STAND BY ME
25



 どこをどう行ったのか、まったく分からなかった。
 気がつけばタクシーに乗っており、時間に関係なく混雑する道路を走っていた。行く先を告げたのかどうかも太一は覚えていない。
 赤信号で車は停止し、動き、また止まる。のろのろとしか進まない車内には前の客が吸ったのか、タバコの匂いがこもっており、妙にきついその香りは太一の喉を刺した。
 窓を開けても排気ガスのすすけた空気しか入ってこない。ほんの少し前までは吸おうとしていたタバコの香りに、太一は苛立った。向かい側の車線がそれほど混んではいないように見えるのも、また腹立たしい。
 ただ座って、じっとしていることに耐えられず、太一は何度も手を組み替え、そのたびに右手に痛みを感じた。まるで手から胸に痛みが流れ込んでくるようだ。
 その仕草はほとんど無意識だった。太一は目を閉じると、右手を頬に押し当てた。
 この手で彼の頬を殴った――この手でヤマトに触れた。だがその手の温もりはヤマトのものではなく、太一のものだ。そのむなしい仕草に気づき、太一は息を吐くと手を離した。
 自分はどこに向かっているのだろうか。浮かんだ答えにまた目を閉じた。
 向かう先は一つきりしかない。
 行って欲しくないのだろうかと思い、首を振った。
 どこへでも行ってしまえばいい。
 そうつぶやいたときに、胸を引き裂かれたような気がした。
 二度と会わない、会いたくもないと思っている。それなのに、どうして自分はそこへ向かっているのだろう。ただ、胸が重い。
 そんなとき突然、耳に入ってきた声に太一は顔を上げた。
 運転手が前方を指さして何か言っている。
 今までにうつむいていただけに、前を行く車の数の多さは太一を愕然とさせた。
 さきほどから車はほとんど動いていない。そしてそんな車の列は果てしなく続いているように見えた。間に割り込み、先へ進んで行くバイクがまるで車を馬鹿にしているかのように思える。
 切れ切れに、渋滞、事故と言う運転手の声が耳へ入ってきた。動かない車の列――クラクションが幾重にも重なってビルの間に消えていく。
 運転手が交通情報を聞こうとラジオのスイッチを捻ったとき、太一は財布から紙幣を取り出していた。
 渋滞でも、事故でもどちらでも同じことだ。しばらくはこのまま止まっているということに変わりはない。
 そして時間だけが過ぎていってしまうのだ。
「お客さん」
 運転手のとまどった声を背に、ドアを開ける。
 排気ガスがタバコの匂い以上にきつく、むっとした空気を作っていた。エンジン熱と日光に焼けた車の表面の熱で、道路はひたすら熱い。
 足下からの熱気にも構わず道路を横切って、歩道へ向かう。
 ここはどこだろう。そして空港まではどのくらいかかるのか。
 辺りを見まわす。ビルの名前、通りの名前を読んで、走り始めた。角を折れ、交差点を渡り、真っ直ぐ走る。
 どれだけの数の人とぶつかったか、太一には分からなかった。いつのまにか、腕に薄い切り傷が出来ている。汗がしみてひりひり痛むその傷に気づいたのは、どこかの狭い道で立ち止まったときだった。
 建物の壁に手をついて、崩れそうな膝を支えた。タクシーから降りて、一度も休まずに走り続けたせいで、呼吸すら危うい。
 胸を押さえ、呼吸の仕方を思い出す。息を吐き、空気を吸い込むという動作がこんなに苦しいとは思わなかった。
 荒い息を吐いて、見下ろした地面には何粒もの汗がしたたり落ちて、小さな染みをつくっている。拭っても拭っても浮かんでくる汗もそのままに、太一はくらくらして仕方ない頭をはっきりさせようと首を振った。
 駅はどこにあるのだろう。走るよりはきっと電車の方が早い。でも駅が見当たらない。
 バスでもいい。空港へ行けたのなら、もうなんでもいい。ふたたび歩き出しかけ、太一は膝をつきそうになった。
 足が動かない。動いてくれない。
 頭の中ではもう歩き出しているというのに、太一の心に反し、足は動かなかった。いや、本当は歩きたくないのかもしれない。
 歩き出し、走り始め、ヤマトの前に立ってどうするのだろう。彼の前に立って――どうしたらいいのだ。
 ヤマトの前に立って、何を言えばいいのだろう。行かないで欲しいとすがるつもりなのだろうか。
 太一は首を振った。振るたびに汗がこぼれ、涙もいくらか混じった。
 汗も涙も同じだ。両方塩辛いだけ。だから同じだ。ヤマトが行っても、行かなくても同じだ。
 もうどうだっていい。あんな奴のことなど、どうでもいい。三年間、一人だった。それでもやっていけた。今更、彼のぬくもりを欲しがるわけなどない。
 だったら、なぜ――自分はこんなに必死になっているのだろう。
 ついに耐えきれず、太一はしゃがみ込んだ。アスファルトが熱い。こぼした汗も涙もすぐに乾いていく。
 飛行機の時間も知らなかった。来なくてもいいとヤマトは言った。
 そしてヤマトは行ってしまう。
 行けばいい、行かないで欲しい。どちらが自分の本当の心なのか、まったく分からない。
 ――見上げた空はそんな太一を嘲笑うように青く、どこまでも澄み切っていた。
 いつかこの先、ふとした折りにヤマトもやはり空を見上げるだろう。
 そのときは、その隣に太一の知らない誰かを連れ、太一だけしか知らなかったヤマトの顔をヤマトは見せるだろう。日差しに目を細め、振り返り、その誰かの名を呼ぶのだ。
 それが当たり前だ。いつかはそうなるのだ。今までそうならなかった方が不思議なくらい――いいや、もういるのかもしれない。
 日本ではなくフランスに、その誰かが。その誰かはヤマトを空港で引き留めたのだろうか。日本へは戻らないで欲しいと。それとも待っているからと言ったのかもしれない。ヤマトが帰ってくるのを待っていると。
 だから、行ってしまうのかもしれない。とりとめようのない想いが後から後からこぼれてきた。
 選んだのは太一の方だ。ヤマトがいない未来を選び、自ら離れていった。ヤマトが自分の道を歩き、その隣りに見知らぬ誰かが立つのを、どうして太一が拒めるのだろう。
 涙を流すのも忘れ、太一は道路に膝をついたまま空を見上げていた。
 どのくらいしゃがみこんだままだったのか。喉がからからに乾いていて、目がひりひりする。
 いつまでここにこうしているつもりなのか。それとも勇気があったら、立ち上がれるだろうか。そうすれば走って、ヤマトの前に立って、彼の目を見つめることができるだろうか。
 思うだけなら、何でもできる。だが、今の太一にできるのは、ここにしゃがんで空を見上げることだけだ。
 逃げ続けた先は、今いるこの道のように袋小路だった。
 行き止まり――この先には進めない。進めず、立ち止まるばかりだ。
 立ち止まって、先を行くヤマトの、光子郎の背中を見つめている。彼らが追い越したのではなく、太一が立ち止まり、自分から歩くのを止めたのだ。
 太一は右足に目を移した。目を凝らしてみれば、傷跡に沿うように薄く盛り上がった肉がある。膝から足首にかけてはもう目立たないが、太腿の傷はまだ白く引きつったようになっているはずだ。
 それらを見た瞬間、ヤマトの顔を思い出し、太一は傷から目を逸らした。
 ――この足がサッカー選手という夢を追えなくなったと聞かされたとき、すべての感情が突き抜けていった。
 今のように茫漠とした心の中で、父親の言葉を頭で何度も繰り返し、うなずいた。
 そうか、そうなのか。そうなってしまったのか。それ以外に何を思えただろう。悲しみも恨みも憎しみも絶望も、すべて突き抜けて、そこに白い空白を見た。
 ――そうか、そうなってしまったのか。
 わざとのように足を動かしてみたこともあった。まだ歩けるはずもないのに、起き上がり、ベッドの柵に掴まって、ボールを蹴るようにしてみようとした。
 右足は、しばらく筋肉を使っていなかったせいか、ちっとも言うことを聞かず、グラウンドの上を走ってボールを受け止め、蹴っていた今までの足とは、全く違うことを太一に知らしめただけだ。
 どこかの傷口が開いたのか包帯に血が滲んだとき、太一は諦めてベッドに横になった。
 ああ、もうダメなのだ――父の言葉でもなく、医師の診断からでもなく、少し赤くなった包帯を見て太一はそう思った。
 もうダメなのだとそこでやっと理解できた。包帯に落ちた涙はすぐに乾いて、それきり太一は泣かなかった。
 ……決してわざと明るく振る舞っていたわけではない。そうすることがなぜか一番楽だった。両親やヒカリの笑顔を見れば、ほっとした。
 一番見たかった笑顔の主は、いつも微かに目を潤ませて太一を見つめてきたけれど、太一のばかばかしい一言に、少しでも笑ってくれるとき、太一の中で何かがゆっくりほぐれていく気がした。
 傷も再手術の際に、傷跡が一生残るだろうと言われたが、気にも留めなかった。今更、足に傷が残るくらい何だというのだろう。その残酷さに気づくのはずっと後だったから、そのときは何も気にしなかったのだ。
 ――未来が見えないということは、未来を信じられるということなのかもしれない。
 こんな足の傷で自分とヤマトの未来が変わってしまうとは思わなかったのだ。
 何も怖くなかった。
 歩けなくなるかもしれないということも、サッカーが二度とできないということになっても、一度受け入れた結果を何度も恐れることはしなかった。それを言うのならあの瞬間でさえも、何も恐ろしいとは思わなかったのだから。
 迫るトラックのライト、ヤマトの微笑、この二つが同時に目に入った。それだけで充分だった。
 たとえヤマトと別れるという結末になっても、ヤマトをこの世から失うという結末にならないのなら、足どころかすべての体、意識、命さえも惜しくなかったのだ。
 ――あれは勇気だったのだろうか?
 いや、違う。そんな英雄的な行為ではない。ただの事故だ。ただの偶然、自分の不注意から起こった事故だった。
 太一は足の傷を辿った。目を閉じたまま、あのころの自分の心を辿るようにゆっくりと、震える手で傷口に触れた。
 この傷を鎖だと思ったのは、いつだったのだろう。太一の心をヤマトに縛りつける傷は、ヤマトを太一に縛りつける傷でもあった。
 刻印のように胸に刻み込まれた言葉がある。
(太一よりも大事な夢なんて無い)
 ――嬉しかった。どんなにか嬉しかっただろう。
 ヤマトはきっともう自分以外構わなくなる。自分だけを見ていてくれる。
 女性にも目を向けないで、太一ただ一人だけを見つめてくれる。ヤマトを独占できる。どれだけ望んだことだろう。怪我をしたことを喜びさえもしたのだ。
 激しい後悔と悲しみを浮かべ、太一を見つめてきたヤマト。太一が笑うたびに、それにつられてヤマトが浮かべた微笑は哀しげなものをたたえ、その手は太一に触れることを恐れるようにいつも震えていた。
 そんな態度をとらせ、あのような言葉を言わせるほどに、彼を追いつめていたのは自分だったというのに、どうして気がつかなかったのだろう。
 彼は優しかった。いつも、どんなときもヤマトは優しかった。想いの上にあぐらをかいていたのは太一だった。
 そのまま、ヤマトの夢を、彼の未来を、結果として太一は奪おうとしていた。それは激しい思いこみにすぎないのだと、留学を止めることはヤマトが望んだことなのだと、そう考えたときもある。
 そう思い続ければ、ヤマトは永遠に太一の側にいるだろう。去っていくヤマトを見送ることだけはしたくなかった。
 知り合って何年になるのだろう。ずっと側にいた。ヤマトの隣には太一がいて、太一の隣にはヤマトがいた。これからも、そうなのだと信じていた。
 もし、ヤマトがあのまま太一の側にいてくれたとしても、きっといつか気がついてしまう。太一に縛りつけられてしまうことに、太一に負い目を抱いたからこそ彼の側にいたのだということに。
 そして、それに気がついてもヤマトは側にいる。それが彼の望んだこと――いや、太一がそうさせたことだったのだから。
 そこからは今までのような関係ではなくなってしまう。後悔と悲しみと諦めで結ばれた絆は、いつか壊れてしまうだろう。馴れ合いのように一緒にいても、いつか破綻してしまう。
 今までしてきたじゃれ合うような可愛いものではなく、お互いを罵って、傷つけ合うだけの喧嘩をするようになるかもしれない。
 お前のせいで、お前がいたから、お前なんか――そんな言葉ばかりをぶつけ合って、恨んでも憎んでも足りないくらいに、傷つけ合って、心は離れていく。 いつかヤマトは離れていく。
 太一には止めようがない。この傷は太一のもの、太一の鎖だからだ。そしてヤマトは新しい誰かを見つける。それが怖かった。見送るくらいなら、自分から背を向けた方がよかった。
 ヤマトが他の誰かを選ぶ時を迎えるなら、自分から背を向けた方がよかった。どうしてこんな道しか選べなかったのだろう。
 あのころの太一にはこれが真実だった。その道以外何も見えなかった。見ようとしなかった。
 自分の心に気づくことも、ヤマトに背を向けられるのも――ヤマトの目から恋が消えていくことも、何もかもが怖かった。
 それらは想像に過ぎないかもしれない。けれど、やって来る近い未来に太一には思えたのだ。
 そして、こんな想像だけで、これほど臆病になれるとも思わなかった。
 気がつかなければ良かったのだ。ずるくもなれないかわりに、強くもなれなかった。
 息を止め、胸を押さえて太一は首を振った。何度も振った。
 誰でもいい。助けてほしい。こんな心や想いから抜け出させてくれたのなら、何を捧げてもよかった。
 あまりに深く胸に巣くうこの思いから逃れるためなら、命すら惜しくなかった。いっそ、三年前にこの世から消えていれば良かったのかもしれない。
 そうすれば、こんな思いをせずには済んだ。そうすれば、誰も傷つけることはなかった。
 ――父を呼び、母を呼んだ。ヒカリを、タケルを大輔を、丈を。彼らの名をつぶやき、空の名を、ミミの名を呼んだ。
 誰も来るわけがなく、差し伸べられる手があるわけもなかった。
 涙と汗で頬がべたつき、埃のせいで黒くなる。後から流した涙が乾いて頬が引きつったようだ。
 いつの間にか、うわごとのように彼の名を呼んでいた。
「光子郎――」
 こんなときにまで、彼にすがろうとしている。あまりに都合の良すぎる自分の考えに、足に触れた手に力がこもった。
 傷つける一歩手前、血が滲むその前に、光子郎からのメールを思い出した。
 ――自分の紋章を覚えていますか?
 太一の手から力が抜けた。今ほどそれを欲したことはなかった。
 失ったのは、他でもない。自分の心から目を逸らしたからだ。嫉妬や独占欲、恨みや憎しみ、絶望、何もかもが混ざり合い、重くのしかかかって、どうすればいいのか分からなくなった。
 今も、分からない。
 ヤマトのことを憎んでいるのか、それとも――ヤマトの名を呼びたいのか。
 汗は冷えていく。心はまだ狂ったように二つに引き裂かれそうだ。
 ここで動けないまま、じっとしていれば、こんな激しい感情の嵐はいつかは行き過ぎるかもしれない。いっとき、やりすごせばまた一人で歩き出せるのかもしれない。
 ふと不思議な違和感を覚え、太一はつぶやいた。
「一人?」
 突然のように疑問が浮かび上がった。
 ――どうして一人だと言えるのだろう。今、自分は誰の名を呼んできた?
 父や母、ヒカリやタケル、大輔。丈に空、ミミ、そして――光子郎。
 彼らだけではない。もっと大勢の人々の名を呼べる。そうしようと思えばヤマトの名も。これで、どうして一人だと言えるのだろう。どうしてそう思ってきたのだろうか。
 もう一度の傷を辿った。指先に残る柔らかい違和感が傷跡だ。
 この傷を少しでも見る度に、ヤマトの顔を思い浮かた。傷はヤマトを思い出させ、その心を知るように痛んだのだ。
 心因性の痛み――一応、完治はしているのだから、疲労以外で痛む理由はそれしかないと、医師から教えられた。
 傷跡のことを気にしているのなら、修正手術を受けることもできると言われたが、太一は断った。傷は消えても、ヤマトは消えない。そして、もしヤマトのことを思って痛むのなら、きっと一生痛むはずだ。結局、傷は残り、そこにヤマトの面影も刻み込まれた。
 だから傷跡をじっくり見たことはなかった。 今、初めて見るような気がする。
 息を殺し、太一は自分の傷跡を、今も疼く傷跡を見つめた。膝から足首にかけての傷が少し浮き上がって見える。ギザギザになっている部分。確かそこはトラックの荷台か何かに引っかかったのだ。骨が飛びだしていた部分は歪んだ円に見えなくもない。縫い目の後が今も確認できる部分もある。肉が盛り上がって、なんだか滑稽な形に見えるところもあった。すべての傷が繋がっているわけではない。それでも大きな傷だった。
 太一のすべてを変えた傷。まるで、自分の心のように醜く引きつっている。
 目を逸らしかけ、太一は再度傷を見つめ直した。その思いが浮かんだのは一瞬だった。それでも、何かが太一の中で生まれた。
 決して消えはしない。一生、残っている。けれど、もう治っているのだ。
  歩ける。走れる。無理は出来ないけれど、歩けるのだ。足は痛むけれど、歩ける。
 一生残る傷跡。だが、これはただの傷跡だ。醜い傷かもしれないけれど、これは太一の体にある傷、太一の一部なのだ。
 膝には自転車に乗っていて転んだときの傷もあった。こんな傷ならいくつも残っている。傷を見れば思い出せた。
 サッカーの練習中に、友人との喧嘩中に――もっと単純なことでついた傷もある。ヤマトと取っ組み合いをしてついた傷もある。
 幼い頃は怪我をしてばかりだった。成長してからも、生傷は耐えなかった。それは走り回っていたから――生きていたから、傷ばかり負っていた。
 ただ、右足の傷は、その中でも一番大きい傷だ。
 だから――? 太一は傷跡を見つめることを止めた。
 顔を上げる。赤いスプレーで落書きされた壁が目に入った。血にも似た毒々しい赤い色は壁一面に広がっている。この先は行き止まりだ。先には進めない。立ち止まるか、来た道を戻ることしかできない。
 戻れるだろうか。ひやりと冷たい怯えが走る。
 これ以上、流されないように、うつむかないように拳を握った。確かに一番大きい傷だ。だから、何だというのだ。こんな傷など関係ない。
 さきほどまでの混乱が嘘のように、意識が澄んできた。
 事故のせいで何もかも失ったのではない。傷に縛りつけられた自分が、自ら手放していったのだ。いつまで傷に、過去に縛りつけられているつもりなのだろう。
 傷は男の勲章。どこで読んだか、誰のセリフだったか――そんな言葉が浮かんだ。慰めにしてはくさい言葉だ。
 この傷を誇りに思うつもりはない。けれど憎むつもりもなかった。自虐に浸るのも、ここでうずくまっているのも止めだ。
 太一は身を起こした。
 驚くほど体は軽く、あっさりと立ち上がれた。
 長い時間しゃがんでいたせいで、足は痺れていたが、歩けないほどではない。
 足を慣らして空を見上げた。
 空は何も変わらずただ青い。この空の下にヤマトがいる。まだ、いるのかもしれない。もう一度、幸せだった時間を取り戻せるなどとは思わなかった。
 まだ胸も傷も疼く。光子郎を、ヤマトを傷つけたという事実は消えたわけではない。父を苦しませ、母を悲しませ、ヒカリを泣かせた。友人たちを悩ませた。その中にあって、絶望もした。恨みもした。憎みもした。
 それらは自分自身に対してでもあり、世界すべてに対する理不尽な怒りでもあった。それでもヤマトがいた。彼がいてくれた。
 空の青さが目に染みていく。
 そばにいるから。そんな言葉を口にしなくても、ヤマトはいつもそこにいた。
 自分は決して一人ではなかった。目を逸らしていたのは太一の方だ。いつでもそこに道はあったのだ。
 見ようとはしなかったが、確かにそこに道はあった。
 もう一度歩き出せるだろうか。ヤマトの前に立てるだろうか。
 壁の落書きを見つめる目に光子郎からのメールが浮かび上がった。
 ――自分の紋章を覚えていますか?
 覚えているよ。太一はつぶやいた。
 取り戻せたとは思わない。だが、忘れてもいない。
 無茶苦茶に落書きがなされた壁に背を向けた。一歩、足を踏み出す。通りはすぐそこだ。
 もう行ってしまっているのかもしれない。たとえ、間に合ったとしても彼に何を言えばよいのだろう。足が少し痛んだ。だが、歩くのを止めはしない。
 何を言うのかだと? ――そんなこと簡単だ。ヤマトの前に立ってから考えればいい。立って、彼の取り澄ました頬に一発、拳を見舞ってその後から考えればいい。
 二歩目、たった一歩の距離を進んだだけなのに、通りのざわめきがはっきり聞こえてきた。
 足が痛んでも、太一はもう止まらなかった。
 目を逸らすことをやめたのだから、立ち止まるわけにはいかない。この先に何があっても、立ち止まるよりは前へ進む方がいい。
 真っ直ぐに、目を逸らさず、太一は通りへ出た。拳を固く握りしめてはいたが、その拳はもう震えてはいなかった。


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