いつから気持ちがすれ違うようになっていたのか――太一の足のリハビリも順調に進み、退院を明日に控えた日のことだった。
「ヤマト?」
大きな花束を抱えて、病室に入ってきたヤマトに太一は妙な目を向けた。
「なんだよ、それ」
「退院祝い」
頭よりも大きな花束を太一に渡して、ヤマトは憮然とした表情で言った。
「退院祝いって……」
「俺が買ったんじゃないぞ。タケルだろ、大輔に光子郎それに丈、空、ミミ、ヒカリちゃんに伊織に京ちゃん。全員からだってさ」
こんな大きな花束を抱えて病院を歩いてきたのなら、ヤマトの表情も渋くなるはずだろう。
「これ、花瓶に入るか?」
花束のあまりの大きさに太一もとまどった。百合の花の香りが鼻をくすぐる。
「二つにわければなんとかなるだろう」
花瓶を二つ、棚から取り出してヤマトはポケットを探った。
「俺、水いれてくるから」
「ああ、俺も行く」
花をベッドの上に置いて、太一はスリッパを履こうとしたが、その手元にヤマトは小さな箱を置いた。
「?」
「退院祝い」
ぶっきらぼうに言うと、ヤマトはさっさと行ってしまった。
太一は小箱を開けてみる。中身は銀のアクセサリーだった。もちろん男物のブレスだ。小さな時計が付いている。
太一はそっとブレスをはめてみた。
意外な重さとひんやりした感触、太一は腕を上げてはめ具合を試してみる。
「けっこういいかな?」
太一は手を振ったり、上げたりしてからブレスを押さえた。
「うん、いい」
もう一度手首を振って太一はうなずいた。
「――思ったより似合ってるな」
二つの花瓶を抱えて戻ってきたヤマトが声をかけてきた。
「思ったより?」
「似合わないかと思った」
ヤマトが笑って、花瓶に花を入れる。
「似合わなかったら、俺のにしようと思ったんだ」
「なんだよ、それ」
呆れて太一はベッドに寝そべった。小さい声でつぶやく。
「――大切にするよ」
「当たり前だ」
ベッドの横に座って、ヤマトは太一を見つめる。
太一がゆっくり目を閉じたので、ヤマトは顔を近づけた。
唇が重なった後も、離れた後も太一はしばらく目を閉じていた。
「太一?」
「――なんでもない」
太一は首を振った。
「なあ、太一」
ヤマトは身を起こしながら、膝の上に視線を落とす。
「お前、どうするつもりなんだ」
「どうって?」
「――進路」
太一はヤマトの背中を見つめた。後ろからでも分かるくらいにヤマトは緊張していた。
「進路か。お前は? フランス行くんだろ?」
「――まだわかんねえよ」
「秋に一度あっちに行くんじゃなかったか?」
「俺じゃなくて、お前のことを聞いてるんだ」
太一は枕に半ば顔を埋めるようにして、
「俺……?」
太一はそのまましばらく黙っていた。ヤマトがそっと振り向いてみると、太一は枕に顔をうずめ、動こうともしない。
泣いているのか――ヤマトが太一の手を取ろうとしたとき、太一が顔を上げた。
「今から俺ががんばって入れるとこだな」
太一はあっさりと言った。
「丈に家庭教師にでもなってもらって、頭にたたき込んでいったら、なんとかなるかな」
「太一」
「なんだったら予備校に行ってもいいし」
「太一」
ヤマトは太一を見つめた。
「なんだよ、ヤマト」
「俺……俺は」
「お前はフランスだろ」
太一はヤマトから視線をはずした。
「歴史、好きなんだろ。だったらチャンスじゃないか」
「俺のことはいいんだ。――俺、お前の側にいたい」
太一の声が震えた。
「今、いるじゃないか」
「これからの話だ」
「いいよ、そんなの」
「太一、聞いてくれ」
厭がる太一の手を握って、ヤマトは訴えた。
太一は怯えたようにヤマトから手を引こうとする。
「何をだよ」
太一は悲鳴のような声を上げた。
「怪我のことだよ」
「ほとんど治ってるだろ」
「そうじゃない」
ヤマトはあくまでも穏やかな声で続けた。
「お前の夢のことだ。プロ、目指してたんだろ」
太一は聞きたくないと言うように首を振った。
「ヤマト、それはもういいんだ……」
「――俺のせいでお前の夢を壊してしまった」
ヤマトはほとんどうめくように言った。
太一は泣き出しそうな顔になった。
「お前がどうこうって問題じゃない。これはもう済んだことだろ」
「まだ済んでない」
ヤマトは自分こそ泣き出しそうな顔になった。けれど、止めるわけにはいかない。
今ここで、話しておきたい。もう、二度と後悔をしないために。
「俺をかばったから、お前は……」
「ヤマト、この話はやめよう」
太一はヤマトをさえぎろうとした。
「誰のせいでもないよ。あれは事故なんだからな」
「太一」
「やめやめ! なあ、リンゴ剥いてくれよ、ウサギの形にな」
ヤマトは太一をつかむ力を強くした。
「俺はお前の側にいる」
「……バカ言うなよ」
太一は怯えたような目でヤマトを見つめた。
「本気だ」
「フランスに行くんだろ? 歴史の勉強するんだろ? やりたいって言ってた……夢だって言ってたじゃないか」
ヤマトは怖いくらいに目を光らせて、言い切った。
「太一よりも大事な夢なんて無い」
「ヤマト……」
太一は青ざめて、同じく青い顔をしているヤマトを見つめた。
「怪我とかそんなの抜きにしても、そうなんだ。お前が手術室から出てきて、目が覚めるまで悪い夢見てる気分だった……。目の前でお前がいなくなるなんてことになるなら、俺もそこで死んだ方がいい」
ヤマトは太一を抱き寄せた。太一は顔を歪めたがヤマトに逆らわず、その腕に抱きしめられた。
「頼むよ、太一。側にいさせてくれ」
「ヤマト……」
太一は苦しげにつぶやいた。
「俺は――」
ヤマトの肩が震えている。
太一の声にならない声はヤマトには届かなかった。
ヤマトの意志は固かった。 両親にもはっきりと渡仏の件はもうないことにしてくれと告げ、弟も含め家族を混乱させた。
とまどいはもちろんヤマトの両親だけでなく、教師や友人たちにも広がっていく。
空からヤマトのことを聞かれ、太一はちょっと固い笑顔を浮かべた。
「しょうがねえな、あいつ。びびってんだろ」
「……今は家族が説得してるっていうけど」
ヤマトの学力、語学力共にあちらへの進学はほぼ安心できるだろうということだった。あちらには親戚もいることだし、話はもう本決まりだったのだ。
「太一、何も聞いてないの」
ためらいがちに空は聞いてみた。
「ちょっとは聞いたけど」
太一は空がはっとするほどの強い光を目に浮かべた。
「――俺からもう一回話してみるよ」
「太一……」
「変な顔するなよ、空。なんとかなるだろ」
「そうじゃなくて……太一、いいの?」
「何が?」
逆に空に聞き返した太一の目は、悲しいくらいに澄んでいた。
「――ううん、仲がいいのに離れていいのかなって……」
空は曖昧にごまかした。ヤマトが留学を断念しようとする理由はなんとはなしに、察している。それはヤマトの両親も、教師も、太一とヤマト共通の友人たちも同じだろう。
そして、ヤマトを説得できるのが太一だけだということも、彼らは知っていた。
「大丈夫だろ」
太一は肩をすくめて、廊下をゆっくり歩きだした。
「今なら教室にいるかな」
足を引きずる独特の足音が遠くなっていく。空は不安げに眉を寄せて、太一を見送った。
西日が射し込む教室で太一はヤマトと向き直った。
退院から二週間ほど経っている。その間太一はヤマトに連絡をしなかったし、会おうともしなかった。
ヤマトもときに優しく、ときに叱りつけてくる教師や両親との言い争いに忙しかったから、それに構う余裕もなかった。
以前ならケンカしているとき以外は毎日のように顔を合わせ、連絡を取っていた二人だったが、そんなことにはまったく――少なくともヤマトは気がつかなかった。
「もうすごい噂だぜ」
太一は椅子に座って、まずそう切り出した。
ヤマトは太一が何のために来たのか、もう分かっているようだ。
「校長まで出てきたんだって? お前意外に期待されてるんだな」
「太一」
ヤマトはため息をついた。
「言いたいことは分かってる」
ヤマトはグラウンドで練習しているサッカー部の部員たちを見下ろしながら言った。
太一は微笑した。
「じゃあ行けよ、フランス」
ヤマトは首を振った。
「いかないってもう決めたんだ。後はみんなを説得するだけだ」
「説得なんてされるかよ」
「してみせる」
「――夢を諦めるってことか」
ヤマトはもう一度静かに首を振った。
「違う。俺自身のためだ……太一の側にいたい」
太一は目を伏せた。机に彫られた文字が見える。
オオタハサシバ――一瞬なんだろうと考え、すぐに思い当たった。オオタは差し歯ということだろう。場違いなほど馬鹿馬鹿しい言葉だったが、笑おうとしても、笑みはうかばなかった。
「……なあ、考え直せよ」
ヤマトは黙ったままだった。
「ヤマトらしくねえよ。あんなに――」
太一の言葉をヤマトは遮った。
「太一、夢を諦める訳じゃない。こっちの大学でだって、歴史は勉強できる。場所が違うだけで、なにも変わらない」
「……でも、変わる」
太一はぽつりとつぶやいた。
「変わるぜ、ヤマト」
何が変わるのかヤマトは聞かなかった。太一も何が変わるのか言わなかった。
ピーッと笛の音が校舎にこだましていく。部活動終了の合図らしい。
太一は顔を上げた。ヤマトの目は静かだった。固い意志が目の表面を覆って、やけに冷たく見える。
「行けよ」
「行かない」
太一は黙って、またうつむいた。机の落書きが目に入る。
(もうお終い!)
テストに苦しんだ生徒の殴り書きだろう。太一は指で文字をこすった。
鉛筆で書かれているせいかすぐに黒いものが横に広がったが、それでも文字は消えなかった。
もうお終い――太一は目を閉じて、その通りだと思った。
何かが壊れていく。そんな予感がした。
(もうお終い)
夕日がひときわ赤くなった。照らされたヤマトの顔が見えなくなるくらいにその光は赤かった。
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