日々は太一の中でぼんやりと過ぎていった。
夏の暑さも、日差しもどこか遠く感じられ、気がつけばお盆を過ぎ、三十日までは一週間もないくらいになっている。
カレンダーで日付を確かめた後、太一は部屋に戻った。
薄く埃をかぶっているパソコンに手を置いて、太一はふっと息を吹きかけた。舞い上がった埃が空気に浮かび上がる。
眉をしかめた光子郎の顔も同時に浮かんだ。この顔は、彼が家へ遊びに来たときの表情だ。
(――掃除してるんですか?)
いいや、していない。家に来た光子郎に掃除してもらってから、もう何日経ったのだろう。八月に入ってからは、掃除どころか電源も付けていない。
無意識に手を伸ばして、電源スイッチを押す。立ち上げても、しばらくは何もしないで画面を見ていた。
明るくなったモニターに光子郎の声を思い出す。
(だいたい太一さんは面倒くさがりやなんです)
いいや、普通だ。しょっちゅう機械の調子を気にする光子郎みたいな方が少ないはずだ。
マウスを動かした。ポインタの動きが少し鈍い。そう言えばマウスは掃除していなかった。今度来たときにやるからと言い残して光子郎は帰っていったのだ。
結局、それは果たされず、太一のマウスの動きは鈍いままだ。ろくに扱いもせず、埃がたまっていくだけ――。
光子郎は指先で払った埃を見てため息をついていた。
(もっと使わないとかわいそうです)
びくびくしながら使う自分の方がもっとかわいそうだと言い返すと、光子郎は呆れたような顔をした。
(メールは送れるんでしょう?)
当たり前だ。光子郎にも何回か送ったというのに、忘れていたのだろうか。
(……少なすぎです)
内容と回数を思いだしたのか、不満そうな横顔になった。
けれどキーを打つ手は光子郎のようにはいかない。ほんの少しのメールを打つだけでも、時間がかかる。
光子郎に教えられながら、久しぶりにキーを打つ練習をした。
キーを打つのが早くなれば、メールにもいろいろなことが書ける。
ほんの些細なことでも、メールで教えてくれと光子郎は太一の横で言った。
カチリとマウスをクリックする。
(僕もメールしますから、太一さんも――)
しばらくメールをチェックしていなかったため、何通もの未開封のメッセージがある。
見慣れたアドレスからも一通届いていた。
メールの日付は八月十日。差出人は光子郎。
思うよりも先に、メールを開いていた。
何度も繰り返し読んだ。画面に指紋が付くのも構わずに、指先でなぞった。
視界がぼやける。もうそれは昔の話だ。ずっと昔の話だ。
涙が落ちて、また視界に白っぽい画面と文字が浮かび上がった。
太一さんへ、で始まるメールは光子郎の名で終わっている。
その間には一文しか入っていない。短い一文だった。すぐに暗記できるくらい、単純で簡単な文だ。
――自分の紋章を覚えていますか?
覚えているよ。太一はつぶやいた。 忘れることができたのなら、あるいは楽になれただろうか。
目をこすり、電源を切った。静かな部屋がよりいっそう静かになる。
パソコンから離れ、窓の側に立った。
夜になれば冷たい風が吹くのに、昼間の日差しはまだまだ厳しい。ふと違和感を覚え、すぐに気づいた。セミの鳴き声が少なくなっている。
夏も終わりに近いのだ。夏休みはもうすぐ終わる。
何が変わったのか、何も変わらなかったのか、太一は遠くで揺れるどこかの家の洗濯物を眺めていた。
自分の紋章、それは勇気。いくつもの冒険と困難の中でいつも共にあるものだと思っていた。失ったのはいつからだったのだろう。
太一は財布を持つと、外へ出た。
並木の下や建物の影を歩く。日差しはまだ厳しかった。どこかの公園から子供の声が聞こえてくる。こんなに暑いというのに、その声はどこまでも明るかった。
少し歩けば自販機が見えてくる。
今まで吸っていたタバコはそんなにめずらしいものではない。どこにでもあるような銘柄だ。だが、自販機の前まで来て太一は目を伏せた。
財布の中で小銭が不満そうな音を立てる。
赤い文字がボタンの中で光っていた――売り切れだ。
あきらめて帰ろうとし、財布をとりだした。
他のタバコだっていいはずだ。今はどんな味でも苦いだろうから。
百円硬貨の冷たい感触を手のひらに感じつつ、二枚押し込んだ。
十円玉を入れ、一枚足りないので五十円玉を入れた。
パッと自販機のボタンが赤くなる。適当なボタンを押しかけた太一の手が止まった。
ためらうようにぶれた指先を見て、太一は苛立った。たかだかタバコを買うくらいで、何を迷っているのだろうか。
別に一箱すべてを吸うわけではない。たった一本、ほんの少し煙を吐きたいだけだ。
そうすれば頭がすっきりするような気がする。
光子郎の言葉を忘れたわけではない。 ただせめて、今だけ、一本だけ、タバコを吸うことで気を紛らわしたかった。
ヤマトも光子郎もいない間に覚えたタバコだったら、吸っている間は彼らのことを思い出さずにいられる。
逃げていることは分かっている。逃げ続けても先がないことも知っている。だが、すでに勇気をなくしている自分だから、どこまでも逃げていたい。
何かを振り切るようにして、ボタンに触れる。
「お兄ちゃん――!」
「ヒカリ?」
太一は指を引っ込めて、振り返った。
ヒカリが駆けてくる。後ろからタケルと大輔も、太一を目指して走っていた。
ヒカリはあんなサンダルを履いたままで、よく走れるなと太一はふと思った。大輔やタケルもだ。ともに脚力が必要なサッカーとバスケットをやっているというのに、あのヒカリにも追いつけない走りっぷりは――。
妹の顔がはっきりしてくる。
「お兄ちゃん」
汗を流し、顔を真っ赤にしたヒカリは乱れた息を整えることもなかった。
太一の前に立つと、その腕をつかんだ。
「ヤマトさんが――」
太一は腕を引こうとしたが、ヒカリは兄の腕を離さなかった。
汗が冷えたせいか太一の腕は冷たかった。熱いヒカリの手とは対照的だ。
無意識に力を込めながらヒカリは言った。
「行っちゃうんだって!」
「知ってる」
ヒカリは首を振った。新しく買ったワンピースが汚れている。
転んだのかもしれない。白い生地だから余計に目立っていた。
「違う、三十日じゃない。今日、行っちゃうんだって」
太一はヒカリの顔をのぞき込んだ。
どうしてヒカリがこんな顔をするんだろう。 おいてけぼりにされたような、不安と恐怖に歪んだ顔だ。
自販機から甲高い音が響く。自動的に硬貨が返却されたのだ。
(ダメってことか)
太一の口元に淡い微笑が浮かぶ。だが、それもすぐに消えた。
「お兄ちゃん!」
ヒカリに揺さぶられた。揺れた視界にまたも泣き出しそうな顔が映った。
「太一さん……」
ようやくヒカリに追いついたタケルが汗を拭った。大輔は荒い息を続けている。かなり走ったのだろうか。二人ともヒカリ以上に顔が真っ赤だ。とくに大輔はしばらく口も聞けないくらいに、呼吸が乱れていた。
「タケル、大輔」
久しぶりに会う気がする。ヒカリとその後ろのタケル、大輔を太一は見つめた。
「太一さん、お兄ちゃんが――」
太一は何をバカなことを、と言いかけた。こちらを見つめてくるタケルの眼差しはあまりにもヤマトに酷似していた。
ヤマトに見つめられているような錯覚が太一を襲う。
(お前、ここにいるじゃないか)
混乱は一瞬だけだった。違う、彼はヤマトではない。
タケル――ヤマトの弟だ。太一は大輔へ目を移した。
「太一さん、ヤマトさんが、どっかの爺さんと一緒に空港に――」
大輔の泣き出しそうな顔はよく見ている。
試合に負けたとき、タケルと喧嘩したとき、涙をこぼす一歩手前でこらえているその表情を見てきた。
どうしてヤマトのことで大輔がそんな顔をするのだ。タケルやヒカリは大輔の側にいるではないか。 タケルが大輔を一人にしないように、大輔もタケルを一人にしないのだから、大輔が泣かなくてもいい。ヤマトのことでなんか泣かなくてもいい。
「お兄ちゃん」
「ヒカリ……」
なんて情けない顔だろう。
ヒカリの顔ではなく、ヒカリの目に映った自分の表情に太一は息を呑んだ。
不安に、恐怖に引きつって、泣き出しそうな顔をしている。出てきた声は自分のものとは思えないほど、かすれていた。
「だって、三十日って俺は聞いた……」
まだ一週間もあるはずだ。それなのにヤマトは行ってしまうのだ。
「だけど、空港の方に大きな荷物持って行ってたの、俺見たんです」
タケルも見たよな――大輔の言葉にタケルはゆっくりうなずいた。
タケルの目が震えているのを見て、太一はヒカリの手から腕を引き抜き、目を閉じた。
嘘だったのか。行ってしまうのか。
右手に触れる。そこは火傷をしたときのようにひりひりと熱い。
「太一さん」
タケルの声に首を振る。
彼は大輔に殴られたことがあるのだろうか。そしてタケルを殴ったのなら大輔の拳も痛んだのだろうか。
――右手が痛い。あんな腰の抜けた拳、避けられたはずなのにヤマトはそうしなかった。あの目のまま、太一を見つめ、黙って受け止めた。
そんなやつだ。いつだってカッコをつける。いつだって偉そうなことを言う。いつだってすぐ泣く。
いつだって、いつだって――もう思うこともできなかった。
「お兄ちゃん」
ヒカリの声に目を開ける。瞼を閉じていたせいか光は眩しく、太一の目を刺した。
「太一さん」
大輔の声が滲みかけた。
ヤマトの紋章を受け継いだからだろうか。
もう昔の話だというのに意外なほど涙もろいところは、いまだにヤマトに似ている。よくぶつかり合っていたのに変な話だ。
何を見ても、聞いても、ヤマトの名とその面影が浮かんできた。
ヤマト、ヤマト、ヤマト――声にも出せない、心の奥がヤマトの名を呼ぶ。行ってしまう彼だというのに、いつまで彼の面影を追うつもりなのだ。
痛んで仕方ない右手を拳に変えた。 もういい。行ってしまうというのなら、それもいい。
ヒカリをそっと横へ押しのけた。
「お兄ちゃん?」
行けばいい、どこへでも。 それならば言葉も想いも何もかも捨てて、自分も行ってやる。
大輔の顔から目を離し、太一は遠くを見つめた。
ずっとこの先にヤマトがいる。行こうとしている。
背を向けたのは自分の方からだ。そして今度はヤマトが背を向けた。
それだけだ。
――それだけだというのに、どうしてこれほどに胸が騒ぐのだろう。
哀しみなのか、憎しみなのか、それとも愛おしさなのか――何も分からないまま、太一は大輔とタケルの間をゆっくり通り抜けた。
ポケットを探る。体温で温くなった革の財布しか入っていない。
車のキーは玄関の靴箱の上だ。
「太一さん――」
タケルの声だろうか、それとも大輔の。
ヒカリの手が伸びた。 引き留めたいのか、それともその背を押したかったのか。
ヒカリの指先は太一のシャツの裾を滑っただけだった。
汗の代わりに涙を少しこぼし、太一は走り出していた。
タケルも大輔も、そしてヒカリでさえも追いつけないほど早く、太一の背中は遠くなっていった。
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