STAND BY ME
8



 太一がこうと決めたら、それを動かすことが難しいと言うことは彼自身との付き合いを通じて光子郎は知っていたが、これほどとは思わなかった。
 今日もいないのだというヒカリの言葉に、落胆しつつ、挨拶して電話を切る。
「太一君と連絡取れないの?」
 母がおたまを片手に顔を覗かせる。
「はい……」
「あちらだって、色々忙しいんでしょう。光子郎だって、忙しそうにしてたじゃない」
 その通りだった。光子郎が帰国したのは一応休暇のためだが、遊ぶばかりではない。
 日本で会わなければならない教授や学生、研究員だっている。将来が有望な技術者の光子郎に会いたがるというのもあるし、遊んでいるばかりではなかったのだ。
 空いた時間を太一に会うことにほとんど使っていたしっぺ返しと言ってもいいかもしれない。
(それでもこんな大事なときに……)
 忙しくならなくてもいいだろうに。
 太一に想いを伝えた日から一週間、太一の声を聞くことすらしていないのだ。
「僕、ちょっと出てきます。夕飯はいりませんから」
 光子郎は口早に母に伝えて、呼び止められない内に家を出た。
 なんとしてでも今日は太一に会うつもりだった。
 今はいないというのなら、いずれ帰ってくるだろう。マンションの下で光子郎は太一を待とうと決めたのだ。

 夜十一時を十五分ほど過ぎたところで、太一は時計を確認した。
(早いほうだな)
 腰からぶら下げているキーチェーンを鳴らして、太一は家まで急いだ。
 その足が街灯の明かりの少し前で止まった。
「こ、光子郎?」
「そうですよ、太一さん」
 寄りかかっていた街灯から身を離して、光子郎はふっと息を吐いた。
「お帰りなさい。遅かったですね」
「……待ってたのか」
 太一の声は小さかった。
「そんなに待ってませんよ」
 太一の表情がここからでは見えない。光子郎は明かりの外へ出た。
「太一さん」
「……光子郎」
「何ですか」
 出鼻をくじかれて光子郎はたじろいだが、素直に聞き返した。
「明日、空いてるか」
「いえ、明日は……」
 知り合いがいる大学の研究室に行かなければならない。
 太一が諦める前に光子郎はつけ加えた。
「明後日なら、大丈夫です」
「そっか。じゃ、海行こう」
「海?」
 海ならすぐ側にあるのに、わざわざ遠出するということか。
「泳ぐ訳じゃないから、水着はいいぜ。朝、迎えにいくから」
 太一がちらりとほほえんだ。光子郎が何か問う間もなく、太一は足早に行ってしまった。
「海?」
 もう一度光子郎はつぶやいた。
 つまり話は明後日に、と言うことになったのだろう。
 短くはあったが太一の声を聞けたことと、会う約束をしたことで、だいぶ安堵し光子郎は家まで戻っていった。

 約束通り、二日後に太一は光子郎を迎えに来た。
 車を走らせながら、太一は何度か光子郎に話しかけようとしていたが、結局海に着くまで話らしい話は交わさないままだった。
 それぞれ何か思うことはあるのだが、口にするタイミングがつかめないといったところのようだった。
 太一は海岸沿いに車を止めると、出ようと合図した。
「いいところですね」
「けっこう穴場だろ」
 まだ盆休みに入っていないし、今日が平日のためか、海岸に人はほとんどいない。
 遊泳禁止の札のせいもあるだろうが、家族連れが一組と、地元民らしい犬を連れた女性が一人、後は岩場に釣り人が三人ほど、それくらいだった。
 砂浜を歩きながら、太一は気まずそうにごめんなと謝った。
「……連絡してくれてたのは知ってた」
「毎日どこに行ってたんですか」
「バイト。知り合いの代わりをしてたんだ……本当だぞ」
「別に何も言ってませんよ」
「疑ってるだろ」
「――連絡くらいしてくれたっていいじゃありませんか」
「だって、お前だっていなかっただろ!」
「それは、そうですけど……」
「じゃ、おあいこだろ」
 光子郎は首を振った。
「僕はヒカリさんに伝言を頼みました。メールも入れました」
「忙しかったんだって……」
 太一の声が小さくなった。
「母に言付けてもらっても良かったですし、連絡の取りようはいくらでもあったはずです」
「……悪かったよ」
 太一は光子郎に背を向けた。
「でも、どんな顔して逢えって言うんだよ」
 太一は先に立って歩きだした。打ち上げられたワカメを踏んで、流木を蹴っ飛ばした。
「僕は会いたかったです」
 太一の背を見つめ、光子郎は言った。
「太一さんに会って聞きたかった」
 大きな波がうち寄せ、太一と光子郎の足を濡らしたが、どちらも動かなかった。
「僕は太一さんを好きだと言いました。太一さんの返事を聞きたいです」
 太一は振り向いた。どんな顔をすればいいのか分からない太一の心を現すように、その表情は複雑だった。
「俺は……まだ忘れてない」
「知ってます」
「たぶんこの先、ずっと忘れられない」
 目を伏せた太一に光子郎は手を伸ばした。一歩後ずさって、太一は首を振った。
「だから――」
 最後まで言わせず、光子郎は太一を抱き寄せた。人目も何もまったく気にしないくらいがむしゃらな抱き方だった。
「全部、知ってます。太一さんがヤマトさんのこと忘れられないことぐらい僕にだって分かります!」
「だったら……」
「それでもいいんです」
 光子郎は太一を離すまいと腕に力をこめた。
「ヤマトさんを忘れられなくても、僕は太一さんが好きなんです」
「光子郎」
「ヤマトさんを忘れなくてもいい。そのままの太一さんでいいんです。だから……」
 太一はもう何も言わなかった。黙って、光子郎の腕の中で目を閉じていた。
 ――抱擁はそれほど長くはなかった。太一が光子郎の胸を押すと、光子郎は太一を解放した。
「太一さん」
 太一は光子郎からさっと顔を背けた。そのまま歩いていく。
「腹、減ったな。食い物、車に載せてたから、昼飯にするか」
 太一は言って何歩か歩くと、振り向いた。
「光子郎」
 その笑顔は今までみた太一の笑顔の中で、一番優しく、切ないものだった。
「――ありがとうな」
 人が人に縛り付けられるということがあるなら、今この瞬間、光子郎は太一に縛り付けられた。
 眩暈がするくらい明るい太陽の下、光子郎は太一をただ見つめていた。

 途中で買い込んでいた食料で簡単に昼をすませて、午後からはまた二人で海を歩いた。
 最初は子供みたいにはしゃぐ太一を見ていた光子郎だったが、その顔に海水をかけられて笑われてからは、ムキになって太一にお返しをしようと靴を脱いで、水に浸かった。
 小さな子供のように水のかけっこをして、海岸を走り回る内に服も濡れてしまう。
 砂をあちこちにくっつけながら、車まで戻ってきたときには夕方になっていた。
「ここ、夕日がすごいんだぜ」
 太一が海を指した。
「よく知ってますね」
「知り合いにこういうとこに詳しいやつがいるんだよ」
 ムード満点のこんな場所で女の子を落とすのだそうだ。
 太一は道路端の柵に体をもたれさせて、タバコをくわえた。火を点けかけ、光子郎に手招きする。
「何ですか」
 近寄った光子郎の口にタバコを突っ込んで、太一は素早く火を点ける。
 慣れないタバコの味に光子郎はむせた。
「ごめん、ごめん」
 笑って太一はタバコを取り上げると、携帯灰皿に押し込んでしまった。
「光子郎は吸わないんだな」
「試したことはありますけど、どうも合わないみたいです」
「じゃあ、俺も止めるよ」
 太一は笑って、タバコの箱をつぶした。
「今から禁煙する」
「できるんですか」
「できるさ」
 キスが苦いのはイヤだろ、と太一はつぶやいた。
「――かまいません」
 ゆっくり顔を傾けながら、光子郎はささやいた。
「今は僕の方が苦いと思いますから」
 太一は微笑して、そっと目を閉じた。二人の影が伸びていく。
 頭上を轟音を立てて、飛行機が通り過ぎていったが、どちらの耳にも入っていないようだった。

 重い荷物を持ち上げたところで、ルネ教授はかたわらの教え子に話しかけた。
「やはり日本も暑いね」
「もう七月も終わりですから」
 柔らかく答えた青年の目が、緊張しているようだったので、教授は続けて聞いた。
「久しぶりの故郷に緊張しているのかね」
「――そんなところです」
「君も緊張するのだね」
 日頃は落ち着き払った態度しか取らない教え子に、おかしそうに笑いかけてから、教授は歩きだした。
「私も緊張しているよ。なにしろ憧れの日本だ」
 旅の疲れも見せず、教授は眼鏡を上げると到着手続きを済ませるために歩きだした。
 ルネ教授の教え子であり、助手でもある青年は自分のトランクを引きながら、師の後を追う。
 パスポートを取り出しながら、教授はほほえんだ。
「私よりも君の方が疲れているようだ。ホテルまでは私一人で行くから、君は家へ帰るといいだろう。家族に顔を見せておいで」
 青年は礼を言って、うなずいた。
「そうさせて頂きます」
「そのうち、君の自慢の弟にも会わせてくれよ、ヤマト」
 弟の話を持ち出され、青年はようやく表情を和らげたのだった。

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