ドアの前で待っていた光子郎は太一の姿を認め、ほっとしたように笑顔を浮かべた。
「すみません、太一さん。結局行けなくなってしまって」
太一は首を振って、光子郎に袋を差し出した。
「あ、このアイス、溶けてますね」
光子郎は家に入ると、急いでアイスを冷凍庫へ突っ込む。
「他に冷やすものはありますか?」
振り返った光子郎は目を見張った。
「太一さん!」
太一が突然、床に崩れ落ちたのだ。
「どうしたんですか。気分でも……」
あわてて手をさしのべ、抱き上げようとする光子郎の腕をつかみ、太一はささやくように言った。
「ヤマト、帰ってきてた」
光子郎の表情が消えた。
「さっき、そこで会った……」
「太一さん……」
「どうして驚かないんだ」
太一は低い声で、ゆっくり言った。
光子郎は太一を見つめ、それから目を逸らした。
「――知ってました」
「知ってたって……黙ってたってことか」
「そうです」
「どうして――」
太一は言いかけて、黙り込んだ。
「そっか……」
がくりとうなだれる。乱れかけていた呼吸を落ち着かせて、太一は顔を上げないまま、つぶやいた。
「ごめん、光子郎」
「どうして、太一さんが謝るんですか!」
光子郎は太一の肩をつかんだ。
「僕は黙っていたんですよ。知っていたのに、あなたに何も言わなかったんです」
光子郎の声は悲鳴のように苦しげだった。
「あなたをヤマトさんに会わせたくないから黙っていたんですよ!」
「光子郎」
太一が光子郎の頬に手を当てた。
「いいんだ、もう」
光子郎が太一を見つめた。嘘を見透かすように真剣に悲しげな目で、太一を見つめている。
「手が……」
光子郎は太一の手を押さえた。
「震えてますよ、太一さん」
太一の言葉は真実だ。悲しいくらいに真っ直ぐに自分を見つめ返してきている。けれど、心は一つではない。ヤマトを拒む心とヤマトに惹かれていく心と二つあるはずだ。
どちらが強いのか、太一の手の震えで光子郎には分かったような気がした。
――渡したくない。やっとこの腕に抱くことができたというのに、どうして離せるだろうか。
激情が言葉に変わった。幼い頃この言葉がどんな意味を持つか知らなかった。
「――愛してます、太一さん」
ただ美しい想いの言葉だと思っていた。けれど言葉に物語のような美しさはなく、その裏には醜い独占欲がある。
言葉で太一を繋ぎ止められたら、どんなにいいだろう――思わずにはいられなかった。言葉を枷にできたら、どんなにいいだろう。
「愛しているんです」
太一を抱こうとしたが、太一は首を振った。光子郎を押し返す。
「俺……」
恋ではないのだと、愛ではないのだと、言うつもりだろうか。
視界が歪んでいく。今の自分には嫉妬、それだけしかない。
「ヤマトさんは、あなたに言ったんですか。愛してるって」
「止めてくれ」
太一が弱々しくうめいた。
「あいつのこと、もう思い出させないでくれ……」
きっと言ったのだ、愛していると。どんな思いで太一はその言葉にうなずいたのだろう。
まだ二人が幸せだった頃に、太一も愛しているとささやき返したのか。
「――僕にヤマトさんの代わりはできません」
「そんなこと知って――」
「今、僕の後ろに誰を見ていたんですか」
言葉が止まらない。
「僕の後ろにヤマトさんを見ないでください」
光子郎は太一を乱暴に抱き寄せた。がむしゃらに唇を重ねる。
「んっ……くっ」
太一があまりに長い口づけに首を振る。
光子郎が唇を離すと、乱れた息が太一の口から漏れた。
太一が何か言いたげに光子郎を見つめた。太一が口を開く前に、光子郎は太一の唇をもう一度覆い、そのまま床に押し倒した。
ちぎるようにしてシャツのボタンを外す。乱暴な手の動きに、ボタンが一つ飛んだ。
露わになった胸元に手を這わせ、首筋に歯を立てる。太一は微かに声を漏らしただけで、抵抗は見せなかった。汗が冷えたのか、肌は冷たい。
荒い息がリビングに満ちる。
光子郎は太一をほとんど全裸に近い状態にすると膝を持ち上げ、足を開かせた。
太一は従順に光子郎に身をまかせ、目を閉じている。微かな震えだけが、太一の抵抗のように思えた。投げ出された手が陽の光に映えて生々しい白さを見せている。
光子郎が大きく息を吸った。唇を噛みしめ、太一を見つめる。
嫉妬心だけが欲望をあおるこんな抱き方で太一を抱きたいのではない。
汗とは違う温かい雫が太一の頬に落ちた。
「――どうして抵抗しないんですか」
涙が落ちていく。
「同情なんですか」
「違う……」
太一が首を振った。光子郎は涙を拭うこともなく、太一から離れた。
「光子郎、俺は――」
「ヤマトさんのことを忘れなくてもいいんです。いつまでだって僕は待ちます」
もう長い間待っていた。待つことには慣れていたつもりだった。どこまでいってもつきまとうヤマトの影。忘れなくてもいいと言ったのは、自分だ。ヤマトの面影を心に秘め続ける太一にそれでいいと言ったのは真実だ。心の底からそれでいいと思った。いつかは、という考えがあったのも否定しない。
けれど――逃れられないのは太一でなく、自分なのではないか。
太一が口元を手で覆った。閉じられた目尻から涙がわずかに滲み、乾いた。
誰を想っての涙なのだ。どうしようもない嫉妬が愛おしさと共に光子郎の胸に湧き上がる。
沈黙の中、太一は乱れた服を直し、床に飛んでいたボタンを拾おうとしていた。だが、震えた手はボタンをつかめず、床に何度も当たって、カチカチと乾いた音を鳴らすばかりだ。
太一の代わりにボタンを拾い上げ、そっと手に握らせる。
太一は光子郎の手から自分の手を引き、背を向けた。
うなだれた太一の背中を光子郎はゆっくり抱きしめた。怯えさせないように、優しく、微かに嫉妬を滲ませた手で太一の体に腕をまわす。
太一がかすれた声でつぶやいた。
「愛してるなんて、言われたことない」
「すみません――」
泣かせたくない。傷つけたくない。側にいたいのに、どうしてこんなに心は遠いのだろう。確かにあのときは近づけたと思ったのに。
「俺……やっぱり忘れるから……」
「――いいんです」
「光子郎のことだけ考えるから」
「太一さん」
生温い風が吹く。風鈴が鳴る中、太一を抱きしめたまま、光子郎はまた少し泣いた。
――太一の中でヤマトがどれだけの重みを占めているのか、今、光子郎は理解した。
手元に寄せたレポートをめくろうとして、ヤマトは舌打ちした。
目的のものとは違うものを持ってきてしまったらしい。こちらで仕上げようと思っていた論文は、あちらに帰国してからということになってしまう。
何とか内容を思い出そうとしたが、目を閉じ、集中すると浮かんでくるのは論文の下書きの内容ではなく、彼の姿だった。
(太一……)
手で梳くと意外なほどの柔らかさを持っていた髪も、何度も口づけた日焼けした肌も、記憶のままにヤマトの目の前に現れた。
違うのは痩せた頬の線や、その目がもうヤマトではない青年を見ているということだ。
光子郎――太一が彼を選んだのなら、もう何も言うまい。会いたいという願いは叶ったのだから、これ以上は何も望むつもりはなかった。それ以上の思いはただの未練だ。
だが、そう思えば思うほど、太一の面影にヤマトは苦しめられた。
これからは自分でない、光子郎が太一に口づけ、髪を梳き、抱きしめるのだろう。どす黒い嫉妬がわき上がって、手が震えてくる。
だが、太一の隣りに自分の居場所など無い。あるわけがなかった。ヤマトは胸を押さえて、必死に迫りあがってくるものをこらえた。
(太一 ――太一!)
何度彼の名を呼んだのかヤマトには分からない。
ふとした折りに――日本から持参した本を広げたとき、挟んでいたしおりを見たとき、テープに入っていた曲を聴いたとき、コーヒーを沸かしたとき――そんな思いも寄らない一瞬に太一の幻はヤマトの目の前に現れて、ヤマトに笑いかけた。
夢に見て手を伸ばしたことも、名を呼びながら起きたこともあった。こんな焼け付くような激しい想いは初めてだった。
憎しみにも近い想いで太一の名を呼んだことがある。憎めたらどれだけ自分は楽になれただろうか。けれど憎むという感情に走るには、太一の面影は優しすぎた。
思い出は幸福だった。そこには何の翳りもない。
拳を握りしめて、ルネ教授の言葉を思い出した。
(君には卒業後もこちらに残って私の手伝いをして欲しい)
無論、手伝いばかりではない。ヤマトの研究するフランス中世から近代の歴史に関して教授は第一人者だ。どれだけ研究がはかどるだろう。
(ただ、はっきり言うと日本へ帰るのは難しくなる。それでも私は本気で君を助手にと願っている。答えは卒業までにしてもらえればいい)
ヤマトを見込んで、と教授は言った。
ふと引き出しを開けてみる。ブルースハープが埃もかぶらず、光っていた。
手にとって、いくつかの旋律を吹くと、ヤマトは目を閉じた。
答えは出ない。
なぜなのか、ヤマトには分かっている。
(太一)
彼への想いだった。断ち切らなければならないこの想いがある限り、自分は答えを出せないだろう。
考えなければならない。答えを出すために。けれど太一の面影は、心に刻みこまれ、もはやヤマトの一部にもなっている。
どうしろというのだ。自分の心を切り離せと?
迷いが晴れる日は来ないようにヤマトには思えた。太一が心から消えないように、迷いは永遠に残る気がした。
(太一)
もう何千回もその名をつぶやいた。そう呼ぶときだけ、太一はヤマトを見つめて笑ってくれる。
たとえ、思い出を反芻するだけの女々しい行為だとは知っていても、それ以外、どうしようもなかった。
(太一)
涙も出なかった。泣く代わりに笑うことを覚えたのが、自分の唯一の成長かもしれない。そうだとすれば、なんとむなしい時を重ねたのだろう。
ただ夜は長く、静かだった。太一の温もりもない夜を何度過ごしてきたのか、ヤマトはもう数えることを止めていた。
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