「お母さん」
部屋から娘に呼ばれて、ドアを開けるとヒカリは苛立ったようにスカーフを結んでいる。
「お兄ちゃん、来た?」
「まだよ」
「もう!」
苛立っているせいか、上手く結べない娘を手伝って、母はスカーフを結ぶ。
ふわりと香水の香りが漂って、母は小さく微笑した。
「タケル君たちと行けばいいじゃないの。太一、休みは取れないって言ってたでしょ」
「お兄ちゃん、休み取ってるのよ。ジムの人にちゃんと聞いたの」
「あら……」
ヒカリは仕度を終えると鏡の前でさっと自分の姿を眺め、うなずいた。
母はヒカリの姿を見つめ、またほほえむと、玄関の方を覗いてみた。
「後は太一ね」
スポーツジムに就職が決まってから、一人暮らしを始めた息子は実家にはたまにしか顔を見せない。こちらで食事くらいしていけば、食費も浮かせるのにと思うのだが、それもめったになかった。
ヒカリが腕時計を見て、長いため息をついた。
「もう間に合わない……」
電話してみたらと母が言いかけるとヒカリのバッグで携帯が鳴った。
ヒカリがあわてて、電話を取り出す。
「もしもし?」
携帯を耳に当てたヒカリの表情がむっとしたようなものになる。
やがて分かったと一言つぶやくとヒカリは電話を切った。
「どうしたの」
「お兄ちゃん、もう下に来てるって」
ヒカリが慌てて、玄関へ駆けていく。用意していた靴を履いた後、笑顔で振り返る。
「行ってきます」
「はい、気をつけて」
廊下を走っていく足音に転ばなきゃいいけれどと思いつつ、母は何年も前の冬の日のように空けっぱなしのドアを閉めた。
「ヒカリちゃん、こっち!」
エレベータから降り、少し行くと大輔の声がした。
濃い青色の車がエンジンを吹かせたまま、意地悪く停められている。後部の窓から大輔とタケルが顔をのぞかせ、手を振っていた。
笑顔を返し、急いで車に近づく。助手席のドアを開けて乗り込むと、太一が微笑した。
「遅かったな」
「だって、最初に家に来て、それからタケル君たちを迎えに行くって」
「そうだっけ?」
太一はとぼけたように言うと、車を発進させた。
文句を言いかけ、ヒカリはため息をついた。少なくとも行ってはくれるのだ。
どれだけの葛藤があったのかは分からないが、太一は空港へ行くことを選んでくれた。それで充分だ。
閉め忘れていたシートベルトをヒカリが締めると、タケルが烏龍茶の缶を差し出した。
「これ、ヒカリちゃんの分」
「ありがとう」
礼を言って、缶を受け取った。
太一の分はすでに空けられていて、ドリンクホルダーにコーヒーの缶が置かれている。
「で、結局何人行くんだ?」
太一がバックミラーをのぞきながら、少しスピードを上げた。横顔からは何の感情もうかがえない。
「何人だったっけ、タケル?」
「今から一乗寺君の家だよね」
「あいつも行くのか?」
太一が呆れたような声を出した。
「だいたい空に丈に……ミミちゃんも帰ってきてるから来るんだろ?」
太一の声に大輔が指を折る。
この車に乗っている四人に今から賢が加わる。
「後は伊織と京と……?」
「とにかく全員だよね」
タケルと大輔がうなずき合う。
太一はため息をついてヒカリに教えられるまま、賢の家へ向かう。
賢は彼と仲が良さそうだったので、迎えに行きたがるのは分からなくもない。それは、他の友人たちも同じなのだろう。それにしても全員で帰国を迎えるとは――。
太一はそこで方向を確かめるふりをして、首を振った。全員とは言えない。
「――お兄ちゃん、そこ右」
車線を変えそこねたので、ヒカリが不安そうな声を出す。
太一は前方に注意を向けた。
「分かってる」
時間には十分間に合う。余裕がありすぎるくらいだ。
太一はいささか乱暴にハンドルを切り、アクセルを踏んだ。
時間にこれほど余裕があるというのに、いざ空港へ着いてみると太一達が一番遅かったようだ。
すでに皆、到着している。ほとんどの顔ぶれが久しぶりに会う同士らしく、挨拶を交わし、賑やかなおしゃべりがそこかしこで交わされている。
大輔やタケル、賢、ヒカリが集まっていた皆の元へ駆けていく。太一はゆっくり後を追いながら、久しぶりに会う面々によおと手を挙げた。
「なんだか同窓会してるみたいだな」
丈の横に立ち、太一は言った。
「そうだね。なかなかみんなで集まることもないしね」
久しぶりの再会に沸く皆の方を見やり、丈は目を細めた。
ヒカリが京や空、ミミと華やかな笑い声を立て、大輔が伊織をからかい、賢とタケルにたしなめられていた。皆就職し、あるいは進学し、それぞれの生活を送ってはいるが、それでもこうして集まると昔のままの騒がしさと親しさを見せる。
「太一は休み取れたんだ」
「ヒカリが取れってうるさかったんだよ」
空達と話しながらも、たまにこちらに心配そうな目を向けるヒカリに気づいているのか、太一は微苦笑した。
「来るのは嫌だったかい」
丈の言葉に太一は視線を避けるようにして、ベンチに座ったが、丈も隣りに腰を下ろす。
ほんの少しの沈黙の後、太一がつぶやいた。
「俺は良くても、あいつが嫌かもしれないだろう」
「そうかな」
「今更帰るなんて無理だろうけど――あ」
太一はたった今座ったベンチから立ち上がり、こちらへやって来る夫婦連れに頭を下げた。
「お久しぶりです」
「元気そうだね、太一君」
「今日はごめんなさいね。みんな忙しいでしょうに」
皆を代表するように京が笑顔を浮かべた。
「だって泉先輩が帰って来るんですよ? 集まらなくちゃ」
光子郎の両親は嬉しげに顔を見合わせ、目を細めた。
「やっぱりうるさいのは光子郎さん、いやかな」
賢が不安そうな表情を浮かべ、大輔に小突かれた。
「先輩を迎えに来て、何が悪いんだよ」
「賢さんが言っているのは、大人数すぎやしないかってことですよ」
まだ自分よりも高い位置にある大輔の顔を見上げながら、伊織が言った。
「そうかあ?」
大輔はざっと集ったメンバーの顔を眺めた。タケルに賢、伊織に京、ヒカリ。あとは先輩に当たるミミや空、丈、そして太一。確かに多いかもしれないが、せっかくのめでたい帰国だ。賑やかな方がいいに決まっている。
だが――大輔は伊織が賢と共々、光子郎の両親に何か話しかけだしたので、そっとタケルの服を引っ張った。
その表情を見て、内緒話のたぐいだと理解したタケルは大輔の口元に耳を寄せた。
「太一先輩、どんな風に見える?」
「普通に見えるけど……」
「怒ってねえよな?」
ここまで一緒に来たというのに、大輔はまだ不安がっている。
「大丈夫だと思うよ。イヤだったら、わざわざ家まで来てくれないよ」
こそこそと話していると、とうの太一が近づいて、大輔とタケルの頭をはたく。
「おまえら、こそこそしてるんじゃねえ」
「太一、止めなさいよ」
空が呆れたように後輩をいじめる太一をたしなめる。そのまま、空と太一が軽口を交わし始め、空と話していたミミはくすりと笑った。
同じように笑っていた丈と目が合う。
京とヒカリからそれとなく離れ、ミミは丈の方へ歩き、彼を見上げた。
長身の丈は穏やかにミミを見下ろす。ミミも背は高い方だが、丈はまだ高い。
「太一さん、元気そうですね」
「そうだね」
少なくとも、もう目を離せないような危なっかしい部分は消えている。ただ、それを隠しているのか、それとも乗り越えることができたのかは、丈には分からなかった。
「――私、あっちでたまに光子郎君と会ってたんですよ」
「え?」
唐突に始まったミミの話に丈は面食らった。
「私も忙しかったけど、光子郎君の方がもっと忙しくて、本当にちょっとくらいしか会えなかったんですけど、電話やメールはよくしてました」
ミミは髪をかき上げ、思い出すようにして微笑した。
「日本から戻ってきたら、いつも電話かメールで太一さんは元気かって聞かれたんです」
丈は大輔をまだからかっているらしい太一に目をやり、それからまたミミの方へ視線を戻した。
くっきりした目鼻立ちのミミは明るく笑ったが、どこか光子郎への心配を滲ませた横顔だった。
「――だから光子郎君から帰国するって聞いて、私、太一さんを迎えに誘おうって思ったんです」
「ミミ君だったのか……。僕は京君だとばかり思ってたよ」
丈は長いため息をついた。
光子郎が友人と起こした会社に京も入社するらしいから、その縁で京が皆で光子郎を迎えようと言い出したのかと思っていた。京に誘われれば、太一も事情を知る丈やタケル、大輔達から誘われるよりは来やすいだろう、そう思い、
また事実そうだったから、太一は来たのだろうが、それにしてもその影にミミがいたとは。
「ええ。そのとき、私はまだあっちにいたから、京ちゃんに連絡したら、じゃあみんなも呼びましょうって」
京ちゃんらしいでしょうとミミは笑い、丈もうなずいた。
賢や伊織と共に京も光子郎の両親と仲良く話している。京の明るい声がこちらにまで届き、丈とミミは笑みを交わした。
「光子郎君、喜んでくれるかな」
もうそろそろ光子郎が到着する時間だ。皆の方へ歩きながら、ミミがそっとつぶやいた。
丈はうなずいた。
光子郎ならきっと、笑顔を浮かべるはずだ。
一体、どんな深い想いが込められているかは、分からないけれど、きっと笑うだろう。
「――喜ぶよ」
丈のその言葉にミミは今日一日で一番の明るい笑顔を見せた。
光子郎が乗ったと思われる便が到着すると、大輔や京はきょろきょろと降りてくる光子郎を探す。
京はともかく、大輔が身を乗り出して探すのにタケルは呆れ、それからほんの少し不機嫌そうな顔になった。なんとなく、これは面白くない。
「大輔君」
「なんだ?」
外人男性や女性、日本人も混じる中で、肝心の光子郎の姿は見えない。
大輔はタケルに生返事を返した。
「そんなに光子郎さんが帰ってくるの嬉しい?」
「嬉しい」
大輔のあっさりした言葉にタケルは眉を寄せ、大輔の腕を引いた。
「何だよ、タケル」
「それ、僕よりも光子郎さんといる方が嬉しいってこと?」
大輔はさっと周りを見回し、太一が丈や空と話しているのを見ると、隣のヒカリに聞こえないように声をひそめた。
「だって早く、会わせてあげたいだろ」
「え?」
「太一先輩と光子郎さんだよ」
せっかく帰ってくるんだからさと大輔は言い、それからにやっと笑った。
何となく太一に似ていなくもない笑みだ。
「焼き餅かよ」
「違うよ」
あわてて大輔から目を逸らし、タケルはこれから苦労するのは自分ではないのだろうかと、ふと思った。
数年ぶりの帰国とは思えない身軽さの光子郎が姿を見せたのは、タケルの軽い嫉妬から五分ほど経った頃だった。
京が手を振って、場所を示すとすぐに光子郎は皆のもとまでやって来た。
「みなさん、お久しぶり――」
集まっていた友人や後輩達に挨拶しようとした光子郎の肩を京が押す。
「私たちはいいですから、先輩」
両親の前に立たされ、さすがに光子郎も照れくさげに微笑した。
「……ただいま、お父さん、お母さん」
「お帰り、光子郎」
「お帰りなさい」
うるんだ母親の目に光子郎はそっと目を伏せ、何かつぶやいたが、それは両親にしか届かない言葉だった。
目元を押さえる妻の肩を抱き、光子郎の父は息子を促した。
光子郎は面はゆげに迎えに来ていた友人の方へ振り返る。
「お久しぶりです。みんな、来てくれたんですか」
京や賢、伊織が光子郎に嬉しげに話しかける。
タケルや大輔、ヒカリも続き、遅れて丈と空が久しぶりにあった友人へ、後輩達に負けないくらいの喜びを浮かべ声をかけ始める。
そんな中、太一は目立たないように、皆に囲まれる光子郎を眺めていたのだが、いつの間にか隣にミミが立っている。
ミミの性格からすると真っ先に声をかけそうなものだが、ミミは太一を見上げて微笑しただけだった。
ヒカリがつけている香水よりももう少し大人びた匂いが漂う。
「ミミちゃん?」
この年になってちゃん付けもないとは思うのだが、すぐには改められない。成長したといっても。幼い頃から付き合ってきた面影が友人達の間には今も見られ、それが昔のままの呼び方をさせる。
行かないのかと目線で聞くと、ミミは太一の腕を取った。
「行きましょう、太一さん」
腕を引っ張られ、太一はとまどったようにその腕を引く。
「いや、俺は後でいいよ」
「今です」
「ちょっと、おい」
本気で振り払えるはずもなく、ミミにつられ太一は光子郎の前に押し出された。
ヒカリがはっと緊張したような表情を浮かべ、タケルや大輔も息を詰める。
丈も我知らず、手を握りしめ、空に不思議そうな目で見上げられた。
太一は一瞬、目を逸らしかけ、すぐに光子郎をまっすぐ見つめた。
光子郎も太一を見つめ、微笑した。
「――お久しぶりです、太一さん」
「……ああ、久しぶり」
「元気そうですね」
「お前も……」
元気そうで良かった。小さな太一の声に光子郎はうなずいた。
「来てくれて、ありがとうございます」
「そんなの……当たり前だ」
太一の言葉がわずかに震え、光子郎を見つめる目が眩しげに細められる。
光子郎は皆に妙に思われない程度に太一を見つめ、柔らかい笑みを浮かべる。
それは何の翳りもない、心の底から太一の迎えを喜ぶ笑顔だった。
「長かったな」
光子郎は少し日焼けしていた。
「本当に。当分日本にいますよ」
そうかと太一は言って、何かを確かめるように口を開く。
「――また、飲みに行くか」
光子郎はふと目をまたたかせた。からかうような光が浮かぶ。
「ええ、もちろん太一さんのおごりで」
太一は微笑し、光子郎を小突いた。
光子郎は少しよろけたが、太一を見て、ほほえんだ。
光子郎の笑顔に太一もまた笑みを深くする。
「俺よりもお前の方が稼いでるだろ」
「そうなんですか」
真面目に聞き返した光子郎に太一の笑い声が重なり、二人を見ていたヒカリやタケル、大輔、丈の表情が和らいでいく。
なごやかな笑いが広がり、やがて光子郎と両親を囲むようにして、皆は歩きだした。
<<<
>>>