STAND BY ME
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 AM 10:30
「太一、今日も光子郎くんのところに行くの?」
 玄関で靴の紐を結ぶ太一に母が声をかけた。
「……」
「あんまり入り浸ってるのもねえ……これ、あちらのお母様に渡して置いて」
 紙袋を渡される。外からさわってみるとひやりと冷たかった。
「なんだよ、これ?」
「水ようかんよ」
 太一は疑惑の目で母親を見上げた。
「お中元の残りじゃないよな?」
「違います」
 それでもまだ怪しげに袋と母の顔を見てから、太一はドアを開けた。
「じゃ、行って来る」
「気をつけてね」
「夕飯、いらないから」
「はいはい」
 家を出ていく息子に温かい目を向けて、母はまた部屋の奥へ戻っていった。

 AM 10:45
 携帯電話のベルにヤマトはいささか乱れた髪のまま、ベッドから起きあがると通話ボタンを押した。
「ヤマトかね? ルネだが」
「教授?」
「じつは今日の午後から大使館へ行かなくてはいけなくなってね……あ、いや大丈夫。君には悪いが、今日の予定はなしにしてくれ。ああ、ちゃんとあちらには連絡してある。別の日に変えてもらったからそれは心配しないでくれ」
「わかりました。また何かあったら、連絡下さい」
 ヤマトは電話を切ると首を鳴らした。
 本来なら今日は、教授の教え子が講師を務めている大学へ行くことになっていたのだが、それもなくなってしまった。
「どうするかな……」
 持ち帰った本でも読んで、午後から買い物にでも行くか。
 ヤマトは洗面所へ向かった。

 AM 11:08
「難しいな、これ」
「どれですか?」
 のぞき込んできた光子郎にコントローラーを譲って、太一は手で顔を扇いだ。
「むし暑いな」
 窓の外のぎらぎらした日差しに太一はげんなりした表情を見せた。
「エアコン入れましょうか」
 光子郎が言ったが、太一は首を振った。
「いい。――なあ、やっぱりあっちも暑いかな」
「そうですねえ……まあ、夏ですから」
 太一が苦労していたステージをあっさりクリアして、光子郎は太一にコントローラーを返した。
「なんで、お前そんなに簡単にクリアするんだよ!」
 太一がくやしそうに叫んだ。
「コツがあるんですよ」
 光子郎はほほえんで、一つ上の恋人にゲームクリアのコツを伝授し始めた。

 AM 11:25
 ざっとシャワーで汗を流した後、ヤマトは冷蔵庫を開けて、愕然とした。
 冷蔵庫の中は空っぽだ。一応、ビールとつまみは入っているが、他に食べられそうなものは何もなかった。
 軽く朝食兼昼食を取ってから出かけるつもりだったので、この冷蔵庫の寂しさには、当てが外れた。
 帰国してからは外食続きだったし、冷蔵庫の中身まで余裕を持って見ることもなかったので、ここまで何もないとは思わなかったのだ。
 まさか朝から、サラミやチーズ蒲鉾、あたりめを食べたくはない。
 野菜室の奥にしなびたキュウリが一本入っているのを見て、ヤマトはため息をついた。そんなにまめな性格の父ではないが、なにもここまで男所帯の寂しさを感じさせることもないだろうに……。
 夕方買い物に行って、何か買っておこう。だが、今は自分の食事のことだ。
「コンビニ行くか」
 適当に何か買ってこよう。せめて牛乳くらいは入れておきたい。
 財布を取り上げ、ヤマトは鍵を持つと家を出た。

 AM 11:40
「太一さん、昼御飯どうします?」
 そろそろ太一が腹減ったと言い出す頃合いだったので、光子郎は先に声をかけてみた。
「んー?」
 太一は大きく伸びをして、目をこすった。
「なんか買ってくるか」
「行きますか?」
「うん」
 太一が立ち上がる。二人連れだって家を出ようとしたときに、ちょうど電話が鳴った。
 光子郎は迷うように太一の顔を見つめたが、諦めたように電話に手を伸ばす。
「すみません、先に行っててもらえますか」
「わかった」
 そこのコンビニだから、と言って太一は歩いていった。

 AM 11:50
 自分用の総菜やおにぎり、それと食パンと牛乳、バターを買ってヤマトはコンビニを出た。なるべく日陰を選んで歩くが、正午近いとあって影が小さい。
(暑いな)
 額の汗を拭う。  道の向こうが陽炎のようにゆらめいている。
 手に持った乳製品を思い出して、車で来ればよかったと思ったが、今更そんなことを思っても仕方ない。ヤマトは足を早めた。

 AM 11:57
(光子郎遅いな)
 店内を見まわして、雑誌を読んでみたが落ち着かない。しょうがないので、適当におにぎりやサンドイッチ、おかずなどを買って、店を出る。
 出たところで携帯電話が鳴った。
「もしもし?」
「太一さん、すみません。今、電話が終わったところで……」
「長い電話だったなあ」
 太一はまったく悪気無く言ったが、電話向こうの光子郎はすまなそうに謝った。
「すみません。親戚の叔母さんだったんですが」
「ああ、わかるわかる。あの手のおばちゃんはしつこいから」
 太一は笑って、今から帰るからと言った。
「僕も行きますから」
「いいって。すぐ帰るから、待ってろよ」
 携帯電話を切って、太一は歩きだした。

 PM 0:00
「ウソだろ」
 抜け道と思った遊歩道が、途中で終わっている。工事中の看板がフェンスに掛かり、橋の補強工事のため、しばらく通行は不可と書いてあった。
 舌打ちして今やって来た方向へ戻る。
 袋のバターが柔らかくなっているだろう。急いで帰らないと帰ったとき、無惨な状態になっているにちがいない。
(前は確か橋がかかってたんだけどな)
 木漏れ日の下、ヤマトはため息をついた。

 PM 0:05
 木陰とはいえ、暑いのは同じだ。アスファルトの上、日差しに直接さらされるよりはましだが、風がないので木陰も思ったより涼しくなかった。
「あっちー」
 額からの汗を拭おうとして、太一はシャツをつまんだが、胸ポケットからころりと何かが転げ落ちる。
「あ」
 タバコの空き箱だった。どうしてこんなものが入っているのだろう。
 不思議に思って拾い上げる。タバコが一本だけ入っていた。
 太一はふっと微笑した。光子郎に約束した禁煙は守れている。ここで気まぐれに吸って駄目にするつもりはなかった。
 顔を上げた先に、屑籠があった。
「シュート!」
 冗談でつぶやき、屑籠を目指し、タバコの箱を投げる。
「あれ?」
 軽いせいか、それとも風が吹いたからか、空き箱はとんでもない方向へ飛んでいく。
 木で遮られた隣の遊歩道に、見事に弧を描きながら飛んでいく空き箱を、太一は驚いたように見ていた。

 PM 0:06
 ――ぽかりと何かが頭を直撃した。
「痛っ!」
 髪の分け目にちくりとした感触が当たった。軽い音がして肩から地面へとそれが落ちる。
「タバコの箱?」
 どこのどいつだ、こんなものをポイ捨てして――ヤマトの眉が寄る。しかも人に当たったのだ。昼休み中の会社員か、それとも常識知らずの若者か。
 同じ若者であるヤマトは箱が飛んできた方向を見た。
 がさがさと茂みが揺れる。
 自分の声を聞いて、謝りに来たのか? 箱を握ったまま、ヤマトはそちらをにらみつけた。

 PM 0:06
 隣から声が聞こえてきたのには驚いた。自分以外にも、こんな時間に公園を歩くやつもいるのだなと太一は妙な感心をしたが、とにかく相手に謝らなければならない。
 どう見ても太一が投げたタバコの箱に、当たったに決まっている。植え込みをかき分けて、太一は隣の遊歩道に顔を出した。

 PM 0:07
 葉っぱを数枚頭にくっつけて、顔を出した青年を見て、ヤマトは固まった。
 コンビニの袋を下げて、こちらをにらむ青年を見て、太一は固まった。
 あまりにも突然すぎる再会に、二人は声を出すこともできず、お互いを見つめていた。

 PM 0:09
 しばらくお互いを見つめあっていた二人だった。それぞれの心内にどんな思いがよぎったのかは分からないが、まずヤマトが動いた。
 何度か唇を開き、また閉じて、ようやく言葉が出た。
 月並みな言葉である分、言いづらかった。
「――久しぶり」
「あ、ああ……」
 太一はうなずいて、困ったように地面に視線を落とした。
「帰ってたんだ」
「まだ一週間にもならないけどな」
「へえ……」
 心臓はどうしようもなく早く鼓動しているのに、口からは意味のない世間話じみた言葉しか出てこない。
 太一はヤマトが握ったままの、タバコの箱に目をやった。
「ごめん、それ投げたの俺だ」
「タバコ吸うのか」
 ヤマトの声に微かな驚きが混じった。
「――もう止めた」
 光子郎のために。太一は思い、それから遊歩道へ戻ろうとした。
 ヤマトと会うべきじゃない。光子郎の顔が浮かぶ。胸が痛むのは、光子郎のことを思い出したからだ。そうに決まっている。
「太一!」
 ヤマトが名を呼んだ。同時に手が引かれた。手首をつかまれて、太一は硬直した。
「あ、いや……」
 ヤマト自身、自分がしたことにとまどったようだった。
 詫びの言葉を口にして、手を離そうとしたがそんな思いとは裏腹にヤマトの手には逆に力がこもる。
「太一……」
 振り向かなかった。手を振り払って走り出せばいいことになのにできなかった。
「会いたかった……」
 ヤマトの口から、ため息のように言葉が洩れた。
 太一の手が震えた。ジーッとセミが耳障りな鳴き声を最後に鳴き止んで、しばらく辺りは静かになった。
「俺は――」
 太一は振り返った。言わなくてはいけない。胸に何かがつまっているみたいに苦しいが、太一は言った。
「光子郎のとこ行くから」
 ヤマトが一瞬、問うような目で太一を見たが、すぐにその意味を悟る。
「そうなのか……」
 ヤマトの手がゆっくり離れていく。袋から水滴がしたたり落ちた。
「もう行く」
 太一はヤマトに背を向けようとした。
「――あいつ、優しいか?」
 ヤマトがこれが最後だと言うように訊いた。
「ああ」
 太一は震えを抑えた声で返事すると、そのまま歩きだした。
 ヤマトがゆっくりつぶやいた。
「なら、いいんだ……」
 太一は走り出した。早く、ヤマトの声と視線が届かない場所に行きたかった。
「まいったな」
 袋の上からバターに触れて、ヤマトは遠くを見やった。
「すっかり溶けてやがる」
 それから彼も歩きだした。もう太一の姿は見えなくなっていた。

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