STAND BY ME
5



 太一がかすかに体を動かしたので光子郎は、はっと追憶から現在へと戻ってきた。
 いつの間にか部屋の空気は冷え切っていて、光子郎はあわてて風力を弱め、温度を上げた。
 太一はまだ眠っている。 その寝顔はもう安らかなもので、光子郎は太一の側にしゃがこんだ。
「太一さん」
 いまは穏やかな寝息を立てる太一が、自分やヤマトが側にいない間にどんな時間を過ごしていたか、考えただけで悔やまれてくる。
 太一を好きだというのなら、なんとしてでも側にいるべきではなかったのか。
「太一さん」
 ほとんど衝動的に太一に唇を重ねる。少しだけ乾いた唇の感触が光子郎の吐息で湿っていく。
 太一の唇はほんの少しだけ苦かった。
 童話のようにこの口づけで太一が目覚めたのなら、自分を愛してくれるだろうか。
 感傷的な気分で光子郎は生ぬるい麦茶を飲んだ。

 一時半を少し回った頃に、太一はようやく目を覚ました。
「あ?」
 ちょっと寝ぼけたように頭を掻いて、自分のすぐ側に座り、本を読んでいる光子郎に気づく。
「光子郎」
「目、覚めましたか」
 光子郎はちょっと笑った。
「ああ……留守番役が寝てるなんて意味無いなあ」
 太一は身を起こして、ぐっと伸びをする。
「どこ行ってたんだ?」
 太一の言葉に光子郎は本を閉じる。
「ちょっと友だちに会ってたんですよ」
「そうか」
 太一はあくびして、光子郎の持つ本に目をやった。
「何読んでるんだ?」
 光子郎が言うより先に、題名を読んで、太一は気まずそうな顔になった。
「説明しなくていい。たぶんわかんないから」
「そうでもないですけど」
 光子郎がぱらぱらとめくったページに数式がいくつも並んでいる。
 太一は苦笑して、本から視線を外した。
「俺が読んだらまた寝ちまうな」
 光子郎は本を置くと、時計を見上げる。
「お腹すきませんか?」
「もう昼か……。なんか食いに行くか?」
「何か作りますよ。そうめんか何かあるでしょう」
 光子郎はキッチンの戸棚を開け閉めして、昼食用に何かないかと探し始める。
「ありました」
 そうめんの入った木箱を取り出して、光子郎は鍋に水を張る。
「いくつくらいかな」
 太一は麺の束をつかんで、数える。
「さあ……五束くらいでしょうか?」
「ま、いいか」
 適当に麺を光子郎に渡して、太一は新聞を取り上げる。
「何もやってないな」
 テレビ欄をざっと眺めて太一はつまらなそうな声を上げる。
「後で、ビデオでも借りに行きますか」
「そうだな」
「太一さん、夜までいますよね?」
「ああ」
 光子郎の家にいるのは太一の家族も了解している。
「夕飯はどうします? 今日は父と母が一緒に食事に行くそうなので、出前でもとりますか」
「あ、じゃあ飲みに行こうぜ」
 太一は鍋の蓋を用心して開けると、沸騰しているのを確かめそうめんを入れる。
「お前、飲めるよな?」
「そこそこですね」
 太一は顔をほころばせた。
「いつか、光子郎と飲みに行こうと思ってたんだ。俺のおごりな」
「割り勘でいいですよ」
「たまには先輩面させろって」
 箸で鍋をぐるぐる混ぜながら、太一は笑った。

 夜、光子郎が連れていかれたのは、小さな居酒屋だった。会社帰りのサラリーマンも多いが学生風の客も多い。
 どちらかと言えば若者向けの居酒屋らしく、値段は安く量はたっぷり、味もなかなかといったところらしい。
 馴染みらしく、太一の顔を見た店員は親しみのこもった明るい声をかけてくる。
「ちょっとだけバイトしてたんだよ」
 太一は光子郎にささやいて、一番奥のカウンター席に座った。
「生二つ」
 あとは焼き鳥をそれぞれ串二本ずつと刺身、唐揚げを頼んで、先に来たビールで乾杯だ。
「帰国おめでとう」
「何がですか」
 太一がジョッキを上げて言った言葉に光子郎は苦笑した。帰国して三週間も経っているのに、今更おめでとうもない。
 ビールを飲んで、唇の泡をぺろりと舐めると、太一は突き出しの枝豆に手を伸ばす。
「乾杯だから、何かお祝いした方がいいかなと思ったんだよ」
 太一は木のテーブルにひじをついた。
 いつもの翳りのようなものは今日はなく、心の底から楽しそうだった。
「いつごろ、向こうに戻るんだっけ?」
「八月十日です」
 光子郎はためらいがちに告げた。
「そっか……」
 太一はちょっとため息をついた。
「まあ、まだ先のことだしな」
 太一は気を取り直して、運ばれてきた焼き鳥を一本取った。
「でも、光子郎と飲んでるなんて不思議な話だな」
「どうしてですか」
 炙られた鳥皮を食べて、光子郎は笑った。
「二十歳過ぎているんですから、飲めますよ」
「そうじゃなくて」
 太一は光子郎の方を向いて微笑した。
「俺、小学校の頃からお前のこと知ってるんだぜ? そいつが大きくなって、留学して帰ってきて一緒に酒飲んでるなんてなあ」
「僕だって、太一さんとお酒飲むようになるなんて想像もつきませんでしたよ」
 がやがやと店は騒がしくなった。やって来た団体客が座敷に上がっていく。
「もう顔赤いぞ、光子郎」
 太一が笑った。
「やっぱり弱いんじゃないのか? お前、弱そうだもんな」
 言って、太一は残りのビールを飲み干して、おかわりを頼む。
 光子郎も負けじと、一気に残り半分を飲んでしまった。
「無理すんなよ」
 太一は光子郎の分を追加してやってから、背中を軽く叩いた。

「――太一さん、大丈夫ですか」
 どうみても完璧に酔っぱらっている太一の腕に手を置いて、光子郎は顔をのぞき込んだ。
「らいじょうぶ」
 ろれつがまわっていない。なにしろ飲んだ酒の量と種類が多かった。
 ビールにカクテル、チューハイにワイン、日本酒、呆れるくらいに太一は飲んでばかりでだった。おまけに、食べるよりも飲んでばかりだったから、酔いの回りも早いようだ。
 光子郎はグラスの中のワインを飲んでしまうと、立ち上がった。
「勘定すませてきますから、ちょっと待っててください」
 太一はぼんやりとうなずいた。目の焦点が合っていない。これは、まずいなと光子郎はレジで支払いをすませると、脇に置いてある電話の受話器を取り上げた。
 太一の家の番号を押す。
 それほど待たずとも、すぐに明るい声の少女が電話口に出た。
「はい、八神です」
「ヒカリさんですか? 夜分、遅くすみません。泉ですけど」
「光子郎さん」
 ヒカリの声が和んだ。
「今、二人で飲んでたんですが太一さん、ちょっと飲み過ぎたみたいで……」
「お兄ちゃんが?」
 ヒカリははっとしたように声を高くした。
「酔っぱらっているんですか?」
「ええ。タクシーを呼びますので、ちょっと遅くなりますけど――」
「光子郎さん」
「はい?」
「今日はお兄ちゃんを光子郎さんの家に泊めてあげて下さい」
「ええっ?」
 意外なヒカリの言葉に光子郎も声を上げた。
「ダメですか?」
「そういう訳では……」
 ヒカリは少し寂しそうな声になった。
「お兄ちゃん、最近はお酒を飲んでも絶対酔わなかったんですよ」
「?」
「私やお父さん、お母さんの前では絶対酔ったとこなんて見せないんです。心に思ってることを喋りそうで怖いからじゃないかって丈さんが言ってましたけど」
 ヒカリはふっとため息をついた。
「お兄ちゃん、たぶん光子郎さんに甘えてるんですよ」
 受話器の向こうで光子郎がとまどう様子が伝わってくる。ちょっとほろ苦い気持ちでヒカリは笑った。
「酒癖は悪くないと思うから、お兄ちゃん、よろしくお願いしますね」
 光子郎が何かいう間もなく、ヒカリは電話を切ってしまった。光子郎は受話器を置いて、奥にいる太一をちらりと眺めた。
 テーブルに沈みかけている。光子郎は静かに太一の側まで近づくと、太一をゆさぶった。
「太一さん、こんなとこで寝ちゃダメですよ」
「……うん」
「タクシー呼びますから、僕の家に行きましょう」
 太一を経たせて、支えると光子郎は心配そうな店員にタクシーを手配してもらった。
「――すぐに来るそうですから」
 タクシーを呼んでくれた髪の毛の茶色い店員が心配そうに太一を見つめた。
「八神さん、こんなになるまで飲んだのなんて久しぶりなんですよ」
 店の入り口近くに置いてある箱に太一を座らせた光子郎に向かって、店員は言った。
「前もあったんですか?」
「だいぶ前に一回だけですけどね。あんときもお客さんみたいに、背の高いメガネの兄ちゃんがタクシー呼んでましたよ」
 丈のことだと光子郎は気づいた。
「だいたい一人で飲みに来る人なんで、やっぱり連れがいたら安心しちゃうんでしょうね」
 店員は光子郎に笑いかけた。
「今日は楽しそうでしたね」
「久しぶりに会ったんですよ」
「そうだったんですか――あ、タクシー、来ましたよ」
 店員が道の向こうを指す。停車したタクシーに太一を入れるのを手伝ってくれた店員に頭を下げると光子郎は、運転手に家の住所を告げて、シートに背をもたれかけさせた。
 繁華街の明かりが尾を引きながら、窓の外を通り過ぎていく。
 もたれかかる太一のぬくもりを感じつつ、光子郎は太一の投げ出された手を握らずにはいられなかった。

「あらあら」
 ドアを開けて、姿を見せた息子に光子郎の母はほほえんだ。
 太一がよりかかるようにして光子郎の肩に顔をのせている。
「お母さん、すみませんけど、太一さんを今日は家に泊めますので」
「ええ」
 玄関の履き物をさっと片づけて母がうなずいた。
「お布団、用意しなくちゃね」
「僕の部屋にお願いします」
 太一を支えて、部屋まで運ぶと光子郎は母と父が運んできた布団を敷いて、太一を寝かせた。
「お水も置いておくわね。目が覚めたら喉が乾くと思うから」
「ありがとうございます」
 ついでに酔い冷ましの薬も置いて、母は部屋を出ていった。
 光子郎は太一を運んだ自分の手と太一を見比べた。
 太一が痩せたからなのか、それとも自分の力が強くなったのか、どちらにしろ光子郎が支えた太一の体は軽かった。
(痩せてますよね……絶対)
 空港で会ったときも思ったが、触れてみて分かった。
 膝をついて、太一の顔を見つめる。
 手を伸ばして、ゆっくり指先で頬の線を辿っていく。酔いのせいか肌は熱かった。
 唇に指が辿り着いた。呼吸が指先に感じられる。ほとんど吸い込まれるようにして、光子郎は太一に唇を重ねていた。
 昼間にしたキスと違うのは、触れあっている時間の長さと口づけの深さだった。
 太一の眉が息苦しさに寄せられる。表情に気づいて、光子郎は唇を離した。
「太一さん」
 光子郎は太一の手を握った。
「どうしたらいいんですか。あなたのことばかり、僕は考えている」


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