマンに入居した青年の友人、東洋人らしく黒い目と黒い髪を持つ青年だった。
 どうしてもアジア系の人種は年よりも幼く見えてしまうのだが、ここに駆け込んできたときの彼の顔はそれこそ怖い夢を見た子供そっくりだった。
 目を大きく見開いて、おそらく日本語と英語で何か訴える彼はマダムの腕を引いた。言葉が分からなくても何かあったのだとはいうことは分かる。
 すぐに立ち上がって、外へ出ると、青年はすごい勢いで階段を登っていく。
 まるでサーカスの軽業師のようだと、もたつく自分の足をしっかり持ち上げて、マダムはヤマトの部屋まで急いだ。
 ドアの前で自分を見つめる青年の手には薄い切り傷があった。血が滲んでいたが、痛さを感じてもいないようだ。
 開けっ放しのドアに、酸っぱい臭いが立ちこめる居間、ベッドにぐったりと横たわるヤマトを見て、マダムは太一が何を言いたいかを悟った。
「大丈夫、まかせときなさい」
 安心させるように何度か青年の背中を叩き、マダムはヤマトの部屋の電話に近づいた。
 ホームドクターの診療室の番号を回すマダムの背中を、太一は息を殺して見つめるばかりだった。


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