La Vie en Rose
2



 クリスマスまでそれほど日がないためか、通りはかなりの賑わいを見せていた。
 ヤマトは白い息を吐きながら、人々の間を通り抜け、家までの道を急ぐ。ちょっと慣れない字体で書かれた文献を読んでいると、あっと言う間にこんな時間だ。
  ショーウィンドウの明かりで時間を確かめ、この先にあるカフェで食事を取っていくかとも考えたが、気がつけば前を素通りしていた。
 そう言えば先週あのあたりに泥棒が入ったと言うし、今日はまっすぐ家に帰っておいたほうがいいのかもしれない。
 我知らずため息が洩れた。
 町の雰囲気はこれからの休暇とクリスマス、新年を控えてひたすら明るいが、どうしてこう自分の心は沈んでいるのだろう。
 原因は考えるまでもない、簡単なことだ。丈とここ最近連絡が取れないのだ。電話で話せても、肝心なことを聞かないうちに丈は電話を切ってしまう。メールへの返事もない。
 大学院への進学を控えて忙しいらしいが、それでも、彼の近況を伝えるくらい――たった一言でいいのだ。元気でやっているとか、新しいバイトを始めたそうだとか、そんなことでいいのだ。だが丈ははぐらかすように、彼のことを教えてくれない。
 最近聞いたのは、太一の貯金がかなりの額になっているという、ただそれだけだ。
 自分から電話すればいい話なのかもしれない。けれどそれだけはどうしてもできなかった。
 せいぜい、葉書を一枚送れた程度で、その文面に三日も悩んだと言えば、丈は笑うかもしれない。返事を期待したわけではなかった。夏、空港に見送りに来てくれた、それだけで満足するべきだと自分に言い聞かせて、もう半年だ。
 三年も会わないでいたというのに、たった半年我慢できずに、今からどうするというのだ。たぶん、彼の字を見れば声を聞きたくなる。声を聞けば会いたくなる。
 会えば――そこまで考えてヤマトは首を振った。
 何かが変わったが、それからどうなったわけでもない。馬鹿な期待を持つのはひかえるべきだ。
 家まで後わずかのところまでいつの間にか近づいている。
 今日の夕飯は、堅いバケットとチーズとワインという日本人にしては素っ気ないものになりそうだ。ハムでも残っていればいい。心が重いとそんないつものことも、ひどくわびしく思われた。
 アーチをくぐり階段を登っていく。いつもこの螺旋階段を登るたびに眩暈を覚える。
 自分の部屋がある階まできたとき、ヤマトは足を止めた。
 ドアの前で、ここのアパルトマンの管理人が身をかがめて、何かしている。彼女は教授の遠縁に当たるらしい女性だが、迫力ある外見とは裏腹にじつに気のいい、世話を焼くのが好きな性格だ。
 泥棒よけのいい方法でも思いついたのかと、ヤマトはわざと咳払いをしてみた。
 マダムはすぐに顔を上げ、こちらに向かって微笑んで見せた。手にマグカップを持っている。
「ヤマト、お友達がいらしてるよ」
 体格のよい彼女のスカートの影に、しゃがんでいる人影が見えた。
 最初は見間違いか、それとも、じつはカフェで酒を嗜みすぎたのかと思った。
 ここが日本なのか、フランスなのかも分からなくなり、彼が本当に太一なのかも分からなくなった。
「夕方からずっと待ってたのよ。寒いからって部屋に誘ってもここから動かないし……ヤマト?」
 黙って、突っ立っているヤマトを見てマダムは不安になったらしい。
「ねえ、本当にお友達よね? まさか泥棒ってことないわよね」
 はっと我に返り、ヤマトはうなずいた。
「俺の……友人です、間違いありません」
「ああ、よかった」
 太一は二人のやりとりを聞きながら、立ち上がった。
 間違いなく太一だ。幻でない証拠に、マダムは親しげに太一に話しかけ、太一もそれにうなずいている。
 言葉が通じているのかどうかはしらないが、太一は丁寧な口調でマダムにメルシィと言った。
「いいのよ、やっと帰ってきてくれて安心ね」
 カップを持ったまま、機嫌良くマダムは部屋へ戻っていく。
 やっとヤマトは足を踏み出し、ドアの前の太一と見つめ合った。
 鼻の頭が真っ赤だ。冷たい廊下でどれだけ待っていたのか。夕方過ぎだというのなら、軽く五時間は経っている。
「お前……」
 言葉にならない。マダムが階段を降りていく甲高い音も遠くで聞こえたようだった。
「……よお」
 それが太一のヤマトに向けた第一声だった。決まり悪げに顔を伏せ、左手をコートのポケットに入れている。
 まだ幻かもしれないと言う疑いは解けない。
 気がつけばベッドの中で目が覚めていて、二日酔いの頭痛に悩まされているのかもしれなかった。
 何度か、息を吸ってようやく聞けた。
「いつ、来たんだ」
「今日」
 何時に、と聞いたヤマトだったが太一の返事はくしゃみだけだった。
 こんな寒いところで立っていても仕方ない。ヤマトはコートの胸ポケットから鍵を取り出すと、ドアを開けた。
「部屋、上がれよ」
 部屋に招き入れる。太一に背を向けるのが恐ろしくてできない。
 もし背を向けた瞬間、太一が消えて、自分一人だけが部屋の真ん中にいたりしたら、それこそ気が変になりそうだ。
 息づかいと足音、それにコートの布が触れあって立てる衣擦れの音、部屋に二つの音が重なった。
 太一は部屋を見回してから、ヤマトを見た。初めて、彼を見る気がする。知らない見たこともない部屋に、皮のコートを着て立っている。
 太一はヤマトから視線を外した。
「けっこう、広いな」
 ドアが他にも二つ見える。少なくとも後一部屋はありそうだ。
 家具は時代物らしく、木の柔らかな色合いが落ち着いた雰囲気を醸し出している。
「そうでもない。後一つ、寝室があるだけだ」
「あのドアは?」
「あれは風呂」
 コートも脱がず、二人で家の間取りを話している。静かになるのが怖く、太一は質問を続け、ヤマトはそれに答えた。
 まだ寒い部屋に白い息が二つ舞う。
 部屋が暖かくなったころ、太一はようやく質問を止め、ヤマトも口をつぐんだ。これで太一は、部屋に関してはヤマトと同じくらい色々なことを知ったことになる。
 大学に近いことや、教授が以前住んでいたこと、その縁でか特別に家賃を安くしてもらっていること。自分の部屋のことをこんなに話したのは初めてだ。
 まだお互いにコートを着たままだったので、ヤマトはコートに手をかけた。
 太一はコートを脱ぎもせず、壁の一角にかけられた古い地図を見ている。
 コートを脱ぐようにうながしたところで、ヤマトはふと聞いた。
 決して他意のない言葉だった。
「お前、ホテルはどこにしたんだ?」
 太一はうろたえたように口中で何かつぶやくと、荷物を取り上げ、ドアへ向かおうとした。
「おい」
 まさか、と思った。
「太一」
 太一が振り返った。目が臆するようにしてまたたき、すぐに逸らされた。
「今から探すんだ」
「太一」
 肩をつかんで、引き留める。
 空をつかむのではなく、その手はしっかり太一の体に触れられた。夢でも幻でもなく、そこにいたのは太一だ。
「悪い。行かないでくれ」
「いや、お前だって忙しいだろうし、ちょっと顔を見に来たんだよ」
 太一はきまり悪そうに、自分が思っていたことを恥ずかしがるような小声で言った。
 どんな理由があって、なんのために太一がフランスへ来たのか、ヤマトは知らない。
 ただ太一が自分のところへ少しでもいいから、顔を見せに……会いに来てくれたことだけが嬉しかった。
 冬の休暇中に仕上げるレポートも論文も、読まねばならない書籍の題名すらヤマトはすべて忘れた。
「ここでよかったら――」
 ヤマトの言葉を遮るように、太一は右手を振った。左手はずっとポケットに入ったままだ。
「ホテルくらいすぐに見つかると思う」
 抱きしめたい、その唇に口づけたいという衝動をこらえ、今度はヤマトが太一の言葉を遮った。
「忙しくない。もう少ししたら休暇に入るから、俺は全然構わない」
 太一がここにいるという喜びを持ってしても、次の言葉を言うのは恐ろしかった。
「……泊まっていけよ」
 太一は目を伏せ、首を振った。
「いや、部屋せまくなるし、邪魔だろうし……」
「いい。邪魔じゃない」
「ベッドとかないだろ」
「俺はソファで寝るからいい」
「そうじゃない……」
 太一の言葉が止まった。ヤマトが肩に置いていた手をそっと離す。
 人差し指が最後に離れたとき、わずかに震えたが、太一は気づかなかった。
「――いいから、泊まっていけよ」
 返事も聞かずに、ヤマトは部屋を片づけだした。
 ソファに掛けっぱなしの服や、その辺に置いてあった本や雑誌を片づけ、テーブルの上の新聞をたたむ。
「ヤマト、やっぱり、俺……」
「太一」
 怯えを滲ませ、ヤマトは太一を振り返った。
「泊まっていけよ」
 どうしたらいいのかわからないように太一の手が荷物を持ち上げかけ、また力無く離された。
 ヤマトは必死で太一を引き留める理由を考えた。なんでもいい。ここにいてくれたのなら、それでいい。
「ほら、俺聞きたいことあるし――タケルとかどうしてる?」
 タケルからはメールがしょっちゅう来る。父や母からも、手紙や日本からの宅配便がよく届いた。
 それも忘れ、ヤマトは拾い上げた雑誌が滑り落ちるのにも構わず、太一を見つめ続けた。
「ヒカリちゃんとか、大輔とか、みんなの話を聞きたいし」
 確かにそれも聞きたい。けれど一番聞きたいのは太一の声。一番見たいのは太一の姿。
 太一が何か言いかけた。
 聞こえない振りをして、ヤマトは言った。
「頼むから、泊まっていけよ……」
 太一は乾いた唇を小さく動かした。
「……ああ。悪いけど、そうさせてくれ」
 ヤマトの体から力が抜けた。ふたたび部屋を片づけ出す。太一が荷物を下ろし、コートを脱いだ。
 そうして、どちらも相手に聞こえないような、小さな安堵のため息をついた。

「腹、減ってるだろう?」
 戸棚からバゲットを取り出し、ヤマトは太一に聞こえないように舌打ちした。
 時間が時間だ。食品店はほとんど閉まっているだろう。どこかに食べに出てもいいが、それはいやだった。
 他人がいる場所で太一と向き合うより、この部屋で二人きり、距離を置く方がまだいい。
「いや、コーヒー飲んでいたから、そんなには」
「買い出ししてないから、ろくなもんないけど……」
 素っ気ない食事に自分は我慢できるが、太一はどうだろう。
「何があるんだ?」
 太一がヤマトに近づく。
「パンとかワインとか」
「充分」
 太一は思いだしたように荷物を置いたソファに戻り、何か探し始めた。
 ヤマトはその間にテーブルに今、この部屋にある食べ物を並べ出す。こうしてみると恥ずかしくなるくらい、お粗末なものばかりだった。
 太一はテーブルの上に枯れた緑色の包装紙でくるまれた包みを差し出した。
「これ……一応、おみやげ」
 佃煮と羊羹を差し出されて、ヤマトはどんな顔をしていいのか分からなくなる。たしかに日本からのおみやげらしい。
 太一がヤマトの表情に、眉をひそめた。
「なんだよ。文句あるなら丈に言えよ」
 そこには照れが感じられ、ほんのいっときだけヤマトは昔に戻った気がした。
 冗談を言い合って、笑いあっていた昔。どれだけ遠い時間だろう。
「……ありがとう」
 丈の名前に引っかかりを覚えたが、礼を言って受け取る。
 夕食の準備、といってもただ戸棚や冷蔵庫から出したようなものばかりだが、とにかく食卓を整えて、向かい合って座った。このときばかりは間接照明のありがたさが分かる。
 微妙に陰影ができる太一の表情は読みとりにくく、たぶんヤマト自身の表情もそうなのだろう。
 瓶に半分ほど残っていたワインを飲みながら、近況ばかり話した。今年の夏の話は避けて、お互いの半年間だけを話し合った。
「バイク?」
「そう。大型取った」
「買うのか?」
「買いたいけど、高くて」
 太一はきまり悪げに微笑し、ヤマトは太一の面から手元のグラスに視線を落とした。
 目が合う度に、そっと視線をずらす。そのくせお互い相手を盗み見てしまう。
「髪、切ったんだな」
「うっとうしかったから」
「自分で?」
「いや、友達が」
 美容師を目指す友人の実験台になったとヤマトは微苦笑し、太一はヤマトから皿に目をやった。
 目を合わせ、見つめあうことを恐れているのに、ほんの少しでも視界から外していると相手が消えてしまいそうでそれも怖い。
 同時に話しかけ、そして口ごもる。何を食べたか、どんな味だったかも、感じはしないまま、食事を終えた。
 ヤマトは太一にベッドを譲ろうとしたが、太一はさっさとソファに横になった。
「気にするなよ」
 困ったように自分を見つめるヤマトを見て、太一は笑った。
「……そのかわり部屋代はなしにしてくれな」
 ヤマトがふっとため息のような笑い声を立てた。
 それで決まりだった。ドアの向こうに消えていくヤマトの背を見つめながら、太一はふとあの一人で眠るには大きなベッドのことを思った。
 日本人とは体格が違う西洋人が使っているにしても、たしかに寝台は大きかった。だが、そう、二人で眠るにはちょうどいいくらい……ヤマトは誰と眠ったのだろうか。
 ――そんな埒もない考えにひたる前に太一は目を閉じた。


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