――次の約束もせずに光子郎の家から、逃げるように帰ってきた。それからお互い連絡をすることもなく、数日過ぎている。< br>
夏期講習だというヒカリを学校まで送って行ってから、太一は自室でごろごろしていた。
何も考えたくなかった。ヤマトのことも光子郎のことも、全部忘れて、こんな想いを感じるようになるなんて思いもしなかった昔に戻りたかった。
愛や恋、友情なんて言葉は気恥ずかしいくらいに眩しいと思っていたのに、今はその裏のどろどろしたものに気づいてしまった。どんな素晴らしいものだって裏には何かあるのだと――それを受け入れて歳を取っていくのだと……どうしてあの頃、歳を取ることが、いいことだと思えていたのか不思議だった。
「太一、どこ行くの」
「散歩」
雨がどうとか天気が悪くなるとか、母が言ったが、ほとんど受け流して太一は家を出た。
別に目的はない。道行く人々を眺めていると、無性に苛立ってきた。
八つ当たりのようなものとは分かっていたが、どうしても抑えられない。なぜ自分以外の誰かは皆幸せそうに見えるのだろうか。
散歩と言うにはあまりに長い時間をぶらぶらと歩いて、疲れるとその辺に座り込み、買う気もないのに店に入って商品を眺めたりしていた。
空は太陽がたまに顔を出すくらいで、雲が多くなってきている。
書店を出ると急に蒸し暑くなった気がして、太一は額を拭った。
「あれ、太一か?」
背後から声をかけられ、振り向いた太一の目に青年の穏やかな笑顔が映った。
「丈……」
「ぼうっとして歩くなよ、危ないだろう」
手に太一が今までいた書店のカバーがかかった本を何冊か持っている。
「何してたんだい?」
「別に……ぶらぶらしてただけだよ」
ふてくされたような太一の態度に丈は微妙に表情を変えた。
「太一、時間あるか?」
「――あるけど」
「じゃ、どっか入ろう」
書店の横の暗いコーヒーショップに入る。昼食を摂っていないことに気づき、太一はピラフセットを頼んだ。
丈はアイスティーを頼み、追加でサンドイッチも頼む。
「お前も昼飯食ってないのか?」
「太一の分だよ」
足りないだろうと丈は笑った。
「君はよく食べるからなあ」
運ばれてきたピラフの量を見て、太一は丈の言葉に納得するしかなかった。
「元気そうで良かったよ」
「ああ……前はいつ会ったけ?」
「春頃かな」
それではかなり間が空いている。太一は付け合わせのパセリを手でつまむと、皿の縁に置いた。
「光子郎はどう? 帰ってきてるって聞いたけど」
「……元気だ」
太一は口早に言うと、意味もなくストローでコーヒーをかき混ぜた。
「……なあ、太一」
「知ってる」
丈の口調に何か感じたのか、太一は丈よりも先に言った。
「ヤマトだろ。帰ってるんだってな」
丈が驚いたように太一を見た。眼鏡がちょっとずれている。
「知ってたのか?」
「この間会った」
「あ、そうなんだ」
丈はきまり悪そうに眼鏡を上げた。太一は黙って、サンドイッチを取る。
「太一」
「なんで、そんな顔するんだよ、丈は」
太一は困ったように言った。
「そりゃ、俺世話かけてばかりだけど、もう前みたいなことしないし……」
太一の視線が落ちた。
「そんなの分かってるよ。太一は約束破るようなやつじゃないだろう」
包むような優しい声でうなずきかけて、丈はアイスティーを押しやった。
「……僕が言いたいのは、君はヤマトと話し合うべきじゃないかってことだよ」
「――話したよ」
会話とも言えない会話だったが、ヤマトも理解したはずだ。
もう会うべきではないことと、光子郎のことを――そこで太一は顔を上げた。
「あいつも分かってくれてる。俺と光子郎のこと」
「光子郎?」
ああ、そう言えば話していないのだ。太一は口早に光子郎と自分の関係を話した。
丈の視線が痛かった。なぜこんなに後ろめたい気持ちになるのか太一には分からない。
丈の目が細くなる。
「太一、本気なのか?」
太一は微笑した。
「太一」
その笑顔が、なぜか恐ろしいものに思えて、丈は太一の腕をつかんだ。
「君はそれでいいのか」
「いいも悪いもないだろう、そう決めたんだから」
「そうじゃない、だって君はヤマトを――」
「どうして、いまだに俺がヤマトを好きだって決めつけるんだよ」
太一が冷たく言った。それでもヤマトの名を口にしたときに、目に怯えが走ったのを丈は見逃さなかった。
「あいつとはもう別れたって――」
「忘れられないって言っていたのは太一だ」
「ああ。だけど、今は違う。光子郎がいる」
「太一」
丈は太一の手を離した。
「光子郎はいいやつだと思う。だけど太一……光子郎はヤマトの代わりじゃないぞ」
丈は鋭く言った。太一の顔が強張る。
「光子郎と付き合っていれば、ヤマトのことを忘れられるなんて思ってないだろうね?」
「――思ってねえよ」
「光子郎のこと本気なんだな?」
「ああ……」
太一の手が震えた。
「中途半端な気持ちで、光子郎の側にいると、彼も君も……ヤマトも傷つくことになる」
「最初から相手のこと、好きだって思って付き合うばかりじゃないだろ」
恋には色々な形があるという、太一の反論の声は弱々しかった。
丈は迷ったが、思い切って言った。
「君の目は恋してるような目じゃない――僕はそう思う」
太一ははっと丈を見つめた。
丈のその言葉は、昔ヤマトに太一が投げた言葉だった。――恋じゃない、責任の目。
太一は視線を逸らして、窓の外を見た。薄暗くなってきている。
「丈、もういい……分かったよ」
太一は引き留める丈を無視して、伝票を取り上げる。逃げるようにして、レジで千円札を三枚渡すとお釣りを受け取らずに、店を出た。
「太一!」
呼び止める丈の声を無視して、太一は走り出した。
――恋じゃない、責任の目。
自分で言った言葉がこんな形で返ってくるとは思わなかった。
ぽつりと頬に冷たいものが落ちる。あっという間に勢いよく雨が降り出した。驚きの声を上げて、帰宅するサラリーマンやOLが走り出し、傘を広げ出す。
何人かとぶつかったが、太一は気づかずにただ走り、しばらくして足を止めた。
なぜ、よりによってこんな場所に来てしまうのだろう。
ここはあの日、太一が事故に遭った交差点だった。
雨がどんどん激しさを増してくる。
(――ヤマト)
体が冷えていきそうで、太一は自分で自分を抱くようにした。
光子郎の言葉も、丈の言葉も真実なのだ。
彼と口づけを交わしても、言葉をささやかれても、その向こうにヤマトがいる。ヤマトとのキスや、会話を思い出している。何気ない会話から、ベッドで好きだとささやき合ったときの声、仕草。喧嘩したときのことまで思い出しているのだ。
光子郎といるときは、ヤマトの影も共にあった。
(俺は……)
雨が太一を濡らしていく。
髪から滴り出す雫にも構わず、太一はヤマトとつぶやいた。
あの頃はヤマトが太一の心のすべてだった。
そう、すべてだった。ヤマトは夢よりも自分を選んでくれた。あの真っ直ぐな目で、そう言い切った。
ヤマトの言葉は誓いであり、真実だった。
――あれからどれだけ自分は大人になって、自分自身を汚していったのだろう。
止む気配もない雨は、太一の体を冷やしていく。
太一はふたたび歩きだした。今度もまた、目的もなく、ただ歩くだけだった。
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