La Vie en Rose
12



 その日から――帰国が決まった日から、言葉を交わすよりも、口づけし合うことが多くなった。
 言葉は口にすれば、すぐに消えていってしまいそうだが、唇の感触は言葉よりは長く温もりを残しそうだった。
 抱き合わずに時間を過ごさないことがめずらしくなり、一日のほとんどをベッドの上で過ごす。ヤマトの読みかけの古本はすべて机の上に忘れ去られ、代わりに指先は太一の肌にばかり触れることになった。
 裸でいても寒くはなく、毛布の中は心地よい温もりで満たされている。あたたかさをもっと望むのなら互いの体に手を伸ばせばよかったのだ。
 肌に残る爪痕も口づけの後も、消えたことはなく、増えていくばかりだった。そうすることがせめて、相手の体に自分を残すことだと思ったように、体中に愛撫の名残は増えていく。
 時間はすでになく、窓からの光があるかないか、今は夜なのか昼なのかそれだけだった。
 夜が来れば、それが何回目の夜なのかを数え、そのたびに一人で過ごす夜が近づきつつあることを二人は知った。

「ヤマト――?」
 横にあったはずの温もりがなく、太一は手探りでベッドを探り、ヤマトがいないのを確認するなり、起き上がった。
「ヤマト」
「ここにいる」
 居間へと続くドアを開け、ヤマトが乱れた髪のまま立っていた。
「飲むか」
 カップを差し出され、太一はうなずいた。
「熱いから気をつけろよ」
 カップの中身はワインのようだったが、甘さと酸味があった。蜂蜜でも垂らしているのだろう。
 眠気を感じていた頭がワインの香りでさらにぼんやりしてくる。
「まだ、寝てろ」
 カップを受け取ると机に置き、ヤマトは言ったが、太一はヤマトが隣に来るまで起きていた。
 ヤマトがベッドに横になると、ようやく太一は目を閉じる。
 シャツを羽織っただけの姿だが、閉じっぱなしの部屋の空気はあたたかく、かすかに湿っているようでもある。
 太一の頬に触れようとし、ヤマトはその指を引いた。
 さきほど、のどの渇きを潤そうと立ったキッチンで日付を確かめてきた。
 こうやって、ベッドの上で抱き合って過ごすようになってからすでに三日経つ。明日になれば四日目、明後日になれば五日目。その日、太一は部屋からいなくなる。
 太一が寝返りを打ち、ヤマトの方へ顔を向ける。
 太一の閉じられていた瞼が開いて、目が見えたとき、ヤマトは太一の額に手を当てた。髪を掻き上げると、太一の目が笑ったのか、細くなる。
 眠りかけていた太一の額は熱く、起きていたヤマトの指先はひんやりとして、それが互いに心地よかった。
「太一 ――」
 唇が勝手に動く。『あ』から始まる言葉を言いかけ、ヤマトはうなだれた。
「何だよ」
 眠気とくすぐったさにぼやけた声を出す太一に首を振る。
 言えるわけもなかった。自分は言うだけで満足できる。
 答えを求めたわけではなく、自分の心にある気持ちに一番近いものを言葉にすれば、その形になるだけだ。
「何でもない」
 言葉に誓い、従うことはどれだけ幸せだろう。今は太一がすべてだと言ってもいい。
 太一が気づかれないように何度も目を擦る姿を、見ない振りをする自分が情けなかった。
 ――言うのは簡単だ。その後の寂しさに耐えれば、きっと簡単なことだ。
 太一の髪に額に触れるのを止めず、ヤマトはまたぽつりとつぶやいた。
「――何でもない」
 太一のぬくもりに誘われるように身を横にする。
 我知らず強張っていた体がほぐれた。太一が身を寄せてきて、それに腕を絡ませるとヤマトは目を閉じた。
 心の中でつぶやく言葉のせめて一つは太一に届いてくれればと、密かに願いながらヤマトは自分自身にも聞こえない声で愛しているとつぶやいた。

 四日目の時間は、驚くくらいにゆっくりと、そのくせすさまじい早さで過ぎていく。
 互いに気づかれないように時計を見上げ、そのたびにまだ五分ほどしか時間が経っていないことに安堵し、ふたたび見上げた時計にもう五分も経っていると、唇を噛んだ。
 太一はヤマトが何か用があって寝室からいなくなったときだけ、荷物をまとめ、それを知ったのか、ヤマトはしょちゅうベッドからいなくなった。
 そうしてヤマトは戻ってきては太一に口づけ、少し冷えた手で抱き寄せる。
 ベッドでは意味のないことばかり話した。
 寒いか。
 寒くない。
 部屋が散らかってるな。
 あとで片づける。
 ――途切れた会話の沈黙は互いの唇でおぎなった。
 夕方、八度目にヤマトがいなくなったとき、荷物の用意はほぼ整った。
 できるだけ遅らせても、この間詰めたきりほとんど空けていない荷物は幾らもない。あとは、明日詰め込めばいいものだけだ。
 トランクの蓋を閉めてしまうと、その音を聞いたようにヤマトが部屋に入ってきた。
 太一はあわててトランクから遠ざかり、ヤマトは何も見ないようにして太一に早いが夕飯を食わないかと誘った。
「何か作ったのか?」
「サンドイッチ」
 太一はベッドの上に放りっぱなしの上着を手にとって、頭からかぶりながら、ため息をついた。
 タートルネックのニットセーターのせいか、なかなか頭が出てこない。
 それでもくぐもった太一の声が聞こえた。
「お前って、なんでそんなにまめなんだよ」
 食欲などはとっくに消え失せている。
 明日は飛行機に揺られるのだから、少しは食べ物を口にしなければ悪いのは、承知していたが、ヤマトが作ったものなど食べたくない。どうせまた自分の好きなものばかり、パンの間に挟んでいるに違いない。
 忘れていてくれればいいのに、いつまで経ってもヤマトは忘れてくれない。そして、食べたくないはずなのに作ってくれる食事を残したことはなかった。
 自分などの好みをいつまで覚えているのかと聞きたくなったが、ヤマトのことだから一生忘れないに決まっている。コーヒーの濃さも熱さも、入れる砂糖やミルクのことも、バカみたいに細かいことを、ずっと忘れないのだ。
 自分と離れても、そんなことだけはきっと覚えている。顔を出そうともがく振りをして、滲みかけた涙を拭いた。
「何してるんだ」
 ようやく頭が出そうになったところで、太一はヤマトが手を伸ばすのが見えた。
 今、手伝われたら泣いているところが見つかるなと思いつつも、体が動かなかった。
 ヤマトの手がセーターを伸びないように下ろし、太一の頭をのぞかせる。
 たぶん、襟口に触れたときに濡れた感触に気づいていたのだろう。
 くしゃくしゃになった髪を直すように手が触れて、唇が近づいた。手からはバターとパンの匂いがかすかにする。
「……」
 ヤマトに、そして自分に泣くなと言った。けれど、ヤマトが見ていないときに必死に目を擦ったのは太一の方だった。
 ヤマトはきっと気づいている。赤くなってしまう目元に気がつかない振りをして、少し冷えた指先でいつも目の腫れを冷やしてくれた。
「ヤマト――」
 言葉を言わせず、ヤマトが唇を覆う。
 もがいて、涙を堪えながら、もがいて、ヤマトを突き飛ばそうとした。
 なぜ、帰国を遅らせようとしたのか。チケットを予約するときにもっと早い便を選べば良かったのだ。
 こんなにじりじりと時間になぶられるような方法を選んだ自分を太一は罵り、それでもヤマトといたいという己の弱さを憎んだ。
「太一」
 ヤマトの手が肩を押さえる。明日になれば、もうこんなことはできない。では一体、これからどうやって生きていけばいいのだ。
 離れて――ヤマトから離れて、それに慣れて生きろというのか。
 困らせてはいけないと知っている。言ってもむなしく、これは永遠の別れではないと知っている。それでも、たとえかりそめの別れと理解しても、ヤマトと離れたくない。
「……」
 ヤマトの手から逃れようとしながら、太一は必死に口を押さえようとした。
 ヤマトのもとへ冬の休暇に遊びに来て、また帰る。それでいいのだ。短いが、幸せな時間を過ごせた。それでいいのだ。
 日本には友人がいる。妹が待っている。ほとんど連絡も入れずに、こちらに来たきりの自分を心配している両親がいる。
 みやげとこちらの珍しい話と、もって帰らなければならない。最初は寂しいだろう。それでもいつかは慣れるはず。
 こちらでのことをたまに思い出し――そして、ヤマトがいないことに慣れてしまう。ヤマトの声を些細な表情の変化を、指先の感触を、体の熱を、彼の全てが側にいないことに慣れてしまう。
 悲鳴のように太一はつぶやいた。
「――いやだ」
 喉が引きつり、唇は震えているのに、はっきり言えた。
「俺、帰らねえ」
「太一」
 肩に置かれていたヤマトの手が引きつるのが分かった。
「こっちに残る」
 言ってしまえば、もう後は止めようがなかった。
 急にしがみついてきた自分を揺らぎもせずに、受け止めたヤマトの腕に太一は涙をこぼした。
「お前とこっちで暮らす」
 ヤマトがはっと体と手を震わせる。
「勉強する。なんだってするから、こっちにいる」
「太一……」
 覗き込もうとするヤマトから顔を逸らし、太一はヤマトの胸に額をつけた。
 涙はヤマトの服に染みをつけることなく床に落ちていく。
「ずっとお前といる」
 きっとヤマトは困った顔をしている。ここに来てから、どれだけ彼を困らせたか、数えたことはない。
 ここに来てからでもなく、いつでも困らせてきた。もう困らせたくない。 けれど、離れるのはもっと嫌だ。そしてヤマトを困らせるのもそれと同じくらいに嫌なことだ。
 分かってはいても止められない涙と同じで言葉も止まらなかった。
「こっちでお前と一緒にいる」
 どんな困った顔をしているのだろう。見れば、きっとまた泣きたくなる。
 でもヤマトは返事をしないから、何も言わず悲しげに自分を見つめるだけだろうから、太一は顔を上げた。
 ヤマトの目を見れば、笑うつもりだった。何を本気にしているんだと笑って、ヤマトにしがみつけば、それで終わりのはずだった。
 今は冗談だということにして、あとで泣けばいい。浴室の水音は声も涙もごまかしてくれる。ここで泣けないなら、日本に帰ってからでもいい。泣くのはいつだってできる。
 ――ヤマトの黒ではない鮮やかな色の瞳は大きく見開かれていた。
 悲しい希望に満ちた、内からの真剣さに張り裂けないのが不思議なくらいの眼差しだった。
 太一を見つめ、ヤマトは怯えを含ませた声で言った。
「いいのか」
 ヤマトが部屋に戻ってきた夜のように太一はうなずいた。
「ここにいる」
 ヤマトの目が閉じ、唇が何か言いたげに開き、しかし言葉は何一つ洩れることなく、太一に重なった。
 言葉を嘘にしないようにしっかり抱き合い、ベッドに崩れ落ちた。
 今の言葉が一夜かぎりの真実だとすでに理解していても、幻にしないように抱き合わなければならなかった。
 触れてくるヤマトの指先に声を上げないように、太一は唇を噛み、口を手で覆う。一声でも声を出せば、明日からもヤマトと一緒にいられるというはかない幻想が消えていきそうな気がした。
 目を閉じ、声を上げない太一にヤマトが顔を覗いてくる。口を覆っていた手をほどかれ、必死で閉じている唇にヤマトの唇が優しく触れ、開かせる。
 滑り込んできた舌が、優しさと官能とを太一に伝え、ヤマトはなおもきつく握られていた拳をそっと開かせた。
 名を耳元でささやきながら、服を脱がせ、太一の体を開かせていく。触れるたびに、太一の体が震え、ヤマトの体は熱を帯びた。
 声を出そうとしない太一が哀しく、愛おしく、ヤマトは指先を太一の指に絡ませ、しっかり握りしめた
「太一」
 名を呼んでも太一はうなずき、ヤマトの吐息に体を震わせるだけだ。
 眉を寄せ、これだけは押さえようもない荒い息を洩らす太一の顔は苦しげにも見えた。
 苦痛に歪む顔と、快楽に溺れた顔は似ているかもしれない。自身もどちらともつかない感覚の狭間で顔を歪め、ヤマトは汗をこぼした。
 太一の肌の熱さが、自分の肌の熱さと溶け、交わっていく。唇を重ねるごとに、吐息が熱くなり、絡めた指先に力がこもった。
 目の前がかすんでいくとき、ベッドのきしむ音にまぎれて、太一の声を聞いた気がした。
 それをどれだけ太一の口から聞きたいと願い、祈っただろう。
 己にその資格はないと、自分の貪欲さを責めながらも、その言葉を求めて止まなかった。
 空耳なのかもしれないし、ただの乱れた息づかいなのかもしれない。だが、それで良かった。
 さきほど交わした言葉が幻に終わるのなら、今の言葉も同じだ。言葉は幻に消え、そのままお互いの心の淵に沈めればいい。
 心の戒めをほどき、ヤマトは太一に押さえようのない心を告げた。
 今なら寂しさもなく、ただ残るのは快楽と情慾の熱だけだ。 
 太一がうっすらと目を開く。潤んだ目は迫り来る波のためか、それともヤマトの言葉を聞いたせいか。
「ヤマト――」
 かすれた太一の声に、うなずき、唇を押し当てた。
 太一の唇から、微かに甘さを秘めた声が洩れだす。
 後の真実はお互いの温もりだけだった。もはやそれ以外に何もなく、それ以外に何も感じたくはなかった。

「太一?」
 まだ火照り、汗ばんだ体を抱きながらヤマトは太一を呼んだ。
 息づかいと、ときおり腕の中で動く以外、太一は静かなままだ。
「うん?」
 かすかな声が届き、首に太一の腕が絡んできた。
「……」
 一時の激しさは去り、静かな時間がまた訪れている。
「どうかしたのか」
「寝たのかと思った」
 ふっと太一の息が肌に当たり、太一が笑っているのが分かった。
 そんなに変なことを聞いたかなとヤマトもおかしくなった。
「まだ寝るかよ」
「そうだな」
 部屋は暗くなっているから、もう夜には違いないが、何時かはわからない。きっと、まだ眠るには早い時間だろう。
 太一の体の線をなぞるようにして撫でながら、ヤマトはシーツの皺を数えていた。
 二十四本目の皺は太一の枕に伸びた手の近くにあり、ヤマトは空いた片手で太一の手を取った。
 指を合わせたり、折ったりして遊んでいると太一がヤマトの髪を引っ張った。
「なあ」
 勢いが良かったので、たぶん二本くらい髪が抜けた。小さな痛みだったが、腹いせにヤマトは太一の指を強く握ってやる。
 太一が負けじと握り返してきたので、しばらく指相撲のようにして遊んだ。
 お互いに一度ずつ負けを認めたところで、ヤマトは太一に話の続きを聞いた。
「なんだ?」
「え?」
 逆に聞き返してくる太一にヤマトは微笑した。
「何か、話があるんだろ」
「ああ。あのさ、ちょっとフランス語教えてくれよ」
 何かものを取ってくれとか、今何時だとか聞くような気軽な調子で言われ、ヤマトは眉をひそめた。
「ちょっとって言ったって……」
「俺、挨拶くらいなら、分かるようになったけど後が全然駄目だからさ」
「そうだな。たまに発音が変だけど」
 たまに英語風の発音になって、マダムが苦笑していたことを思い出し、ヤマトは吹き出しかけた。
「お前、今笑っただろ」
 太一が身動きして、顔を覗き込んでくる。
 なるべく真剣な顔つきにして、ごまかした。
「いや、笑ってない」
「笑った」
 太一の手がヤマトの頬に触れ、ヤマトは我慢できず笑いながら、太一に手を重ねた。
「ごめん」
「お前と比べるなよ」
 太一が機嫌を損ねる前にヤマトは謝った。
「悪かった。俺が勉強し始めた頃よりはうまい」
「そうか?」
「たぶんな」
 余計な一言を付け加え、ヤマトは太一に蹴られた。
「――いいから、ちゃんと教えろよ」
 太一は暴れたせいで、ずれた毛布を引っ張り上げる。
「何から教えればいいんだ?」
 何でもいいと太一は言い、ヤマトは少し考えたあげく、アルファベットの発音を教えてやった。
 一生懸命自分の真似をして太一が後からついてくる。
 今だったら死んでも後悔しないなとヤマトはぼんやり思った。
「なんか、舌が疲れるなあ」
 二十六文字を発音し終わった後、太一がつぶやいた。
「もう一回、一人で言ってみろ」
 太一がまたAから、始めだした。聞いている内に、ヤマトは少し眠くなってきたが、太一も同じだったらしい。
 途中のPは最初に注意したにも関わらず、英語の発音だった。
 違うと言いかけて、ヤマトはあくびした。太一の声も口の中で消えていく。
 眠りに落ちる前にと、枕の下の目覚まし時計を探った。
「俺、どこまで言ったっけ……」
「エックスじゃなかったか」
 太一につられ、ヤマトも英語の発音で答えていた。
 太一は何も言わず、ヤマトに身を寄せて、もう目を閉じていた。ヤマトも気づかないまま、目覚まし時計を枕の下に戻すと、太一を抱き寄せ、目を閉じた。
 きっと夜明けまでは目が覚めない。誰も、何ものも邪魔できないだろう。寂しさも別れも、夜明けまでは遠いものだった。


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