ドアが閉まる物音で目が覚めた。毛布をたぐり寄せるようにして、もう一度眠ろうとしたが、太一はすぐに身を起こした。いつものように自分の部屋で目覚めたわけではない。それに気づいたとき、もう眠くはなかった。
部屋はまだ暗かったが、向かいの建物にはぽつりぽつりと灯火がともっている。明かりのついた窓の向こうで人影がうごめくのがはっきり見えた。
床の冷たさに身を縮ませながら、少し開いている寝室のドアから中を覗く。
「ヤマト?」
人影はなく、寝室は空っぽだった。
明かりを付け、手近にあった時計を見た。まだ六時を少し過ぎた頃だ。どこに行ったのだろうと太一は玄関の方へ近づきかけ、くしゃみを二回した。
部屋は暖かいのだが、どうも寒気がする。ソファを借りて寝たのが、裏目に出たらしい。
いつまでも寝間着のままでいると本当に風邪を引きそうだったので、太一は着替え出した。ジーンズをはいて、上着を着ようとしたところでドアが開く。
「太一?」
明かりがつき、ヤマトははっと息を呑んだ。
太一は上着を手に取ったところだったので、上半身は裸のままだったのだ。
ヤマトは太一のすらりと均整の取れた体から急いで目を逸らす。
「わ、悪い」
太一は眉を寄せただけで何も言わなかった。
手早く上着を着てしまい、紐が緩んだままの靴を履くとヤマトに近づく。
「どこ行ってたんだ?」
「これ、買いに行ってたんだよ」
ヤマトは手にしていたバケットを太一に渡した。焼きたてらしくまだ熱い。
「カフェに行ってもいいけど、まだ寝てたから、家で食う方がいいかと思って」
ヤマトはカップを二つ用意し、朝食の支度を始めようとしたが、太一の方を振り返った。
「まだ、寝ててもいいぜ」
「起きる」
もう着替えたというのに、今更眠れるわけもない。
太一はむっつりと答えると、パンの端をちぎってつまんだ。
一口だけのつもりだったが予想以上に焼きたてのバケットは旨い。太一は続けざまにパンを口に入れて、ヤマトの背に声をかけた。
「おい、ヤマト」
「なんだ」
ヤマトの手が揺れて、カフェが台の上にこぼれる。
「こういうときは俺も起こせ」
台を拭くヤマトの手が止まったが、沈黙はほんの少しだけだった。
「わかった」
太一はまたパンをつまむ。
ヤマトが太一にカップを渡す頃には、パンは半分しか残っていなかった。
「なあ、日本食とか食べたくならないのか」
朝食を終えて、出かける準備をするヤマトに太一はぽそりと話しかけた。
「食べたくなるに決まってるだろ」
タイを締めるヤマトは微笑した。
夕食と朝食を共にしたことで、少しではあるがお互いの緊張がほぐれてきているようだった。それがヤマトには嬉しい。
「でもこっちにも日本料理を出す店もあるぜ」
「へえ」
「材料売ってるところもあるし、買わなくても、お袋が送ってくれたりする」
太一の目はキッチンに置かれた日本の物らしい調味料にむけられた。
「じゃあ、けっこういいな」
振り返ったヤマトの目に、太一のどこか沈んだ顔が写った。
まさか、もうホームシックというわけでもあるまい。
「……食べたいのか?」
太一が顔を上げる。目がヤマトを見つめ、それから太一は吹き出した。
少し無理したような笑いだったが、声にはからかうような響きがある。
「そんなわけないだろ。帰ったらイヤってほど食うんだから、こっちでわざわざ食べたりするか」
「そうだな」
帰るという言葉に、ヤマトは動揺したが、それを顔には出さなかった。
――昨日は帰国の話をしなかった。太一はいつまでこちらにいるとも言わず、ヤマトも聞かなかった。
持っていく書籍やレポート類を確認しながら、ふたたびヤマトは尋ねた。
「太一、昼間はどうするんだ?」
「適当にするから気にするなよ」
太一はそこいらにあった雑誌をめくり始める。
「外に行くだろ? これ鍵」
ヤマトは棚の引き出しから取り出した鍵を太一に差し出した。
「お前の分は?」
「それはスペアだから、俺の分はある」
太一はいくらか強張った表情でヤマトから合い鍵を受け取った。
「それと、これも」
ヤマトは一枚、紙を渡した。
「もし何かあったら、ここに連絡するか来てくれたらいい。下のは携帯の番号で、上のは大学の番号。研究室直通だから、たぶんヤマトって言えば通じると思う」
「ああ」
「行き方分かるか? ここから近いから、すぐに分かると思うけど……地図を書くから待ってろ」
太一はすでに支度を終えて出かけるばかりのヤマトに呆れたような目を向けた。
「いいよ。見ても分からないだろうし、第一ガイドブックぐらい持ってきてるからそれに載ってるだろ」
「……そうだな。電話のかけ方とか、分かるか」
「早く行って来いよ」
太一はうっとうしげに手を振ったが、ヤマトはまだ不安そうだ。
「お前、メトロの乗り方分かるよな?」
「いいから、行けって」
「なあ、やっぱり俺、休もうか」
「行けって。ガキ扱いするなよ」
太一は声を荒げた。
「一人で勝手にしてるから、ほっといてくれ」
「ああ……」
ヤマトは荷物を手にし、ドアへ歩いていく。ドアノブに手をかけ、また振り返った。
「明日からは俺も休めるから、遠くに行きたかったらそのとき……」
「行けって」
太一は立ち上がってヤマトをドアの外へ押し出すと、その鼻先でドアを閉めた。
ドア越しにヤマトのため息が聞こえる気がしたが、やがて足音が遠ざかっていくと、太一はヤマトから渡された鍵を手のひらの上で転がした。
「これ、誰に渡すつもりだったんだよ」
苛立たしげにつぶやくと、太一もため息をついた。
その日の夕方、予定よりも一時間も早くヤマトは大学を出た。
友人達の誘いを断るのは、それほどめずらしくもないが、教授の誘いを断るのは彼にしたらめずらしいことだった。不思議そうな顔をするルネ教授には正直に、日本から友人が来ているのだと打ち明けた。
堅物だと評判のヤマトだったが、いくら老境とは言え、フランスの男であるルネ教授は言葉の裏を察してくれたらしい。
本の中の美女もいいが、やはり現実の美女の方がいいのだねと笑って、その日までのレポートの提出期限を延ばしてくれた。
友人たちのブーイングと冷やかしの中、まだ明るい研究室を後にし、降り始めた雨の中を急いだ。
濡れた石畳の上を革靴が滑り、敷石の縁で止まる。何度も歩いた道だが、これほど急いだのは初めてだった。
いつも通りアーチをくぐる前、ヤマトは顔を上げ、自分の部屋の窓を見上げた。冬は日が落ちるのが早いが、窓の明かりはまだついていない。
不安と落胆とを滲ませたまま、階段を登った。
太一はどこまで行っているのだろう。遠くまで行ってはいないと思うが、道に迷ったと言うことも考えられる。
子供扱いするつもりはなかったが、慣れない国と通じない言葉の二つはいつでも不安の種だ。やはり表で待っていようと引き返したところで、太一がくしゃみしながらアーチをくぐってきた。
「太一」
「ヤマト。早かったな」
太一は鼻をこすって、階段の一段目に立つヤマトを見上げた。
「ああ、早く終わったんだ」
「そっか」
太一は左手をポケットにつっこみ、もぞもぞと動かすとまた出した。
階段までやって来て、太一は手すりに手をかけた。
「部屋、行こうぜ」
「どこ行ってたんだ?」
この界隈の観光場所を思い出しながら、ヤマトは尋ねた。
太一は曖昧に笑っただけで、どこへ行っていたのかは言わなかった。
「夕食はどうする?」
とりあえず部屋に戻って、ヤマトは聞いたが、太一は続けざまに三度くしゃみした。
その頬が少し赤いのを見て、行きつけのレストランに行くという予定をヤマトは止めにしようかと考えた。
「なんか、買ってくるか」
まだ店は開いている。総菜屋で適当におかずを仕入れてくればいいだろう。
そう思い、部屋を出ようとしたヤマトだったが、太一もついてきた。
「部屋で待ってろよ」
「いいだろ、別に」
「風邪引くんじゃないか」
「平気だ」
結局、その日は部屋でなく、予定通りレストランで夕食を済ませることになってしまった。
二人で空けるつもりで取ったワインを、太一は一人で空にしてしまい、そのまま二本目を注文し、それもほとんど一人で飲んでしまった。
さすがに三本目も注文するのだけは止めさせ、レストランを後にした。太一は不満そうだったが、酒に強い強くない以前に、体調のことがある。
帰り道、明るい通りを歩きながら、初めて太一と飲んだのだとヤマトは気づいた。
一緒にいた頃は堂々と飲める歳ではなかった。飲めるようになれば、太一はいなかった。せめて酒を酌み交わすくらいには、二人の間は変わったと考えてもいいのかもしれない。
少なくとも、並んで歩く程度には近づけている。――ヤマトのすぐ横を太一は歩いていた。
酔いのせいか、足取りが軽い。ふらふらと店に入りたがるのを引き留めたり、逆に二人で入って、品物を冷やかしたりした。
だいぶ外国語を口にすることに照れがなくなったらしく、太一は片言のフランス語を交え、たまに日本語で店の主人と話したりする。
陽気な日本人をめずらしがってか、それとも日本びいきの店なのか閉店近くだというのにそれほど邪険に扱われることもなく、どの店主も面白そうに相手にしてくれた。
太一の滞在中に必要と思われる細々した雑貨やワインを何本か買って、家まで帰る。
まだ飲むのかとヤマトは眉を寄せたが、太一は部屋へ戻ると小さくあくびした。眠いのか目がとろんとしてきている。
ヤマトは寝室の机から必要な資料やノートパソコンを居間のテーブルへと移動させた。ついでに蛍光灯も。
パリ中、どこの家でもそうなのだが、照明が暗いのには辟易する。
必要なものはテーブルの上にすべてそろえてしまうと、ソファで眠りかけていた太一を起こした。
「お前、今日はベッド使えよ」
「いいよ」
「いいから使えって」
太一は面倒くさそうに首を振ったが、ヤマトは寝室に荷物と太一を放り込んだ。
ちゃんとした寝台を使い、暖かい部屋で一晩休めば引きかけた風邪も良くなるだろう。眠気に負けた太一はおとなしくベッドに入ったようだ。
テーブルの上に資料を広げ、パソコンの電源を付ける。
保存してあるレポートを見る前に、メールをチェックした。昨日はチェックどころかパソコンに触れてもいなかったのだ。
何件ものメールを見ていく内にヤマトの口から複雑そうなつぶやきが洩れた。
「……あいつ」
ここ最近、連絡が途絶えていた丈からのメールが届いている。
メールに気づいた瞬間、太一のことを聞くと言葉を濁したり、ごまかしたりという妙な態度を取っていた理由や、連絡がなかった理由が分かった。
さらにメールを読んだ後は、ヤマトは苦笑するしかなかった。
『クリスマスには早いけど、プレゼントがついた頃だと思います――丈』
まさか、佃煮や羊羹をプレゼントと言うわけでもないだろう。
画面の向こうでほほえむ丈が見えた気がし、ヤマトはため息をついた。
あいつは見かけによらず人が悪い。たしかに最高の贈り物だ。同時に、ヤマトが一番困る贈り物でもある。
今朝見た太一の素肌を思い出し、ヤマトは唇を噛むと、覚えた熱を振り払うように、レポートを打ち始めた。
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