「太一さん」
太一は読んでいた雑誌から光子郎の方へ視線を移した。
「どうしたんだ?」
光子郎は黙って、膝をつくと太一を抱き寄せた。
「光子郎?」
太一はとまどいながら、光子郎を抱き返す。
「何かあったのか?」
光子郎は何も言わず、太一にすがりつくようにした。
太一が不思議そうに顔をのぞき込もうとしたが、光子郎は太一の肩に顔を押し当てて、表情を隠す。
太一のぬくもりを感じながら、光子郎は目を閉じた。
――言えない。この腕の中から離したくない。
ヤマトが帰ってきた。たった一言のはずなのに、光子郎にはどうしても言うことができない言葉だった。
太一はもう何も聞かず、光子郎の頭をそっと撫でた。
光子郎が顔を寄せてくる。いつもとは違う荒々しい口づけだったが、太一はゆっくり唇を開く。
口づけなら何度も交わした。触れて、たまに熱っぽい舌をからませるような、深いキスも。
だが、それだけだ。
光子郎の腕に力がこもる。その手が太一の服にかかった。
「こ、光子郎……」
「今日は、父も母も遅いんです」
太一はしばらくは目を閉じて、光子郎に身をゆだねていた。
唇が首筋に滑り落ちて、手がシャツのボタンを外し、肌を空気にさらす。
けれどそこまでだった。
「光子郎、待ってくれ」
太一は床に組み敷かれる前に光子郎の手から逃れた。
光子郎の寂しそうな表情に、罰の悪そうに下を向く。
「あ、俺……」
「嫌でしたか」
「……そうじゃなくて」
太一は光子郎の手をしっかり握った。
「ごめんな。まだ、そういうの駄目かもしれない」
「いえ……」
光子郎は笑おうとしたが、無理だった。逆に太一が不安そうに光子郎に顔を寄せてくる。
「もう少し待っててくれ。そうしたら……」
「いえ、いいんです。焦ってしまってすみませんでした」
「光子郎」
怖がらせてしまった。太一の首に唇を押し当てたとき、太一の体が引きつったのを光子郎は感じ取っていたのだ。
「――あのさ」
太一が気まずい沈黙を破るように話しかけた。
「光子郎、十日に帰るんだよな?」
「はい」
「……俺もついていったらダメか」
「え?」
太一は光子郎の手を離した。
「駄目なら、もちろん止めるけど……」
「駄目じゃありませんけど、太一さんだって学校が」
「休みの間だけでもいいし」
太一が目を伏せていく。
「金、貯まってるし……旅費とか、滞在費とかは自分で払うから……」
光子郎は太一の頬を挟んで、顔を上げさせた。
太一の目が不安に揺れている。
「お前の邪魔とかしないから――」
太一の額にキスして、光子郎はうなずいた。
「そうしてくれたら僕も嬉しいです」
別れが先になるのなら、どれだけ幸せなことだろう。今度は笑うことができた。
「チケット取れるかな?」
「そうですね、調べてみます」
「俺、母さんたちに話しとくから、十日の日は二人でアメリカだな」
太一が嬉しそうに笑った。
その笑顔の向こうに不安が見えたのは光子郎の気のせいだろうか。いや、間違いではない。そして自分も太一と同じように不安なのだ。
なぜこんなにも不安を感じるのか、光子郎には分かっている。
(ヤマトさん……)
口づけるたびに、好きだとささやくたびに太一はヤマトを思い出している。光子郎の後ろにヤマトの影を見ている。
迷いや怯えが太一の目をよぎり、それを振り払うように光子郎の口づけに応えてくる。
光子郎の想いに応えようとする太一が、光子郎にはひどく切ない。幸福感の中に感じられる切なさがこれほどに強いものとは光子郎は知らなかった。
玄関から鍵を回す音が響いてきたので、ヒカリは深呼吸して玄関へ向かう。
「ただいま」
「お兄ちゃん、お帰り」
「あれ。母さんは?」
キッチンに夕食の仕度がやりかけのままに置かれてあり、太一は不思議そうに部屋を見まわした。
「ちょっと下まで買い物に行ってるの」
「あ、そう」
太一はなんだか機嫌がいい。ヒカリは何気ない風に兄を呼び止めた。
「お兄ちゃん」
「ん?」
振り返った太一の顔を見て、ヒカリは一瞬だけ話すのを止めようかと思った。
「あのね……今日、タケル君に会ったの」
「へえ、元気だったか?」
「うん」
「また大輔と遊びに来いって言っててくれよ」
「うん……それでね」
ヒカリが言いかけたとき、ふたたび玄関のドアが開いた。
「ただいまー。ああ、重かった」
母親がどさりと荷物を玄関に下ろす。
「太一、帰ってるの? ちょっと手伝ってよ」
「何、買ってきたんだよ、母さん」
「お野菜。下に野菜屋さんが来てたから、ついね」
「早く夕飯作ってくれよ、俺腹減った」
「はいはい」
エプロンをかけて、母はうなずいた。太一はリモコンを取り上げて、テレビをつけながら、立ったままのヒカリに聞いた。
「なにか話してたよな?」
「ええっと……なんでもない」
なんだよ、それ。太一が笑ったが、ヒカリはうなだれてキッチンの方へ行った。
トマトを洗う母の横に立つ。
「お母さん」
「なあに」
「――手伝うよ」
食器を拭き始めたヒカリはテレビを見て、笑う太一を眺めた。
――言えない。あんな顔して笑うようになったのに。
「ヒカリ、どうかしたの?」
「なんでもない」
沈んだ娘に母は首をかしげたが、あわただしくまた夕食を作り始めるのだった。
受話器を持ち上げて、ボタンを押しかけ、ヤマトは受話器をフックに戻した。
ため息が洩れる。
この時間だといないかもしれない。けれど、いつ太一は家にいるのだろう?
付き合っていた頃とは違う。太一の生活の時間帯をヤマトは知らなかった。携帯電話の番号が変わったように、太一の生活だって変わっているのだ。
たとえ、家にいたとしても太一が出るとは限らない。太一以外、彼の家族が出たのなら、一体何を話せばいいのか。
(太一君をお願いします)
数年前までは簡単なセリフだった。太一の携帯電話にかけても、俺、で通じた。
(ダメだ……)
持ち上げかけた受話器をまた下ろして、ヤマトはうなだれた。
会ってどうするつもりなのか。何を話すつもりなのか。謝るのか、それとも今度は友だちとして付き合ってくれとでもいうつもりだろうか、自分は。
頭の中でいろんな理由や理屈を付けてみる。
(情けない――)
顔が歪んだ。
理由などどうでもいい。理屈なんか無い。ただ太一に逢いたい、それだけなのだ。
――ルネ教授から日本への旅行の件を持ち出されたとき、一度は断ろうとした。
しかし、これが最後の帰国になるかもしれないという思いと、いつまでも残る太一の面影を忘れられるのではという考えから、日本への一時的な帰国を受け入れた。
それがどれだけ甘い考えだったかは、飛行機の中のアナウンスで日本時間を告げられた瞬間に分かった。
太一と同じ時間になった、そう思っただけで、ヤマトの胸は締め付けられたのだ。
(太一)
彼のすべてが自分の中で息づいている。
表情や仕草、触れたときの体の熱さまで生々しく甦ってくる。
まるで、今ここで太一に触れているように、ヤマトの体は太一の存在を忘れてはいなかった。
帰ってこなければ――そう思った。遠い異国にいるのなら、距離が心を冷やしてくれる。けれどここは日本、太一はすぐ近くにいるのだ。
表面上は昔のままに、丈はそう言った。今の太一の心を知るすべなどヤマトにはない。
あのとき愛していると告げていたのなら、何か変わっていたのだろうか。だが、それもただの想像、むしのよすぎる考えだ。
それでも――逢いたい。
心だけでなく、全身で叫んでヤマトは手で顔を覆った。
パリの夜よりも東京の夜の方が暗く長いように思えた。
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