持ち主のいない部屋にはいるときは、それでも緊張した。
部屋の明かりを付けて、太一が本棚の前に立つ。ざっと本棚を眺めて、太一は入り口近くに突っ立っているタケルに聞いた。
「なんて題名なんだ?」
「嘘です」
「嘘?」
太一は奇妙な題名だと首を捻り、早速探し始めた。
探してもそれらしい題名は見つからない。
タケルはその様子に少し微笑して、スイッチに手を伸ばした。
アルファベットで書かれた背表紙ばかりが並ぶ本棚を見て、太一は聞いてみた。
「な、英語ってことか、それ……」
ふっと部屋が暗くなる。停電かと思った太一の側にタケルが近づいた。
「英語でも日本語でも意味は同じですよ」
「タケル?」
「全部、嘘です」
意味のつかめない太一にゆっくり顔を近づけていく。
どうしてこんなに、というくらいに太一は無防備だった。対象外ということかとタケルは思い、そのまま太一に唇を重ねた。
柔らかかった太一の唇が強張って、すぐにタケルは押し戻される。
「タケル、お前――」
言いかけた太一に抱きつき、そのまま本棚へ押しつけた。
棚から本がこぼれて、背中や頭に当たったがタケルは構わず、太一の体を押さえつけた。
「おい、タケル」
太一はまだとまどったような声を上げて、タケルの手をふりほどこうとしている。その力は本気ではなかった。
太一が本気になれば自分はすぐに突き飛ばされ、床に転がっているはずだ。本気にならないのは太一の方が年上で、年下のタケルとの力の差を知っているからだろう。後は、自分がヤマトの弟ということもそこにあるのかもしれない。
年下でヤマトの弟ということ、それがタケルの武器だ。
「お兄ちゃんは帰ってきませんよ」
太一のシャツの裾から手を忍び込ませる。
五日目になったから謝りに来たと太一は言った。五日間、太一はヤマトとキスも交わしていないということだ。
そして、こんな風に触れられることも、五日ぶりのはずだ。
太一の体が引きつって、心底驚いたような声が聞こえた。
「タケル、お前――」
「嘘だって言ったでしょう。お兄ちゃんは、遅くなるんですよ」
太一の肌は暖かかった。
「おい、嘘って」
タケルの手が這い上がって、胸へたどりつく。かすめた指先は熱い。
「嘘ついたってことか」
太一はタケルの手をふりほどき、タケルを強く押し戻した。小学生と中学生の力の差分、タケルは太一から離された。
唇を拭い、太一はタケルから、もう少し離れた。
「なんで、そんなこと……」
驚き呆れ、それから怒りを滲ませ太一はタケルをにらみつけた。
「楽譜のこともか」
「全部嘘です」
静かな部屋に二人分の呼吸が響いた。
わずかとはいえ、外からの明かりでタケルの顔が見える。太一はふと感じた怯えを消そうとした。少しの間でもタケルに触れられて、小さくはあるが熱を覚えたのは確かだった。
タケルの眼差しの真剣さに気圧されて、太一は言葉に詰まった。
「怒ってますか」
「あ、当たり前だ」
タケルが一歩、太一に近づいた。
「それはお兄ちゃんの部屋で僕がこんなことしたからですか」
「……俺が聞きたいのは、なんで嘘なんかついたってことだ」
タケルの距離がまた一歩、太一に近づいた。
「太一さんと一緒にいたかったからです」
――太一は知らない。自分が部屋の奥に立っていること、タケルがドアを背にしていること――それらに気づいていなかった。
太一のすぐ後ろがベッドだということにもまったく気がついていない。ただタケルの嘘に怒りを抱いているようだ。とまどいと焦りも少しある。
「一緒にって――」
タケルの手が伸びて、太一の体を押した。
背中が柔らかいスプリングに受け止められて、その意味に気づいたとき、太一の体にはタケルの体が重なっていた。
「タケル」
「イヤなら、殴って僕をどけて下さい」
「……本気でやるぞ」
「僕も本気です」
太一の拳が固められる少し前にタケルは太一の耳元に唇を寄せた。
声を低く、かすれたものにして囁く。
「――太一」
太一の体が震えた。真似したタケル自身が驚くほど、その声はヤマトにそっくりだった。
「ヤマト?」
太一の口から、ヤマトの名が漏れた。
混乱していることがすぐに分かるくらい声は弱々しかった。普段の太一からは想像もつかない声だけに、タケルは胸をますます早くした。
熱くなった頭と手で太一の体に触れる。
乱れたシャツの白さが暗い部屋に、くっきり浮かび上がるのが見えた。
太一の肌が熱くなるのが指先で感じられ、同時にとまどった声が上がった。
「ヤマ……タケル!」
肌に触れてくるタケルの手を太一の手が払いのける。
布の擦れあう音がして、二人は揉み合った。
ベッドのきしむ音、二人分の荒い呼吸と、太一の制止する声がヤマトの部屋に響き、鈍い音を最後に部屋は静かになった。
殴られた頬を押さえることも、揉み合ったせいで切れた唇を拭うこともなくタケルはベッドからずり落ちそうな太一を見つめた。
太一のシャツはいっそう乱れて、ボタンが一つ取れかけている。
大きく見開かれた目が、タケルの頬を見つめていた。
「……痛かったです」
タケルは頬を押さえた。
「当たり前だ。本気でやったんだからな」
太一はタケルから目を逸らす。
ベッドから下りて、しゃがむとくしゃくしゃになったシーツの皺を伸ばそうとする。
その手が、止まった。
「タケル……」
タケルに抱きしめられて、太一は心底とまどい、困り果てた。
さきほどのように、強く出られればこちらも返す方法があるかもしれないが、タケルの抱擁は優しく、どこか哀しげだった。
どうすればいいというのだろう。タケルの腕を力ではらいのけても、温もりは自分の体に残る気がした。
なだめるように、つぶやいてみた。
声が小さくても今の距離なら、この部屋の静かさならタケルに届く。
「俺、男だぞ」
「お兄ちゃんも男です」
「……そうだな」
タケルの腕の中は心地よかった。ヤマトに抱きしめられたときにどこか似ている。
それに気づいて、太一は急にヤマトが憎らしくなった。誰に抱きしめられても、誰を抱きしめてもヤマトのことしか思い出せない。
ここまで、自分の心を捕らえているヤマトは今、いない。喧嘩別れしたきり、言葉もキスも交わしていない。
ただタケルの腕だけ暖かった。
かすかに震えているその腕に、ずいぶん大きくなったなと太一は思った。
すぐに抱き上げられるくらいに小さかった気がしたのに、その手は太一の背中にまで回るようになった。
タケルを見る自分の目の位置も、確実に上へ上がっていく。ひょっとしたらいつかは追いつかれるかもしれない。
「――太一さん、僕じゃダメですか」
太一の体はタケルの腕の中にあっても、緊張を崩しはしない。それでも体の温もりに誘われるように、タケルは低く囁いた。
タケルの手の下ではいつでも動けるように太一の筋肉は張りつめられている。兄ならすべてをゆだねた太一の温もりを感じられるのだろう。
低い声で返事が返ってきた。
ごまかすような、年上の余裕をただよわせるようなその言葉通りの返事だった。
「タケル。俺、お前よりも年上だぞ」
太一の吐息が耳をくすぐって、タケルはゆっくり目を閉じた。
今の時間が、もっと長く続けばいい。このまま、この閉じられた部屋に二人だけでいたかった。
「年なんか関係ないです。すぐに追いつきます」
もっと簡単に太一を抱きしめられて、対等な目の位置で話が出来るくらいに、自分は成長できるだろうか。太一の余裕を消すくらい、大きくなりたい。
少し顔をずらし、背を伸ばせば、息づかいが重なりそうなほど近い距離だが、太一の心はどこに位置しているのだろう。
「タケル」
太一の困ったような声――どこまで行っても自分は太一にとって恋人の弟でしかない。
「僕じゃダメですか」
それが、最後のあがきだった。
太一は長い息を吐き、そのため息の長さでなんとなく答えが分かる気がして、タケルは太一を抱く手に力を込めようとした。
「俺、ヤマトが好きなんだよ……」
言った自分の言葉が震えているのを知って、太一はヤマトに会いたいと思った。
今すぐ、彼にあって好きだと言いたくなった。タケルの腕の心地よさに流されたくない。ヤマトが憎らしい、だが同時にどうしようもない愛おしさも感じた。
「……ケンカしてもですか」
「俺たちのケンカはしょっちゅうなんだよ」
そろそろと太一の手がタケルを押し戻す動きを見せる。
「ごめん、ダメだ」
太一は首を振り、タケルの胸を押した。タケルは小さく抵抗を見せた後に太一を離した。
太一はタケルから何歩か離れると、乱れた服装を直し始める。兄に対する罪悪感と後ろめたさもあるのだろうか。手の動きは早かった。
ここはヤマトの部屋、二人が揉み合ったのはヤマトのベッドの上だ。太一が何度もヤマトと過ごした部屋で、タケルは太一に口づけ、その体に触れた。
ヤマトを想う太一に、太一を想う自分の心を告げた。
「太一さん」
名前を呼んだ。
簡単につけた嘘も、嵐のように激しい衝動も、太一の声と温もりに消えてしまう。
あのまま太一をねじ伏せてしまうくらいの力があっても、たぶん何もできなかっただろう。
太一の胸に、はっきり残された赤い痕は兄と太一の約束のしるしのように思えた。
タケルの声を聞き、太一がためらいがちにタケルに近づいた。
「タケル」
手が優しくタケルの頭を撫でた。それがいっそう太一との距離を感じさせる。
「僕がお兄ちゃんだったら良かったのに」
太一は何も言わず、タケルの頭を撫でた。髪をくしゃくしゃにする手があたたかい。
どんな顔をしているかは顔を上げていなかったので見えなかった。
うつむいたまま、タケルはもう一度自分がヤマトだったらと繰り返した。
「そうしたら――」
太一にキスしたまま、彼を抱きしめられる。抵抗を見せずに、太一はタケルの腕の中に身をゆだねるだろう。
どこまでもいっても夢は夢のままだ。
タケルはうつむいたまま太一の手を取ると、自分の手と重ね合わせた。
何度確かめても、太一の手の方が大きい。太一の背の方が高い。太一の力の方が強い。
どこまで行けば、この差は縮まるのだろう。太一よりも大きくなったときか、太一よりも強くなったときか。だが、そうなったときでも、太一を手に入れられるとは限らないのだ。では太一を越えるのではなく、兄を越えなければならないのだろうか。
「ごめんな」
太一の声は優しかった。
その声にタケルは首を振った。言葉にうなずくのも、かといって太一を困らせることも、どちらもいやだった。
手を離すとタケルは、涙を隠すために太一の胸に頬を押し当てた。
ボタンの冷たい感触とは対照的な太一の胸の暖かさが余計に悲しかった。
手に入らないものだから、こんなに側にあると苦しいのだろうか。
初めて味わう苦さにタケルの涙は止まらなかった。
太一はその間、何も言わず、黙って立っていてくれた。その手がタケルの体に回ることはなかったけれど、タケルの頬が乾くまで太一はタケルの側にいてくれた。
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