持っておくもの
1



「太一さん」
 自分が視線をむけていないときの太一の横顔は、とても寂しそうに見えた。
 その横顔に気づいて、タケルは思わず太一を呼んでいた。
「何だ、タケル?」
「え、あ……」
 こちらを向いた太一の顔は、いつも通りで、とくに変わったところもなかった。
「どうかしたのか」
 制服のシャツのボタンをゆるめて、太一は聞いた。
「お兄ちゃん遅いなって……」
 太一はうなずいて、時計を見上げた。
「そうだな」
 六時をほんの少し回った頃だ。
「何してるのかな、あいつ」
 太一はゆっくり目を伏せた。指先がこつこつとテーブルの縁を叩く。
 太一の指は右の人差し指だけ、わずかに爪が伸びていて、そのせいで音も軽い。
 タケルは太一から目を逸らして、玄関を見つめた。
 もしドアが開いて兄が姿を見せたら、太一はあんな寂しげな顔をみせないかもしれない。そして、そのかわりに眩しいくらいの笑顔を見せるだろう。それが、少しイヤだ。
 ――だがそんなことはない。ヤマトが帰ってくるのはたぶん十時を過ぎるはずだ。
 それを思いだし、同時に後ろめたさが冷たく背中に走った。大きくなってくる後ろめたさをごまかそうとタケルは立ち上がった。
 部屋の明かりをつける。いつの間にか薄暗くなっていたので、灯った蛍光灯にタケルはまばたきした。
「タケル」
 太一がこちらを振り向く。
「お袋さん、心配してないか」
「ちゃんと連絡しましたから」
「そうか」
 太一の指先がまたテーブルを叩く。タケルはまた椅子を引いて、その指先に目をやった。
 せわしなく動く指が立てる音は静かな部屋に響いていたが、それがうるさいわけではなかった。
 タケルはふと太一の真似をして、テーブルを指先で叩いてみた。
 突然、二重に重なった乾いた音に太一は顔を上げる。
「うるさかったか」
「そんなことないです」
 タケルは首を振ったが、太一はテーブルを叩くのを止めて、本人でも気づかないであろう小さなため息をついた。
 タケルがマンションの前で声をかけたときも、そんなため息をついていた。どうしようもない胸の内を少しは軽くできないかと思ってつくため息――しかし心はもっと重くなるばかりのため息だ。
「太一さん」
「なんだ?」
「……どうかしたんですか」
「いや、別に……」
 太一はまた時計を見上げた。時刻は六時十三分。さきほど時計を見上げてから数分しか経っていない。
 それにタケルとも会話を交わしていない。それを思い出して、太一はまたタケルの方へ目をやった。
「なあ、最近どうだ」
「え?」
 唐突な質問にタケルは面食らって聞き返した。
「変わったこととかあったか?」
「とくに……あ」
「なんだ?」
「大輔君がこの間――」
 チビモンを連れて、パソコンRへ向かっていたときに、こっそりと抱いていたチビモンが女子たちに見つかり、ぬいぐるみと勘違いした彼女たちに囲まれたことをタケルは話した。
「大輔、大変だっただろうな」
 うろたえる後輩の顔を思い浮かべて、太一は笑った。
「チビモンが一生懸命ぬいぐるみのふりして、我慢してたんですよ」
 太一の肩が揺れる。タケルもあのときの光景を思い出して笑った。
「ヒカリちゃんが、うまくごまかして何とかチビモンを持って行かれなくてすんだんです」
「へえ」
 太一がふっと目を細めた。妹の名を聞いて見せた兄の表情は優しいものだ。
「お前らも大変だな」
「だいぶ慣れましたよ」
 また少し太一は笑って、タケルを見つめた。
 笑いの名残が残る楽しそうな眼差しに、タケルの口からぽろりと言葉が洩れた。
「太一さんは何かあったんですか」
「何もないぜ」
 太一の否定の仕方は、何もないにしては少し早いものだった。
「――元気がないように見えるんですけど」
「そうか?」
 太一はまた笑おうとして、一瞬唇を噛んだ。
「あのさ……」
 照れくさそうな笑顔とは裏腹に声は真剣だった。
「喧嘩したんだ、ヤマトと」
「お兄ちゃんと?」
「まあ、原因はくだらないことなんだけどな」
 どういう原因なのかは太一は話さなかった。かわりにぽつりとつけ加えた。
「五日目になったから、しょうがないけど謝りに来たんだ」
 苦笑にしては苦すぎる笑顔になった太一を、タケルはぼんやり見つめていた。
「ほら、ヤマトっていつまでもすねてるところあるだろ。だから、俺が大人になって謝りに――」
 そこで、言葉を切ると太一はむなしくため息をついた。
「違う……俺が悪いんだ」
 太一はテーブルに肘をついた。
「俺、いっつもあいつ怒らせてばっかりなんだよなあ」
 太一の唇が少し歪んだので、タケルは首を振った。
「そんなこと……」
 言いかけて、タケルは口をつぐんだ。
 それきり太一はこの話題を続けようとはせず、タケルも聞かなかった。
 七時を回るまで、差し障りのない会話を交わしていたが、さすがに八時近くになるのを見て、太一は立ち上がった。
 ベランダの方へ向かう。
 タケルは立ち上がらず、座ったまま太一の背中を見つめていた。たぶん下の道路を見ているのだろう。
 ギターを背中にしょった兄の姿が見えないか、確かめに行ったにちがいない。
 下をのぞき込んだ太一に近づこうと、タケルは椅子から立ち上がった。
「太一さ……」
 太一の横顔がちらりと見えた。見えたのは一瞬だけの、その表情はタケルの胸を痛ませるくらいに、不安と寂しさを浮かべていた。
 うつむいて拳を握ったタケルは、今更ながらに自分のしたことが太一にどれほどの期待を抱かせたかを知った。
 父と兄が住むマンションの前を通りがかったのは、偶然ではない。母から預かったものを兄に渡しに来たのだ。ただ、兄に直接渡すのではなく、預かっていた合い鍵で部屋にその包みを置いておけばいいだけの話だったのだ。
(ちょっとライブがあるから、遅くなるんだ)
 電話の向こうの兄の声が思い出される。
(悪いけどテーブルの上に置いといてくれ)
 母から何を預かってきたのかは言っていない。驚かせたいから内緒にしていてと、母は言っていた。中身は母が作ったケーキだ。
 たぶん、ヤマト本人もおそらく父も忘れているに違いない。
 ――太一は気づいているのだろうか。今日が兄の誕生日だということを。
 知っているからこそ、今日誤りに来たのかもしれない。誕生日まで喧嘩を長引かせたくないから、そして何よりヤマトの誕生日を祝いたいから、マンションにまで足を運んだのだろう。
 ヤマトは遅くまで帰ってこないのに、ため息をつく太一を見た瞬間、タケルの口からは白々しいほどに滑らかな言葉が発せられていた。
(あれ、太一さん。どうしたんですか)
(お兄ちゃんですか? ……すぐに帰ってきますよ。よかったら上がっていきませんか)
(大丈夫です、合い鍵預かってますから)
 太一のすまなそうな、それでも嬉しそうな表情に嘘をついているなどという意識は、まったく持たなかった。
 普段はめったにない太一との二人きりの時間をもてるチャンスが目の前にあったことに、舞い上がっていたのだ。
「タケル、どうしたんだ」
 背後の気配に気づき、太一が振り返った。
 表情は普段通り。太一を知る誰もが見たことのある表情だ。
 兄の前では少し、その視線が柔らかくなることに気づいたのはいつだったか。ヤマトが太一を見つめる目にも、小さくはあったが熱っぽいものが浮かぶのと、同じくらいの時期だったはずだ。
 そのとき感じたのはあまりにも複雑すぎる思いだった。兄と太一、どちらにも淡い嫉妬を感じ、羨望と諦めも同時に抱いた。
 ヤマトと太一の二人は、タケルの知らない世界を築き始めている。二人がさりげなく交わす視線はそのことを示しているように思えた。
 もう兄の心の大部分を占めているのは自分ではなく、太一なのだろう。自分の心が太一の面影に占められつつあるのと同じように、兄が今見つめているのは太一なのだ。
 タケルは目を伏せかけ、顔を上げた。
「太一さん、僕……聞きたいことがあるんですけど」
「俺にか?」
「はい」
 太一はベランダからリビングの方へ戻ってくる。
「何だ?」
「楽譜なんです」
「楽譜?」
 素知らぬ顔をして平気な顔で嘘をつける。
「はい。お兄ちゃん、楽譜持ってるでしょう」
「そういや、練習するとか言ってけっこう買い込んでるもんな」
「前、一冊貸してもらう約束をしたんですけど、そのときは見つからなくて」
 太一はヤマトの部屋を思い浮かべた。本棚は意外に整理されていない。本人には分かるらしいが、英語で書かれた背表紙は慣れていないとわかりにくいものがある。
「すみませんけど、探すの手伝ってもらえますか」
「そりゃ、構わないけど……勝手に探したりして、あいつ怒らないか」
「大丈夫ですよ」
 自分の良心に疼く後ろめたさと嫌悪感をその言葉と同時に振り切った。
「あとで僕が言っておきますから」
「そうか?」
 まだ不安そうな太一に、タケルは笑顔を向けた。
 嘘をつくときは、相手の目をしっかり見つめなくてはいけないということを、タケルはすでに知っていた。
 逸らしたくなる視線を向けてこそ、嘘を真実と思わせることができる。
 まっすぐ太一を見つめ、タケルは安心させるようにうなずきかけた。
「大丈夫ですよ――」  


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