La Vie en Rose
11



 瞼の裏にちらつく光が外からの陽光だと気づくのに、それほど時間はかからなかった。まぶしさに痛みを感じつつ、目を開けると、横にいたはずの太一がいない。
「太一!」
 叫びながら、起き上がり、閉じられている寝室のドアに青ざめた。
 寝台から降り、床に散らばったままの衣服をあわてて身につける。太一の衣服だけないのに、まさかとヤマトは最悪の想像をしかけた。
 靴の踵を踏みながら、ドアを開けようとすると、その前に太一がドアを開けた。
「呼んだか?」
 不思議そうに聞き返す太一の体からはお湯の匂いがする。髪の毛も濡れたままだ。
「あ、いや……」
 緊張を一気にゆるめられ、ヤマトはぼんやりした顔で答えを返す。
 手に握ったタオルで頭をこすると、太一はヤマトの顔を見て、微笑した。
「髪の毛くしゃくしゃだぜ。お前もシャワー、浴びてこいよ」
「ああ」
 それでもヤマトは動こうとはしない。
 太一は頭を拭くふりをして、タオルで顔を隠した。
「お前が上がるまで……待っててやるから、終わったら飯、喰いにいこう」
 ふっと空気が動き、太一はヤマトに抱きしめられた。
 何か言いかけようとすると、すでにヤマトは太一から離れ、浴室に向かってる。
 ちらりと見えた表情はおだやかなものだった。
 太一はうつむいたまま、玄関に置きっぱなしのトランクを部屋に戻そうとヤマトの後を追い、居間の方へ戻った。

 髪や体を洗い、ついでに髭も剃って全身をすっきりさせてから浴室から出ると、ソファに腰掛けていた太一からぶっきらぼうな声がかけられた。
「遅えよ」
 太一はすでに着替えを終えている。部屋の隅に置かれたトランクに安心し、ヤマトは膝の上に置かれた太一の手に目を留めた。
 見覚えのある銀の光。それをはめた手首は少し震えている。
 ヤマトは何も言わず、黙って太一の前に立った。太一がこちらを見ないので、その場にしゃがんで、太一の顔を見上げる。
「……持ってたのか」
 贈ったことは忘れていなかった。けれど、もう太一の手から離れていても不思議ではないと思っていた。
「悪いか」
「いや」
 ヤマトは太一の手を取った。手の中で鎖が音を立て、太一はじっとヤマトをにらむように見つめた。
「――もう、捨てられたかと思ってた」
 低く囁く。
 太一の手が震え、ヤマトはその強い瞳を見つめ返した。
 張りつめた目の奥にあるのが何なのか、ヤマトが悟る前に太一が顔を逸らした。
 追うようにして身を起こし、太一の目をのぞこうとした。
 頬を挟めば、太一は下を向こうとする。
 まだ濡れた髪をかき分けて、額に唇を押し当てた。
 ゆっくりずらしていけば、瞼のかすかな震え。瞳に口づけた。ほんの少し熱い涙の味がする。
「捨てられるかよ……」
 唇が重なる前に太一がつぶやいた。
「ああ」
 吐息の重なりに、太一がヤマトの背に腕をまわす。
 どれほど抱きしめても抱き足りない。太一を腕の中に収めながら、ヤマトはそう思わずにはいられなかった。

 それは限られた時間だからこその、甘さであり、幸せであったのかもしれない。相手を残し、出かけることはなく、どこへ行くにも二人一緒だった。
 ヤマトの友人の家へ遊びに行くときも、やがてくる新年のために、食料や当座必要なものを買い出しに行くときも、常に二人で出かけ、離れなかった。
 二人してマダムに心配をかけたと謝りに行き、呆れられ、笑われ、夕飯をごちそうになった。教授に電話して、世話をかけたと謝るヤマトの背に太一の笑い声が響き、ヤマトの苦笑が重なる。
 わずかな距離でさえ、広がることを恐れ、ヤマトは太一の側に居たがり、太一もそれは同じだった。部屋にいるときは、一瞬たりとてお互いの姿を逃すまいと、手を伸ばせば届く距離に位置した。
 ヤマトがソファに腰掛けて本をめくっていると、太一が横に座る。ほんの十分もたたないうちに太一はヤマトの膝に頭を預け、ヤマトは片手で本をめくる。もう片手は太一の髪を梳くために使われることになるからだ。
 太一が寝息を洩らすことになることもあったし、その前にヤマトが読書を止めて、そのままソファで熱い時間を過ごすこともあった。
 そんな時間を過ごした後の浴室で、頬に流れたのはたぶん、お湯ばかりではない。何度となくお湯の流れる音を聞きながら、ヤマトは太一を抱きしめ、太一は肩の震えを隠そうとした。
 そうやって涙を隠そうとする太一をヤマトはいっそう強く抱きしめ、太一は腕にこもった力にふたたび目を潤ませ、それを隠そうとするのだったが。
 ――先が見えているから、ふたたび距離に遮られる生活に戻るからこそ、今を繰り返し楽しんだ。楽しまなければならなかった。
 唇からこぼれるのは笑い声、冗談と軽口、それに口づけ。それ以外に唇を使うことはなかった。体を重ねることがなくても、寝台で寄り添って眠り、目覚めれば何よりも先に口づけを交わした。
 商店が閉まり、新年が近づいてくれば、あたたかい部屋だけで過ごし、たまに届く日本からのメールや葉書を二人して読んだ。
 日本語を、そして友人や弟妹達の文面をみた後は、何も言わず微笑し合う。
 もうすぐ太一は帰り、ヤマトはそれを見送るのだと知っていたから、何も言わなかった。
 そう遠くはない別れを控えていたから、せめて今だけは泣き言も未練がましい言葉も言いたくないとヤマトも太一も心に決めていた。口にすれば、抑えているものすべてが溢れだし、それは相手を困らせるだけだと二人はもう知っていた。
 幼い頃ならば、何も隠さずによかっただろう。それが正しいことだと思い、事実そうだったからだ。けれど、もう、夏に冒険を共にした子供ではなく、ときには心を隠さなければいけないこともあると知るくらいに大人になってしまった。
 心に秘めて耐えなければならないこともあると知ってしまった。
 だから、太一がヤマトのパソコンを借りたいと言ったときも、ヤマトはうなずいただけだった。
 ネットの接続の仕方くらい、太一だって知っているだろう。航空会社のサイトの調べ方だって、同じだ。分からなければ太一は聞いてくるだろうし、自分は何でもないふりをして手伝ってやればいい。
 太一がソファの上で眉を寄せて、キーを叩いたりマウスを動かしたりし始めるのを見てから、ヤマトはキッチンに立って、夕食の準備を始めた。
 いつの間にか今年も最後、今日は大晦日だ。年越し蕎麦が食べたいという太一に従って、今日の夕食は蕎麦になった。
 それと米を炊いて、おにぎりでも作るかとヤマトは鍋を探した。もうそろそろ炊飯器を買った方がいいとは思うのだが、なかなか機会がない。
 水を計っていると、太一に小さな声で呼ばれた。
 振り向かなくてもいいというくらいの低いその声に、ヤマトは手を止めただけで、やはり振り向かなかった。
「……五日、帰る」
「ああ」
 では、チケットは無事に取れたのだなとヤマトは、少し安堵した。
 それ以外、何を思えるだろう。あと一週間近く、太一と過ごせることに感謝するしかないではないか。
「何時のだ」
 太一がかすれた声で口にした飛行機のフライト時間に、空港に行くまでの時間を考える。午前中に部屋を出なければいけないだろう。
 そそいでいたミネラルウォーターが、とっくにカップ一杯になっていることにヤマトは気づかなかった。
 太一がパソコンを片づけているのか、コードが床に落ちる音がした。マウスも落ちたらしく、プラスチックの乾いた音も響く。
 乱暴に扱うな。ヤマトがそう言う前に太一の言葉が聞こえた。
「――帰りたくねえよ」
 どんな心があったら、こんな声が出るのだろうか。
 小さな声だ。水の音に紛れてしまうくらいに小さな声。聞き流してしまえば、帰国の日まで、穏やかに過ごせる。
 永遠に離れてしまうわけでもなく、ただ元いた場所に、今までの生活に戻るだけなのに、それがどうしてこんなに悲しいのだろう。
「帰るなよ」
 ヤマトはつぶやいた。太一のつぶやきと同じくらい、小さな子供じみた声だった。
 カップを流しに放り投げ、何もかもそのままにしたまま、ソファに近づいた。
 うつむいていた太一を抱きしめる。
「帰るなよ」
 堰を切ったように涙が出てきた。情けないと思いつつも、ヤマトは太一の肩を濡らした。
 太一はヤマトを抱き返し、また小さく、帰りたくねえよとつぶやいた。
 お互いのむなしい言葉を消そうと口づけ合ったが、瞳をのぞけばそれが言葉以上に心を示していた。
 帰りたくない。帰らせたくない。――指先を絡め合った。
 心の醒めた部分は何を子供のようなことを、と囁いている。ここに引き留め、ここに残り、どうするのだと言っている。
 それが分かっているから、そんな無茶が通らないことは十分に承知しているからこそ、ヤマトと太一は幼い子供の我が儘のように何度も何度も同じ言葉を繰り返した。
 帰りたくねえよ。
 帰るなよ。
 馬鹿みたいだなと太一が笑いかけ、ヤマトはそうだなとうなずきかけ、また太一の肩に顔を伏せた。子供だと思われても、馬鹿だと思われても構わなかった。
 太一の側にいたい。それだけだ。
 太一の手が宥めるように髪を撫でる。指先が髪の間を辿り、一房つまみ、また離す。
 浴室で太一が涙をこぼし続けたときのように、ヤマトも涙を幾粒もこぼした。
 今までも、これからもこのパリに居続けるのだ。様々な人々に囲まれて――癖のある友人と尊敬できる恩師とお節介なのが玉に瑕の管理人、この先出会う人々もいるだろう。友人であれ、気にくわない人物であれ、様々な人々に。けれど、ここには太一は居ない。
 遠い場所にいるのだ。触れたいと思っても簡単には触れられない場所に戻ってしまうのだ。
 誰よりも一番側にいて欲しい、自分の隣りに立っていて欲しい太一は遠くにいる。
「ヤマト」
 太一の声に首を振った。
「泣くなよ」
 かすれた優しい声だった。
「泣いてない」
 言い返すとまた涙が出そうになった。ずっと昔もこんなやりとりをしたことがあった。
 どうして彼の方が強いのだろう。自分は耐えられない。一度得て、失い、ふたたび得られたものをまた離すことなどに耐えられない。
「――泣くなよ」
 太一の声は震えを帯び、絡めていた指先に力がこもった。
 伏せていた顔を上げれば太一は目を閉じていた。目尻が濡れている。
「お前も……」
「泣くな」
 自分に言い聞かせるような太一の声だった。
 太一の肌に爪をくい込ませるくらいに強く、離すまいという意思を込めて、ヤマトは繋ぎ合っていた手に力をこめた。
 まだ涙で冷たい頬を太一の頬に寄せ、洩れてきそうになる嗚咽と泣き言を堪える。
 痙攣を起こしたように震える唇を太一に押し当て、涙が乾くのを待った。
 太一が手を離そうとする。引く手を逆につかみ、しっかりソファに押しつけた。そのままソファに崩れ落ちていきながら、せめてこの熱に没頭することで別れを忘れようとした。
 自分の全身すべてに太一を刻み込み、太一の全身に自分を刻み込み、少しでも二人を結ぶものを作りたかった。
 どんなにもろくても、結ばれているのだと知れば、少しは心も安らぐにちがいない。
 荒々しい愛撫と動きにも関わらず、あえぎを洩らしながら、自分を受け入れてくれようとする太一にヤマトはまた泣いた。

「――腹、減ったな」
 我を忘れるように体を重ねた後、太一がつぶやいた。
 まだ汗ばんだ肌で太一の上にいたヤマトは身を起こす。
 体が冷える前に、太一の方から手を伸ばしてきた。手を貸して座らせてやると、太一が肩に頭を乗せ、体を預けてきた。
 くっついたまま、時間が過ぎていくのをただ感じた。何でもない一秒が別れに近づく一秒だ。
 時計の針が時間を見つめだしたころから、ちょうど一周まわるころ、ヤマトは立ち上がろうとした。
「飯、作ってくる……」
 その裾をつかんで、引き留めたのは太一だった。
 振り向いたヤマトに太一は首を振って見せ、うなだれた。
「いい」
「腹、減ったって――」
「いい」
 太一は言うと片手で顔を覆う。たまらず、ヤマトはまた太一を抱き寄せた。
「……どうしろって言うんだよ」
 ヤマトのつぶやきに太一は首を振り、ため息をついた。
 ヤマトも、もう何も言わず太一を抱きしめるだけだ。 
 結局、夕食を取ったのは年が明けてからだった。
 年越し蕎麦にもならない、ただの蕎麦を啜りながら、忘れていたように二人して同時にあけましておめでとうとつぶやき、ほほえみあった。何がめでたいのか、ちっとも分からなかったから、それがおかしかったのだ。
 泣いた後は、そんな些細なことが哀しいくらい、おかしかった。

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