STAND BY ME
6



 太一が目を覚ましたとき、光子郎は机に向かい、パソコンを打つかたわら本を広げていた。
 部屋の明かりは消えており、机の明かりとパソコンの画面だけがぼんやりと明るい。
 首を回して、時計を見ると時刻は一時ちょうどだった。
「光子郎……」
 自分でもぎょっとするほどのかすれた声だった。
 飲み過ぎだなと思い、頭を振る。
「太一さん」
 光子郎が椅子を回して、こちらを向いた。太一は床に寝ており、光子郎は明かりを背にしているので表情がわからない。
「悪い、水くれないか」
 太一はこめかみを押さえて、小さい声で言った。
「はい」
 用意していた水は温くなっている。光子郎は立って、キッチンから水と氷をコップに入れて、太一に差し出した。
「ありがとう」
 太一は大きなコップをほとんど一息で飲み干して、ほっとしたように息を吐いた。
「ごめん、俺、世話かけたな」
 太一は敷かれている布団を見て、すまなそうな顔になった。
「家の方には連絡してますから、今日は泊まっていって下さい」
「悪い」
 光子郎はいいえと笑って、ふたたび机に向かう。
 太一は氷を口の中に入れると、目顔で何しているんだ? と光子郎に聞いてきた。
「教授からのメールです。論文の確認をして頂いたので、また見直ししているんですよ」
 画面を埋める英字に太一は、酒のせいだけではない頭痛を感じた。
「太一さん、そこに薬がありますから」
 机の横に置いてある、薬の包みを取ると光子郎は太一に渡した。
「飲むと朝、違うそうですよ。父さんもよく飲んでますから」
「苦そうだな」
 包みから漂う臭いと、奇妙な黄色に太一は顔をしかめた。
「水、持ってきましょうか」
「自分で行く」
 太一はそうっとドアを開けると、キッチンで水と薬を飲んで、光子郎の部屋に戻ってきた。
 気のせいではなく、唇が歪んでいる。予想通り薬は苦いものだった。
 滑らかにキーを叩く光子郎の背中に太一は声をかけた。
「まだ寝ないのか」
「もうちょっとしたら寝ます」
 一度ためらい、それでも太一はまた訊いた。
「――話しかけたら、俺邪魔か?」
「いいえ」
 光子郎は振り返り、ほほえんで見せた。
 太一は光子郎の横に立ち、しばらくはおとなしく画面を見ていたが、やがてぽつりとつぶやいた。
「光子郎、ごめんな」
 低い声だった。
「俺、たまにセーブが効かなくなるんだ。なんかワインを一本頼んだ辺りまでは覚えてるんだけど……」
 ワインを頼んだ後、冷酒を三杯飲んで、水割りも頼んでいた。その辺りではまだ言葉もしっかりしていたので、これは大丈夫かなと光子郎は思ってしまったのだ。
「本当にごめん。俺のおごりだとか言っといて……あとで金返す」
「いいですよ」
「光子郎、怒ってるだろう」
「いいえ」
「お前、怒ったとき俺の顔見ない」
「……太一さん」
 画面から太一に視線を移す。叱られた子供みたいな顔だった。
「怒ってませんよ」
「本当か」
 光子郎は笑って見せた。今の太一を見て、怒れるのはヒカリくらいだろう。
「本当ですよ」
 太一は黙ってそのまま光子郎を見つめていた。
 頭が重たい。視界に靄がかかっている気がした。
「太一さん――」
 どうして光子郎が自分を呼ぶときはこんなに優しい声と目になるのだろう。
(まるで――みたいだ)
 光子郎の顔が近づいてきたときも、キーボードの上にあった手が腰に回されたときも、太一は光子郎の目とその中の自分を見つめていた。
 子供みたいに情けない顔をしている自分――目を閉じたのが光子郎の唇が触れてきたせいなのか、それともそんな自分を見たくなかったからなのか太一にはまったく分からなかった。
「好きです、太一さん」
 光子郎の告白をほとんど夢うつつの状態で太一は聞いていた。
 光子郎が太一の前髪をかき上げる。額に唇が押し当てられたとき、太一は目が潤むのが分かった。
「光子郎」
 そのまま涙をこぼしたいくらいに光子郎の腕は温かかった。
 ぎこちなく抱き合ったまま、太一と光子郎はお互いのぬくもりを感じていた。

 その夜のことはどちらもよくは覚えていない。静かに抱き合ったまま、どれだけの時間が過ぎたのだろう。
 何度かキスを交わし合った後、崩れるようにして太一と光子郎は床に転がった。
 太一の体が自分の腕の中でずっと震えているのだけが、光子郎の胸に刻み込まれた。光子郎がささやくたびに、太一は涙をこぼしていた。
 目を閉じた太一が誰を思い出していたのか――光子郎はただ強く太一を抱きしめるしかできなかった。

 二日酔いに悩まされたのはどうやら太一ではなく、光子郎のようだった。
 窓からの日光と鳥の鳴き声とに微かに眉を寄せて、光子郎は寝返りを打った。
「……?」
 はっと起きあがる。途端にものすごい頭痛が襲ってきて、光子郎は頭を押さえた。
「痛い……」
 頭のなかで鐘がいくつも鳴っているような気がする。
「光子郎、起きたの」
 母がノックしてドアを開ける。頭を押さえる息子におかしそうな目を向ける。
「あら、二日酔い? 薬持ってくるわね」
「お願いします……」
 うめくような声で返事して、光子郎は布団にもう一度倒れ込んだ。
 夜中のことはすべて夢かと思ったが、太一が寝ていた場所はまだ温かかった。
「はい、お水とお薬」
 母が差し出すコップと薬を受け取って、光子郎はおとなしく飲み込む。
 「太一君、さっき帰っちゃたのよ。朝御飯一緒にって言ったんだけど、用があるからって」
 コップを受け取って、母は笑った。
「光子郎は朝御飯はまだ無理みたいね。もう少し寝てた方がいいわ」
 声を出すと痛むので、光子郎は黙ってうなずいた。
 母が部屋から出ていってしまうと、光子郎は枕に顔をうずめた。
 チャリンと音がして、光子郎が枕の下に手をやると、昨日払った分よりも多いくらいの金が差し込まれている。
 紙幣とは違う紙の感触があったので、それを引っぱり出すと太一の筆跡で、金返す、悪かったと、やや乱暴に走り書きしてあった。
 何が悪かったなのか、光子郎はちょっと悩んだが――。
「情けないですね……」
 ともかくこのすさまじい頭痛が収まるまでは動けない。
 光子郎は目を閉じて、太一にあったら何を話そうかと考えていた。

 まだ八時過ぎだというのに、すでに日差しは眩しく暑い。
 日陰を選んで、ベンチに腰掛けると太一はポケットを探りタバコを取り出した。
 火を点けたところで、急に顔をしかめる。
「……」
 黙って太一はタバコを吸わないまま、脇の灰皿に押しつけ火を消した。
 そのまま空を見上げる。今日もいい天気になりそうだ。
(光子郎)
 泊めてくれたお礼も言わずに家を出てきてしまった。
 太一は目を閉じて、唇に触れてみた。声や眼差しと同じように光子郎の口づけは優しいものだった。
 好きだと何度もささやかれ、口づけられ、それに太一が小さく抗うと何も言わず抱きしめてくれた。
(光子郎)
 太一は左胸の上をつかむようにして、大きく息を吐いた。
(どうして――)
 あんなに優しいのだろう。
 自分のことが好きだからなのか? 太一は首を振った。
 光子郎も酔っていたのだと思う……思いたかった。あの優しさが自分だけに向けられるなんてうぬぼれたくはなかった。
 心臓が早くなる。
 あの頃はうぬぼれていた。彼の目が、優しさが自分だけに向けられるものなのだと、それを当たり前だと思っていたのだ。
 与えられるばかりで、その大きさと深さに気が付いたとき、太一は怖くなった。優しさを受け止めることができなくなった。
(俺も……)
 優しくしたかった。傷つけたくないと思っていたのに、思いきり傷つけてそのままだ。
(……)
 心の奥底で彼の名を呼んで、太一は手で顔を覆った。
(どうしようもねえな、俺)
 忘れようとした。忘れたかった。できると信じていたのだ。無理だと分かるのに、それほど時間はかからなかったけれど。
 そう、寝ていても夢に見た。歩いているとヤマトがその角から出てきそうな気がした。電話が鳴るたびにヤマトからかと思い、そんなはずはないのだと自分を諫めた。
(別れたはずなのに)
 太一はつぶやいた。
(俺から言ったはずなのに)
 バカだなと笑おうとした唇が歪んだ。太一はそのまま、立ち上がることもなくセミの鳴き声の中で一人座っていた。

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