La Vie en Rose
10



 ふたたび、寝台に腰掛け、太一はブレスの鎖をもてあそんでいた。鎖が触れあい、時計の音が響き、自分の息づかいしか聞こえない部屋。
 風に扉がきしむ。立て付けが悪いため、鍵を閉めないときちんと閉まらないのだ。
 細い悲鳴のような扉のきしむ音は静かな部屋に嫌でも響くが、もう慣れた。だからこそ、扉のきしむ音ではない微かな異音に太一はびくりと顔を上げた。
 間違いなく、階段を誰かが上がってくる音だ。
 泥棒や強盗などということは考えもしなかった。もはや扉から目を離すこともせず、太一は待った。
 ドアノブが回る瞬間を、何よりも誰よりも求め続けた彼が姿を見せることを、不安と希望とに息を殺しながら待った。

 暗い廊下には一つだけ明かりが点いている。足下を照らすただそれだけの小さな明かりだ。
 それでも暗い中を歩き続けたヤマトの目には眩しく映った。目を細め、何度かまばたきする。
 一番奥の角部屋の扉を開けるため、いつものくせで胸ポケットに手をやりかけ、鍵は部屋に置きっぱなしだと気づいた。太一は出ていくときに扉を閉め、その鍵をマダムに預けていっただろうから、自分は部屋には入れない。
 こんな遅い時間にマダムを起こすこともできず、かといってここで夜明かしするわけにもいかない。
 もっと早く、このことに気づけば良かった。
 せめてアーチをくぐる前にでも気づいていれば、他の住人を気遣って足音を忍ばせなくても良かったのだ。
 引き返しかけ、ヤマトは足を止めた。
 風が窓を打ちつける音と静かさのせいで耳鳴りめいた音がする以外、何も聞こえない……そのはずだった。
 普段なら気にも留めない音だ。ドアが開くときにたてる金具のきしみなど、気にしたことはなかった。
 扉は閉められているはず、そして鍵をかけられた扉はそんな音を立てない。部屋には誰もいないのに、なぜそんな音がするのだ?
 泥棒が部屋をあさったために、開けっ放しになっているのか。あるいは、太一が扉に鍵をかけなかったためか。 
 沸き上がるもうひとつの考えを振り切るため、確かめるために、ゆっくり扉に近づいた。
 それとも――冷え切って思うように動かない手をドアノブにかける。
 ……それとも、誰かが部屋の中にいるか。
 扉を開けるために力を込めたことも分からなかった。
 部屋が見える。暗闇になれるまでの時間、身動きもできない。
 開いた扉の向こうにある、もう一つのドアが開いている。寝台に腰掛けている人影が見えた。
 何度もまばたきし、それから足を踏み出した。
 声も出なかった。青ざめたヤマトの唇はかすかに太一というかたちに動いただけだった。

 暗い部屋に廊下からの風と明かりが忍び込んだ。寒さと明るさに誘われるように、太一は立ち上がる。
 かしゃりと乾いた音がして、ブレスが手のひらから滑り落ちたが構わなかった。ヤマトと呼びかけたが、喉がひきっつたようにしか動かない。
 ヤマトが腕を上げるのが見える。
 広げられたというよりも、すがるようにしてヤマトは太一に腕をさしのべ、太一は引かれるようにして冷たい腕の中に飛び込んだ。
「ヤマト」
 言葉にならなかった。ヤマトの体のあまりの冷たさに太一の目から涙がにじむ。
 冬の空気とかすかに酒の匂いがし、懐かしいヤマトの香りも混じる。
 どうしたらいいのかわからないまま、太一はヤマトの背に腕を回し、冷たい体をあたためようと体を添わせた。
 冷たい頬が擦り寄せられ、そこにはかすかにざらついた感触がある。
 ヤマトの冷たさに自分の体は冷えているのか、それとも自分の体温が少しは彼を暖めているのだろうか。
「太一、俺……」
 何を言おうとしたのか、言いたかったのか分からない。
 無意識に暖を求め、太一を抱く腕に力を込め、ヤマトは目を閉じた。
 愛おしすぎて、触れることすら怖いこともあるのだと知ったのはいつだったのだろう。
 今は離すことが怖い。太一から離れることが怖い。
「――言えよ。訊きたいことがあるなら、全部言えよ」
 涙でくぐもった太一の声がした。
「俺、話すから――」
「太一」
「全部、話すから……」
 ――どこにも行くなよ。太一の言葉に目が熱くなった。
 息が詰まる。どうして離れていられたのだろう。どうしてこの温もりから遠ざかるなどということができたのだろう。
 腕の中の太一のあたたかさが体中に染みていく
「――ごめん、太一」
 太一が首を振った。太一の涙がヤマトの頬にあたたかさを残し、消えていく。
 ささやくようにヤマトは繰り返し、太一を抱きしめ続けた。
 太一の肩の震え。涙がこぼれ、ヤマトを濡らす。名を呼び、呼ばれ、そのたびに互いを抱く腕に力を込めた。
 耳元で聞こえる相手の声に限りない安堵と安らぎを覚え、そこにはどうしようもないやるせなさがある。これほどに抱き合い、求め合っているのに、まだ何か薄い壁のようなものを感じてしまう。
 ほんの少しの距離なのに、指先を伸ばしさえすれば壊れるもろい壁なのに、どうしてもそれができない。
 拒まれることが怖い。また離れて、もとの一人だけで過ごす日々に戻ることが怖い。疑い、嫉妬に苛まれた日々に戻ってしまうのかもしれない。
 背中からお互いの手が落ちる前に、ほんの少し見つめ合った。
 泣いている太一の頬に手を当てたかった。ゆっくりと背にあった手を太一の頬に伸ばす。
 太一が身を引くような動きを一瞬だけ見せ、ヤマトは指先から力を抜いた。どうしたいというのだろう。こんな太一を前にして自分は何を押しつけたいのだろう。
 冷えたヤマトの指が離れようとする。
 ヤマトの目が潤んでいるのが太一には見えるような気がした。
 確かめるため太一はまばたきし、目の涙を落とすと首を振った。
 違う。彼を泣かせたいのではない。では、どうしたらいいのだ。また、離れてしまうのに、こうして彼を求めていいのだろうか。
 ヤマトとの間にある空気が震える。体の冷たさからは想像ができないくらい熱いヤマトの吐息は自分の名を呼んでいた。
 涙の気配がする。ヤマトと知り合い、彼の涙を見るたびに思っていた。
 泣かせたくない。自分でそれができるのなら、どれだけ幸せなことだっただろう。
 今、ヤマトはたぶん泣いている。自分を見つめながら、あの冷たい頬に涙を伝わせている。
 太一は指先を伸ばした。ヤマトのことで恥ずかしくなるくらいに泣いた。けれど、彼もそれと同じくらい泣いたのだろうか。
 指先に濡れた感触が走る。この涙を止めることができるのだろうか。ずっと離れていた自分に。彼を思い切り傷つけた自分に。
 だが、もはやためらうことなく、太一はヤマトの両頬を挟むようにして包み、彼を見つめた。
 ヤマトが息を呑んだ。いや、太一の方だったのかもしれない。
 だが、どちらのとまどいも一瞬だった。震えていた太一の指先にヤマトの手が重ねられる。
「太一」
 かすれたヤマトの声だった。その声にすべてを振り切り、太一はうなずいた。
 離れるよりも、もっと怖いのは今ヤマトを失うことだった。この時間を失うくらいなら、この先一人で生きていくことくらい何でもない。
 重なったヤマトの手に力がこもる。降りてきた唇に目を閉じた。
 触れたヤマトの唇が、柔らかいあたたかなものになるまで、唇を重ね、熱くなっても離さなかった。
 どうやって寝台のある部屋まで行ったのかも、服を脱ぎ捨てたのかも分からない。服を脱いだヤマトの体はさらに冷たく、太一の体はそれをあたためようと熱くなった。
 声をひそめていた太一の唇から泣くような声が上がったのは、ヤマトの唇が右腿に触れたときだ。唇に、舌に感じられる傷跡に、ヤマトは太一が今まで感じてきた痛みをすべて吸い取ってしまうように何度も唇を這わせ、そのたびに太一は涙と声を洩らした。
 かつて知った熱さ、それをふたたびなぞり、快楽のためというよりも、失い続けてきた時間を埋めるように体を重ね、探る。
 記憶の中にあるよりも、細くなり、あるいはたくましくなり、傷が増えている。それでもそれは求め続けてきた相手の肉体だった。
 あとは幾つかのささやきと互いの名を呼び合う声、それだけでよかった。
 手を伸ばせば、求めるものがあり、その熱さを感じることが出来たから、今だけはそれで充分だった。


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