La Vie en Rose
1



 頼りになるのは、一枚のメモ用紙。そこには殴り書きのような自分の文字で書かれた、見慣れないアドレスが書かれている。
 教えてくれたのは丈だ。
 手紙のやりとりはしないと決めていた。メールも電話も――連絡は取らないと、見送った空港で勝手に決めた。
 彼からは季節の変わり目に一度、絵葉書が来た。
 着いたのは秋の終わりだったか、それとも冬の始まりだったか。
 内容は元気か、で始まり、風邪引くなよで終わる、二、三行の短い文面だけだった。住所は書かれていない。
 机の上でしばらく表の文字を見つめ、それから裏返して、写真を見つめた。
 時代を感じさせるセピア色の写真には、シルクハットをかぶった男性が石畳の上を歩いているところが写されている。
 アンティークな絵はがきに写るここはフランスの町なのだろうかと思った瞬間、たまらなくなった。
 そのまま迷う暇なく、銀行に走り、貯まっていた預貯金を下ろし、丈に電話した。
 よけいなことは何一つ言わず、丈はアドレスを教えてくれ、その翌日には、どうにかチケットを取り、パスポートを確かめて、
 荷物をまとめていた。
 ――すべての用意が終わった後、初めて両親とヒカリにこの冬は旅行へ出かけると告げた。
 すでにチケットも荷物の用意も終わっていると言うと、父も母も半ば呆れながらどこへ行くのかと聞いてきた。
 行き先を告げたときの、驚いた表情は忘れられない。きっと相手にも何の連絡はしていないと言うともっと驚いただろう。
 どうにか許可を取り付けると、その他の細かい準備を全部済ませ、太一は出発した。
 空港には丈が来ており、いくつか注意をすると、気を付けるんだよと子供に言い聞かせるような口調で言い、手を振ってくれた。
 心配そうな丈の顔――兄がいるとしたらあんな感じなのだろうか。だとしたらずいぶんと心配ばかりかけている。
 曇りかけていた空は飛行機が飛ぶころには、すっかり晴れており、空の上は冬とは思えないくらいに太陽が照りつけていた。
 真っ白な雲のように太一の心も白く、何も考えられない。
 隣りの英国人だという男性が何度か話しかけてきたが、慣れない英語で適当に返事しただけだ。
 家族とクリスマスを過ごすために帰ると言っていたらしいから、ひょっとしてフランス人なのかもしれない。
 だが、隣り合わせた客と話すことより、外を見ている方が良かった。変わりばえのしない空でも、この空は彼のもとへつながっている。
 飛行機が空港へ着くことを、パリの空を飛ぶことを太一は待っていた。
 どれだけの時間、空を見つめ、淡い眠りを繰り返したか。
 ノン・ストップの便とはいえ、日本から十二時間。日付変更線を越え、フランスの夕方近くになって、入国カードを配られる。
 手を休めながら、必要事項を書いている内にようやくアナウンスが流れ、安全ベルトを締めるように指示する光が太一の目に映る。
 いよいよなのだ。飛行機が揺れる。
 着陸の瞬間、アドレスを書いた紙を太一は握りしめていた。

 初めて訪れる空港は不思議な薫りに満ちていた。
 外国だからと言うだけでなく、香水の国としても有名な国の空の玄関だからかもしれないが、すれ違う女性達の体からは日本ではないような香りが漂ってくる。
 入国手続きを何とか終え、係員の言葉に首を捻った。おそらくはよい休暇をとでもいったのだろう。
 荷物を受け取り、通関係員の前を通り、それから自動ドアをくぐれば、ようやくパリに――とはいかない。
 ここから市内までまだ距離はある。
 太一は辺りを見回し、丈の言葉を思い出した。土地勘がないのだから、無理をしないでタクシーに乗ればいいと言っていた。
 バスや国鉄もあるそうだが、安く済ませるより確実さを選べとの忠告――太一は何台も並ぶタクシーから、顔立ちが一番優しく見える運転手を選んだ。
 荷物を積んで、乗り込むと運転手が、何か聞いてくる。
 答える代わりに、くしゃくしゃになったメモ用紙を差し出した。
 確かめるようにまた運転手が太一の顔を見つめる。
 太一が大きくうなずくと、運転手はウィ・ムッシュと笑い、車を発進させた。
 どこまでいっても見慣れない町並みが続く。石畳を歩く人々も、建物も、流れる車すら日本とは全く違う。
 何もかも、太一には見慣れない、彼には見慣れているであろう風景を目に焼き付けるように、太一は外ばかりを眺めていた。
 ここに彼はいるのだ。ここに彼は住んでいるのだ。
 ひょっとしたらすぐ外を歩いているかもしれない。今、行きすぎた車の中に彼は乗っていなかったか。
 運転手は太一をパリは初めての客と見たらしい。
 めずらしい、もしくは観光名所らしい場所を通りがかるたびに、何やら話しかけてくるが、太一は適当にうなずくだけだ。
 右手が無意識に左手首をまさぐる。冷たい感触が、暖房の効いた車中で心地よかった。
 太一の眼差しは窓から離れない。

  だいぶ市内を通り過ぎて、橋を渡った。運転手がまた何か言う。
 さすがに無視し続けるのも居心地の悪い話なので、太一は運転手の方を見つめた。
 彼は気を悪くした様子もなく、ゆっくりと繰り返してくれた。
 どうやらここはセーヌ河の上だと言いたかったらしい。ガイドブックで確かめたアドレスの場所は、セーヌ川を越えた場所だ。
 夕暮れと言うにはだいぶ暗い外をふたたび眺め、太一は膝の上で拳を握った。
 あとわずか。そこに彼がいる、あるいは彼の住む場所はすぐそこにある。
 細い路地をいくらか入ったところで、運転手が車を止めた。ここから先は車を乗り入れることは無理らしい。
 トランクの運搬料を付けた料金を運転手に見てもらいながら払い、太一は外へ出た。
 空港から降り立ったとき以上に空気は冷えて、寒い。
 肩を震わせ、歩きだそうとした太一に、運転手が窓から呼びかけた。  太一は料金が足りなかったのかと振り返った。
 運転手は窓から身を乗り出すようにして、首を振っている。その手は太一が行こうとした方向とは逆の方向を指していた。
 フランス語独特のもの柔らかい響きが立ち並ぶ家々の外壁にこだまする。  どうやら、方向が違うらしい。
 気恥ずかしさを押し隠し、メルシィとぎこちなく言ってみると、運転手がにやりと笑った。
 太一が歩き出すと、挨拶代わりかクラクションをぷっと鳴らし、車は行ってしまった。
 何気なく、もう一度振り返ってみると、運転手が振る手だけが見えた。
 メモに目を落とし、薄暗くなった道を歩いていく。 夜の暗さで道がわかりにくくなる前に、彼の住むアパルトマンを見つけださねばならない。頼りになるのは自分の目と足だけだ。
 運転手の指した方向をずっと歩いていくと、それらしい建物があった。周りの建物と何が違うわけでもないが、ここだろうという直感があった。
 奇妙な形をしたアーチをくぐり、彼の部屋を探そうとすると、不意に一番手前のドアが開いた。
 中から現れた体格のよい女性が、驚いたように太一を見つめ、太一も目を丸くして女性を見つめた。血色はいいが、それほど若くはないらしい。白髪混じりの髪が綺麗に編まれている。
 まばたきを数度して、女性はすさまじい早口で何か話しかけてきた。
胡散臭そうな目つきから、怪しまれていると言うことがすぐに分かる。
 太一はあわててメモ用紙を見せ、それから英語で自分は彼の友人なのだと伝えたが、女性は厳しい目つきを変えない。
 ヤマト、ヤマトと何度も繰り返しているうちに、太一は不安になってきた。
 言葉はちっとも分からない。ヤマトには連絡も入れておらず、目の前の女性は自分を疑っている。
 何というあやふやな状態でここまで来たのだろうか。
 女性が口早に何か言う。ヤマトという単語以外はよく分からなかった。
 沈んだ太一の顔を見て、女性が腕を組む。
 やがて太い腕を伸ばし、太一の手をつかむと女性は奥へ歩き出した。
 螺旋階段を登り、あるドアの前に立つと、ノブを引っ張ってみせる。がちゃがちゃと手応えがあり、女性は太一を見た。
 太一は女性とドアを見比べ、それからドアに貼られている表札を見た。アルファベットの綴りには、懐かしい名前が書いてある。
 石田ヤマト――頭でアルファベットから日本語に変換すると、ようやく女性の言わんとするところがわかった。
 ヤマトは留守だと言いたかったらしい。大きくうなずき、日本語で分かったとつぶやく。
 それからまた腕を引っ張られたが、太一は首を振り、ドアの前から動かなかった。
 女性は階段を指し、笑顔を見せたが、太一は首を降り続け、ここにいるのだと身振り手振りで女性に伝えた。
 女性は目を丸くし、何度か太一をうながすように手招きしたが、太一は動かない。やがて首をすくめた女性は階段を降りていってしまう。
 ほっとした太一が手袋をはめようと荷物を探りかけたところで、女性がまた姿を見せた。
 太一にマグカップを差しだし、ほほえむ。マグカップには湯気が立つカフェが入っていた。
 カップを受け取ると太一は小さく、それでもはっきりとした声で礼を言った。
 女性が笑顔で行ってしまった後、太一はカップに口を付けた。あたたかい、冬に飲むにはあまりにあたたかすぎるコーヒーだった。  これ一杯あれば、いつまでだって待てる。太一は壁を背にして、しゃがみこむと目を閉じた。


>>>

<<<<