STAND BY ME
9



 ヤマトが帰国することを知っていたのは、両親と弟、それに丈だけだった。
「ヤマト」
 穏やかな物腰の青年が人混みの中、急ぎ足で近づいてくる。
 ヤマトは丈に向かって軽く手を挙げた。
「久しぶりだな、丈」
「本当に帰ってきたんだな!」
 丈は嬉しそうに笑って、ヤマトの背中を思いきり叩いた。
「手紙くらいくれたっていいじゃないか」
「筆無精なんだよ」
 ヤマトは苦笑いした。帰国した翌日、家族との夕食会で母親に連絡がないことをさんざん怒られたのである。
 ヤマトと連れだって歩きながら、丈はふと気になったことを聞いた。
「教授は一緒じゃないのかい?」
「ああ。別に滞在中ずっと一緒にいるわけじゃない。一応、俺だって夏休み中なんだから」
「へえ」
「教授に会いたかったのか?」
「まあちょっとくらいは……」
 フランス史の研究にかけては第一人者であるルネ教授だ。日本にも著作が訳されて発行されているし、丈が会いたがる気持ちも分かる。
「話しておくよ。きっと教授の性格からいって喜んで会ってくれるだろうしな」
 若者と話すのが好きなのだとヤマトは説明して、ちょっと頬をゆるめた。
「ここか?」
 居酒屋である。
「そう」
 丈はうなずいて、引き戸を開けた。
「二人だけど、空いてる?」
 すぐに返事が返ってくる。
「いらっしゃい。どうぞ!」
 座敷に上がり込んで、丈は品書きを手に取る。
「何にする?」
「ビールと豚足、冷や奴も」
 ヤマトは丈の渡したメニューを見て、適当に選ぶとくつろいだ風に足を崩した。
「ああ、暑かった」
「今年も暑いみたいだからね」
 おしぼりで手を拭いて、運ばれたビールを飲むとヤマトは満足そうにうなずいた。
「旨いな」
 丈はおもしろそうに笑った。
「なんだよ」
「妙にイメージが合わないなって思ったんだよ」
 パリで磨かれたせいか、すっきりと垢抜けて洗練されたヤマトが畳の上で胡座をかいて、ビールが旨いとうなずくのが丈には奇妙なくらいおかしかった。
 これがワイングラスでも傾けて、夜景が綺麗なフレンチかイタリアンのレストランならさぞ様になるだろう。
「何言ってんだ」
 ヤマトは冷や奴を崩して箸でつまみながら、笑った。
「丈こそ、ビールなんて飲めないような顔してるぜ」
「僕はこれでも友達の中じゃ一番強いんだからね」
 丈はジョッキを空けて、ヤマトに笑いかけた。
「飲み比べでもしようか?」
「言っとくけど俺は強いぜ」
「望むところだ」
 丈とヤマトは不敵に笑い合うと、酒を追加したのだった。

 三時間後、お互いを支え合いながら、ヤマトと丈は店を出た。
 またどうぞという店員の声を背に、丈はつぶやいた。
「引き分けってとこ……か」
「いや、俺はまだ飲める」
 ヤマトはしれっと言ったが、頬が赤い。
 丈は、ずれた眼鏡を上げ直し、
「まあ、また今度勝負するってことで」
 一見すると丈は酔っていないようにも見えるが、実はちょっとろれつが怪しい。確かにこの勝負は引き分けだった。
「はあ、ちょっと休もう」
 ガードレールの縁に座って、丈は頭を押さえた。
「あー、明日は二日酔いだ……」
「なあ、丈――」
 何かのついでのようにヤマトは聞いた。さりげなく聞いたにしては、少し声に緊張がある。
「ん?」
「みんな元気にしてるか」
「ああ……」
 丈はヤマトの横顔を見ないようにして、答えた。
「あいかわらずだね」
「……そうか」
 ヤマトが誰の近況を聞きたかったのか、丈は分かったが言い出すことはできなかった。
 ヤマトは髪をかき上げた。
「俺が帰ってきたから、いま日本にいないのは光子郎だけか」
「え? 光子郎は確か七月に帰ってきてるって聞いたよ」
「そうなのか?」
「間違いないよ。僕はタケル君から聞いたんだから……。ヤマトは聞かなかったのかい」
「ああ」
 ヤマトもそれは不思議だったらしく、複雑そうにうなずいた。
「初耳だ。あいつ帰ってきてたのか」
「僕は話だけ聞いたけど、太一とかは会ってるんじゃないかな。タケル君も言ってたし」
 丈は何気なく言った。少々不自然ではあったけれどヤマトは顔を上げた。
「太一、元気か」
 自分の様子を窺う丈に気づいて、ヤマトは微苦笑するとさらりと聞いた。
「ああ、まあね。最近会ってないから、どうなんだろうなあ」
 ヤマトはそうかとうなずくと、立ち上がった。
「帰るぜ」
「おい、待ってくれよ」
 歩きだしたヤマトを追って、丈はその肩に手を置いた。太一のことを話せるのはこれが最後かもしれない。
「なあ、ヤマト」
「なんだ」
「太一のことなんだけど……」
 丈は慎重に言葉を選んで言った。
「ひょっとしたら、どこかで耳に入るかも知れないし……もうだいぶ前の話になるから話しておきたいんだけど」
「――?」
「太一、今はもう違うんだけど、やばいやつらと付き合ってた」
 ヤマトの目が細められ、眉が寄せられた。
「やばいやつら?」
「ケンカとかでナイフ持ち出すようなやつらだよ。たぶん薬も持ってたし……どんな薬物かは分からなかったけど……」
 ヤマトの表情がゆっくりと強張っていく。
 告げたくはなかった。けれど、これは話しておくべきだ。
「……太一、薬を一度やろうとしてたんだよ」
 丈の脳裏にあのときの太一の表情と言葉がよぎった。
(忘れられるんだよ、これで!)
 誰を忘れたいのか、丈は知っていた。それと同時に怒りがこみ上げてきた。
 そこまで太一が苦しんでいたことに気が付かなかった自分の愚かさに、激しい怒りを覚えたのだ。

「もう俺のことなんかほっといてくれよ」
 酒も飲んでいた。太一の口と体からはきついアルコールとタバコのにおいが漂って、それがひどく悲しかった。
 繁華街の狭く、汚い路地から太一を無理矢理連れ出して、丈は行き交う人々の目を無視して太一を公園へ引っ張っていった。
「離せよ!」
 太一は暴れたが、酔っているのか、それとも荒れた生活のせいかその力は意外なほど弱かった。
「太一」
 太一をしっかり押さえて、丈は太一を揺さぶった。
「自分が何をやっていたのか分かってるのか」
「分かってるさ。だからほっといてくれ」
 太一は首を振った。まるでいやいやする子供みたいに頼りない。
「ほっとけるわけないだろう。太一、ヒカリちゃんもタケル君も大輔君だって、心配してる。ご両親だって、そうだろう」
「いいんだよ、そんなの」
 太一の口調が弱くなった。
「よくないよ……。薬なんかやったって、何の意味もないじゃないか」
「忘れられるんだよ、これで!」
 太一は叫んだ。叫んだ後、ゆっくりうなだれた。
「太一……」
 丈の手から力が抜けていく。太一はその場にしゃがみ込んだ。
 今まで耐えていたことについに堪えられなくなったように、弱々しい仕草だった。
「忘れたいんだよ、俺は……」
 太一の口から低い嗚咽が漏れ出す。 泣き声は聞く者の胸を締め付けるくらいに悲痛な泣き方だった。

「もともと、ヒカリちゃんがタケル君と大輔君に相談して、彼らから僕が話を受けたんだ」
 丈はあのときのことを思い出しながら、ゆっくり語った。
 看板や店の明かりが眩しい通りだというのに、太一と一緒に居た少年たちの目は暗かった。
 太一自身の目も同じで、丈はあの目を忘れることができない。
「――薬は僕が処分した。付き合ってた連中とも、もう会わないようにさせた。だから、今はもう……表面上はもとの太一だ」
 丈が話し終えたとき、ヤマトは呆然と立ちつくしていた。
 もうすっかり酔いは醒めたようだ。
 丈は目を伏せかけて止めた。ヤマトの目をまっすぐ見つめる。
「太一は、まだ君のことを忘れてない」
「……丈」
「ヤマトだってそうだろう」
 ヤマトははっと息を呑んだ。
「――君たちは別れるべきじゃなかったと僕は思ってる」
 ヤマトはなんとも言えない歪んだ笑みを浮かべただけだった。
「やり直すことができるんじゃないか。三年経った。まだ三年とも、もう三年とも言えるけど、君と太一がもう一度やり直せる可能性は、三年前よりも高いと僕は思う」
「無理だよ」
 ヤマトは丈から顔をそむけた。車が一台クラクションを鳴らして通り過ぎる。
「無理だなんてどうしてわかるんだよ」
「……」
「太一に会った方がいい。一生、このまましこりを残していくつもりなら、僕はもう何も言えないけど……」
 ヤマトは、夜空を見上げた。東京の空は星が見えない。
「余計なことばかり言って悪かったよ」
 黙り込んだヤマトに丈は謝ると、立ち上がった。
「丈」
 ヤマトがガードレールに腰掛けたまま、丈を呼び止めた。
「世話かけてばかりで悪い……」
 丈は首を振って、歩きだした。
 ヤマトが立ち上がる気配はなく、ただ静かに夜は更けていくようであった。

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