持っておくもの
3



 ようやく涙が引いた頃、タケルは恐る恐る顔を上げてみた。
 目元が赤いタケルを見て、太一は微笑した。
「ごめんなさい、太一さん」
「何に謝ってるんだよ」
 太一はからかうように言った。
 タケルは困ったように黙り込み、小声で全部です、とつぶやいた。
 嘘をついたこと、太一を押し倒そうとしたこと、シャツを濡らしたこと、それらを思ってタケルは謝った。
 太一は黙ってうなずいた。そして、タケルの言葉の最後にもういいよと小さくつぶやいた。どことなく悲しげな声だった。
 タケルが何か言う前に太一はうつむいた。
「俺、帰るな」
 太一はタケルの頭を軽く撫でると、ドアの方へ歩き出した。
「本当に帰るんですか」
「ああ」
「……もうすぐ、お兄ちゃん帰ってきます。本当です」
 太一は振り返って笑った。
「気が変わった。あいつが謝ってくるまで会わない」
 タケルは目を丸くして、太一を見つめた。
「僕のせいですか」
「ちがう……いや、そうかもな」
 タケルの顔が沈む前に、太一は付け加えた。
「ヤマトには内緒にしとけよ」
「太一さん」
 一瞬だけ、背中が小さく見えた。タケルにも抱きしめられそうなくらい、小さな心細げな背中だった。
 そのまま太一は玄関へ向かう。
 兄にふと怒りを覚えた。五日も、太一を放ってヤマトは何をしているのだ。
 ケンカをしていても、太一は自分を想っていると信じているのだろうか。
 それはそう――確かにその通りだ。だが、タケルは何かに押されたように太一の後を追った。
 追いかけていきたい。
 距離を開くのではなく近づけていけるように、遠くても、太一の隣りに誰がいても、背中が見え続ける限り、追いかけていきたい。せめて、兄が太一の隣にいないときはその隣に立てるくらいの距離に近づけるまで。
「――太一さん!」
 靴を履いて外へ出ようとしていた太一はタケルの方を見た。
 その目が大きく見開かれたのは、自分の今の表情が兄によく似ていたせいだとはタケルは気づかなかった。
「僕、やっぱり謝りません」
 太一はいきなりの言葉に面食らい、まばたきを何度かした。
 太一の少し開かれた唇を見つめ、タケルは続けた。
「キスしたことは謝りません」
 ――二回目も不意打ちだったが、太一の方が素早かった。
 タケルの唇は太一の唇ではなく、太一がかざした手のひらに重ねられたのだ。
「タケル、お前」
「太一さん、僕の紋章が何か知ってますよね?」
 太一に言葉を言わせる暇を与えず、タケルはたたみかける。
「お前の紋章? ……希望?」
 タケルはほほえんだ。もう涙の名残はどこにもない。
「まだ先は長いですよね。僕がお兄ちゃんに勝てる日も来るかもしれないでしょう」
「おい」
「希望は持っておくものですよね」
 今度は太一は拒めなかった。太一が体を引くよりも、タケルの方が素早かったのだ。
 背伸びして、手に邪魔された唇でなく太一の頬にキスすると、タケルは誰でもつられてほほえみたくなるような邪気のない笑顔を浮かべた。
「すぐに追いつきますから」
 太一の横をすり抜けて、タケルは太一に鍵を渡した。
「僕も帰ります」
「タケル!」
 太一の声を背にタケルは走り出した。あっという間に階段を駆け下りる音は小さくなっていく。
 ヤマトの家の鍵を閉め、鍵を新聞受けに落とすと、太一は呟いた。
「ヤマトのバカ野郎」
 太一はため息をついて歩き出した。

 その太一が言うところのバカ野郎からは午後十時半頃に電話があった。
 受話器を取ったのはヒカリで何も言わず太一に電話を変わった。それで太一には電話の相手がヤマトだと分かったのだ。
 受話器を耳に当てると、気まずそうな気配が伝わってきた。
 こちらから話しかけるのもしゃくだったが、太一は小さく言った。
「今日、誕生日だったな」
「ああ……」
「おめでとう」
 少しの沈黙の後、ヤマトがささやいた。
「太一 ――ごめん。俺が悪かった」
「もういい……俺も悪かったし」
 仲直りを済ませてしまうと、まだ少しぎこちなさを含んだまま、二人は次の休みに遊びに行こうかと予定を立てだした。
 それは喧嘩の原因になった約束の埋め合わせでもあった。
 お互いの声に笑いがにじみ出す頃になると、太一は受話器の向こうのヤマトの声に目を閉じた。
 明日、学校で会うのが待ちきれない。それはヤマトも同じらしかった。
 ヤマトと太一は同時にため息をついた。ただ、言うなら太一のため息の方が少し長いものだった。
「太一」
 それに敏感に気づき、ヤマトは不安そうな声で太一の名を呼んだ。
「何かあったのか」
 それに答えず、太一はまたため息をついた。
「――なあ、ヤマト」
「なんだ」
「俺のこと好きか」
 向こうで咳き込む音が聞こえてきた。
 太一が問いつめようとしたとき、ヤマトが低くつぶやいた。
「好きだ」
「ならいい」
「なんだよ、それ」
 照れ混じりのぶっきらぼうな声でヤマトは聞いてきた。
「お前はどうなんだよ」
「……さあ」
「おい」
 はぐらかすように太一は続けた。
「お前、髪切るなよ」
「だいたい、なんだよ。人にだけ言わせといてずるいぞ、お前」
「切るなよ」
「……この間はくすぐったいから切れって言ったくせに」
 むっつりと返ってきたヤマトの言葉に、太一の頬が赤くなった。どういう状態で自分がそう言ったのか――ヤマトときたらそんなことだけはよく覚えている。
「太一」
「それと、タケルが髪を伸ばすって言ったら止めろよ」
「はあ?」
 ヤマトの返事は少々間抜けなものだったが、太一の声は真剣だった。
「絶対、止めろよ」
「あ、ああ」
 逆らうと怖いことになりそうだと、ヤマトはあわててうなずいた。
「分かったならいい。……じゃあな、ヤマト」
「おい、俺はまだ聞いてない――」
「好きだよ」
 小声で言ったのでヤマトに聞こえたかどうかは分からなかった。ただ、太一を呼ぶ声が聞こえなくなっていたので、たぶん聞こえていたのだろう。
 受話器を戻してしまうと、太一は大きくため息をついた。
 好きに決まっている。だから、余計に怖い。もし、タケルがヤマトに似てきたら拒めそうにない自分が生まれそうで、それが怖い。
 太一は受話器を置くと、頬を手で押さえて、壁に寄りかかった。
「参ったなあ……」
 いつの間にあんなに大きくなったんだと太一は赤くなった。
 石田ヤマトの弟、高石タケル。これから、きっと背だって伸びる。自分だって伸びるだろうが、あの成長ぶりだと追いつかれることも考えられるだろう。
 ともかくタケルが髪を伸ばすことと、ヤマトの髪を切ることは絶対に阻止しようと太一は誓った。あの兄弟は似ている。
 顔立ちや姿形というわけでなく、土壇場で開き直ったり、追いつめたらこちらが想像もつかない行動に出たりするところはよく似ている。
「太一、お風呂はいりなさいよ」
「分かってる」
 そして自分はそんなヤマト、もしくはタケルに弱いらしい。頬へのキスは防げたはずだ。
「……」
 参ったとしか言えない。
 赤くなった自分が不甲斐ないと思ったのか、それともタケルの成長ぶりにそう思ったのか。
 希望に負けないほどの勇気を持つことが出来ればいいが……それも難しそうだ。
「もう、追いつかれてたりしてな――」
 笑おうとしたが、うまくいかなかった。少し引きつった笑顔のまま、太一は浴室へと入っていった。

 太一との電話を終えるとヤマトは笑顔のまま、母と弟の家へと電話をかけた。
「もしもし、タケルか?」
 弟へかける声も心なしか弾んでいる。
「うん」
「母さんは?」
「仕事。今日は残業だって」
「そうか、ケーキのお礼言っておいてくれ」
「分かったよ」
 ひとしきり雑談を交わして、ヤマトはふと思い出した。
「なあ、さっき太一に電話したんだけどな、あいつ変なこと言うんだぜ」
 太一のことを話すヤマトの声は心底楽しそうだ。ヤマトには聞こえないように小さく笑ってタケルは聞き返した。
「変なこと?」
「俺に髪の毛を切るな――それとお前が髪を伸ばそうとしたら止めろって」
「……」
 こらえきれず、タケルは吹き出した。
「な、変だろう」
「お兄ちゃん、僕さあ」
「髪は伸ばすなよ」
 一応、太一の言葉には従うヤマトであった。タケルはくすくす笑いながら、続けた。
「違うよ。――やっぱり希望って持っておくべきだね」
「ああ?」
 分からないままヤマトはうなずいた。
「友情と希望ってどっちが強いかなあ」
「タケル?」
「何でもないよ。じゃあ、お休みなさい。お兄ちゃん」
「え、ああ。お休み」
 ヤマトのような上機嫌でタケルは電話を切った。
 鼻歌を歌いつつ、冷蔵庫を開けてタケルは牛乳を取り出した。髪を伸ばすのもいいが、まずは背を伸ばそう。
 背伸びしなくても唇が届くくらいには大きくなりたい。時間の長さは希望の大きさだ。
「負けないからね」
 誰にともなくつぶやき、微笑するとタケルはグラスについだ牛乳を一気に飲み干した。


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