――目覚ましの音が聞こえないといいと思っていた。
枕の下から響くベルの音にヤマトは目をこすり、起き上がる。横でまだ眠っている太一に口づけて、ベッドから降りた。
服を着替え、目をこすりながら浴室で顔を洗い、身だしなみを整えると、朝食用のパンを買いに行くために、鍵を取り上げる。
寝室の方を振り返ったが、太一の起きてくる気配はない。急いで外に出て、階段を降り、パン屋まで早足で向かう。
今日はいつも通りの、そして最後の朝になる。バゲットを買って、部屋へ戻っても太一はまだ目を覚ましていなかった。
起こすには忍びなく、部屋のドアを音を立てないように閉めてヤマトは朝食を作り出した。
クロック・ムッシュでもと思い、バターを塗っていると寝室のドアが開く音がした。
「太一……」
振りむきかけた姿勢のままでヤマトは太一に背中を殴られた。
たいして痛みはなく、太一のため息の方が何倍もつらかった。
「俺も起こせって言っただろ」
「――悪い」
わずかに見える太一の横顔に手を伸ばし、抱き寄せた。
さきほどまでいたベッドの温もりと匂いがする。寝癖で跳ねた髪が鼻先をくすぐった。
「寝かせといた方がいいかと思ったんだ」
太一は何も言わず、ヤマトの肩に顔を埋めた。
「朝飯……」
「いらねえよ」
太一がヤマトの肩の上で首を振った。
「喰わないと」
そう言いながら、ヤマトの手は太一から離れず、太一も顔を上げようとしなかった。
肩口が濡れていくのが分かる。
いつまで抱き合っていられるか――時間を計り、ヤマトはそっと太一の肩の向こうで目を閉じた。
せめて、最後の太一の涙が乾くまでは、こうしていよう。
朝食を取って、家を出た。マダムに挨拶して、晴れた冬の空の下、二人で歩く。石畳はまだ冷たく、口元に白い息が舞う。
タクシーで行こうと言ったのだが、太一は聞かなかった。
「寒いな」
「雪が降るってさ」
ヤマトが朝食を作っているときに太一はテレビを見ていたらしい。
雪かと空を見上げれば、雲などどこにもない。天気予報は外れだとトランクを持ちながら、ヤマトはつぶやいた。
「何か言ったか?」
「いや、晴れてるなって思ったんだ」
定刻に飛行機は飛ぶだろう。ヤマトは太一のまだ眠そうな横顔を見やって、うつむいた。
家にいるときよりも家を出た方が痛みが少ない。たぶん、太一もだろう。
「こっちか?」
「いや、左」
分かれ道で右を指す太一に首を振り、左に折れる。たまに言葉をかわしながら、街中を少し歩く。駅へと続く階段を降りながら、ヤマトは太一が持つ荷物の方を見た。
「手続きしなくちゃな」
太一の荷物には友人や家族へのみやげが含まれている。宅配便で送るほど多くはないが、簡単には終わらないくらいの量の多さだ。手にしていた荷物を太一はちらりと見て、うなずいた。
「時間、かかるか」
「どうだろうな」
それほどメトロは混んでいなかった。
後ろの方の座席に並んで座る。
耳に入ってくる乗客の話し声は、駅に着く度に増え、また少なくなっていく。
乗り換えの駅の一つ前の駅にさしかかると、太一はぎこちない仕草でヤマトの肩に頭を預け、一瞬だけ温もりを感じるように目を閉じた。
乗っている幾人かの女性客はおしゃべりに夢中だ。
ヤマトは太一の方に顔を傾けた。太一の髪からは自分と同じ匂いがする。この香りはいつ消えてしまうのだろう。
膝の上で組んでいた手を太一の手の上に重ねた。
駅に降りるまでの、ほんの少しの時間だった。
静かさを楽しむのでもなく、言葉をかわすでもなく、肩と手を触れあわせたまま、二人でメトロに揺られた。
やはり混んでいる空港の免税カウンターで順番が来るのを待つ。早めに出てきたために、時間には余裕があったが、荷物を預け、搭乗にも必要な手続きを終えると、ヤマトも太一も疲れたようにため息をついた。
「何か飲むか」
フロアの端に見えるレストランの方へヤマトは歩きだした。
何歩か先へ進んでも、太一は立ち止まったまま、ぼんやりしている。
「太一?」
「ああ」
何を考えていたのだろうと、こちらへ向かってくる太一を見つめ、ヤマトは思った。
もうこうやって少し遅れる太一を振り返ることも、先を行く太一を呼び止めることもない。
「――何、見てたんだ」
「人が多いなと思って」
デタックスカウンターの列は長くなるばかりだ。
太一が乗る便ではなく、他の便に搭乗する客なのだろう。日本人の姿も多い。
「そうだな」
レストランに入ってカフェを頼む。昼食代わりの軽食もついでに頼んだ。
機内食は出るだろうが、これは二人で向かい合える最後の機会だ。
「帰っても、昼なんだよな」
太一はオムレツの横に添えられたサラダを散らしながら、ぽつりとつぶやいた。
「飛行機の中でちゃんと寝ろよ」
どれくらいかかるのだろう。日本の時間に慣れた頃には、ヤマトの姿が見えなくても不安にかられたりはしなくなるといい。
「ああ、分かってる」
会話を交わしていても、行き交う荷物を持った人々を見ても実感が湧かなかった。
あと数十分ほどで別れてしまうのではなく、また二人同じ部屋に戻り、夕飯はどうするなどと話したりする、今までの生活に返るような気がした。
それがただの錯覚に過ぎないとは十分に承知していたのだけれど。
「……出るか」
ヤマトが立ち上がる。
太一もうなずき、立ち上がりながら最後まで残っていたむなしい願いを捨て去った。時間が止まるわけがない。
エスカレータで乗り継ぎの階まで上がっていく。
ヤマトは手すりをしっかり握り、横の太一に話しかけた。
「気をつけて帰れよ」
「ああ」
太一がうなずく。唇に微笑が浮かぶのを見て、ヤマトは思わず言いかけた。
「太一……」
太一がヤマトを見つめる。わずかな逡巡のあとヤマトが選んだのは、太一をごまかすことだった。
「乗る便、間違えたりするな」
「そんなことするか」
太一が呆れたように言ったので、ヤマトはごまかしを続けられた。
「お前、たまにそういうことするだろ」
「よく言うぜ。空港に来て迷ってたの誰だよ」
――このまま笑って別れられたら、それ以上は何も望むまい。ヤマトはエスカレータから降りた。
太一よりもわずかに足を下ろすのが早かったため、一歩ほど先へ立つ。
「ヤマト――」
太一がヤマトの袖をつかみ、自分の行動を恥じるようにすぐに離した。
「太一?」
振り返り、目を逸らした太一にヤマトも視線を落とした。
あとほんの少し歩けば、そこでさよならだ。
息が詰まるような沈黙を漂わせながら、ゆっくり歩く。
人々の名残を惜しむ光景があちこちで見られるた。抱擁とキスと、また来るよ、またいらっしゃいという言葉のやりとり。友人同士であれば、言えただろうか。それとも恋人同士ならば。
「――元気でな」
別れを惜しむ人々から少し離れた場所で太一は足を止め、小さくつぶやいた。
「お前もな」
太一の視線はずっと遠くを見ている。
出国審査へ向かう人の流れを見ているのだとヤマトは思った。
じきに太一のあの流れに加わり、自分はそれに背を向けて帰る。ふたたびの別れだ。
「ヤマト」
太一がヤマトを見つめ、微笑した。
「色々、ありがとうな」
「いや、俺は何も」
ヤマトも微笑を返した。
太一が手首を上げ、時間を確かめるとうなずいた。
「じゃあ、行く」
「ああ」
また来いと言いたかった。また行くとも言いたかった。なぜそう言わないのか、言えないのか、分からない。
太一が手を振り、歩いていく。
そのまま見つめていると、太一が振り返った。
ポケットに手を入れて、またヤマトのもとへ戻ってくる。
「忘れ物か」
「ヤマト、これやる」
ポケットの中からもう使用しない硬貨を取り出して太一はヤマトに渡そうとする。
「持って帰れよ」
「こんなの持ってたってしょうがないだろ」
太一は手を広げ、硬貨をヤマトに見せる。
たいした額でもない。一フランの硬貨が三枚、それ以下の硬貨が四、五枚ほどだ。
「もういらないのか」
「日本じゃ使えねえし」
「――分かった」
手を差し出して、太一の体温であたたかくなった硬貨を受け取った。
ほんの少し指先が触れあい、離れる。
それが嫌でヤマトは太一の手をつかんでいた。
「ヤマト」
「ああ、分かってる」
「俺も分かってる。……ごめん、ヤマト」
最後の一言は人目につくことを謝ったのだろうか。
太一の肩越しに見えるカウンターには荷物を持った人々が入っていく。
これで本当に最後なのだ。太一を抱き返しながら、ヤマトは目を閉じた。
「――がんばれよ」
「何をだよ」
太一が無理をしたように笑う。
色々だとつぶやいて、ヤマトは太一の肩をそっと押した。
「乗り遅れるぜ」
「色気ねえな」
太一は素早く目を擦ると、歩きだそうとした。
「太一」
「うん?」
振り返った太一の目に残る涙をぬぐってやると、太一がほほえんだ。
「ガキみたいだな、俺」
「太一、俺……」
時間が迫る。
周りには日本人が増え、日本語でのざわめきが聞こえてきた。
「俺は――」
何を言うつもりなのか、自分でも分からなかった。ただこのまま別れるのがいやだった。
もう太一の涙は拭えないというのにただ見送るなど、したくなかった。
「太一、まだずっと先になるけど、俺……」
太一がためらいがちに手を伸ばして、ヤマトの目にかかるった髪をかき上げる。
昔のように優しい仕草だった。その仕草がヤマトの唇を開かせた。
「必ず帰るから」
追うように太一の言葉も重なる。
「帰って来いよ、ヤマト」
目を見開き、互いの瞳をのぞき込むように見つめあった。それで寂しさが消えていく気がする。
太一が目を閉じたのがほんの一瞬なら、ヤマトが唇を重ねたのも一瞬だった。
「じゃあな」
唇が離れると太一が微笑し、ゆっくり背を向けた。今度は振り返らないで、まっすぐに歩いていく。
すっと伸びた背中が小さくなり、やがて見えなくなった。
それでもヤマトはフロアに立ったまま、太一が消えた方を見ていた。
確かなものは何もなく、ただ切ない幸せな日々が残っただけだ。これから、彼を思い出す日が続くだろう。
明日からはいつもの日々。明日からは一人きり、太一の面影が残る部屋で暮らすのだ。そんな日々を幾日も幾夜も重ね、日々は過ぎていく。時間は流れていく。そうしていつかまた新しい日々を、時間を、自分は送ることが出来るのだろうか。
想像するしかない未来だった。だが――信じよう。
コートのポケットに手を入れると、太一のくれた硬貨が小さな音を立てる。
必ず、帰るのだ。太一が待っているからではなく、そこに太一がいるから、必ず帰ろう。
どれだけフロアに立ちつくしていたのか。ヤマトは来た方向へ、歩き始めた。
太一のように振り返らずに、太一のようにまっすぐ背を伸ばして、歩きだした。
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