STAND BY ME
23



 また少し太一は痩せた。加えて、ぼんやりしていることが多くなり、右手を左手で包むようにして握りしめるという妙な癖を見せる。
 細くなった頬の線に気づき、また先日、街中で倒れたこともあったせいで、母は太一に精を付けさせようと、知り合いから料理雑誌を山ほど借りきた。 そのレシピを参考に食の進みそうな食事を作っているが、太一の皿の料理は一向に減る気配はない。
 部屋へ籠もっているわけではないが、心ここにあらずというように、ただぼんやりとしている。
 家族がそろう夕食の席でもそうだった。
 今夜は残業だという父をのぞき、三人で夕食を摂っていたが、太一はしばらくすると、ごちそうさまと箸を置いた。
「太一、もういいの」
「ああ」
 太一は立ち上がった。
「全然食べてないじゃない」
 母の目は太一の皿と椀に注がれている。
 ほとんど箸の付けられていないレバーの香り揚げと、ただつついただけの小魚を使ったさっぱりしたサラダ。椀の中の吸い物も白飯も減らずに、冷めただけのようだ。
 食卓に座っても太一の箸の進みは母やヒカリよりもずっと遅く、そして誰よりも早く箸を置くのだ。
「ごめん、母さん」
 すまなそうに謝り、太一は部屋へ戻っていった。
 一人欠けた食卓は急に静かになる。
 ヒカリはそっと香り揚げを箸につまみ、母にほほえみかけた。
「これ、すっごくおいしいのに。お兄ちゃん、もったいないね」
 母が小さく微笑して、それからそっと目を伏せる。
「……何があったか、ヒカリは知らない?」
 父にも母にも話さないことも、ひょっとしたら妹には――ヒカリは小さく首を振った。
「ごめんなさい……」
「いいのよ。まったく太一ったら幾つになっても仕方ないわね」
 母は気を取り直したように太一の皿を片づけ始めた。
 ――あの雨の日の翌朝、体中に痣と傷をこしらえて帰ってきた太一は父と母に謝り、友人の家にいたのだと告げた。
 誰の家にいたのだと父が聞くと、太一は疲れ切ったように一言、「石田」とだけつぶやいた。聞き覚えのある名だと父と母は顔を見合わせ、それからじっと太一の顔を見つめた。
 二人の心中を察したのか、太一はつけ加えた。
(あいつとケンカしたんじゃない。ケガは変なやつにからまれたせいだよ)
 それだけ言うと、今度こそ太一は黙り込み、それ以上は話さなかった。
 何を言うにもすでに成人した息子……それでも息子はいつまでも息子だ。
 ため息を聞かせまいとする母の背と、兄の部屋のドアを見比べて、ヒカリはどうしようもないやるせなさを感じた。

 母と二人だけの夕食を終えて、後かたづけも済ませてしまうと、ヒカリは風呂に入った。
 入浴後、髪も乾かさずにキッチンでジュースを飲んでいると、ベランダにちらりと人影があるのが見えた。
 母はヒカリに続いて風呂に入っている。まだ出てこないだろうということを確認して、ヒカリはベランダの戸を開けた。
 ベランダ用の堅めのスリッパを履き、柵にもたれかかる太一の隣りに立つ。
 隣から漂う石鹸の香りと、まだつやつや光る洗い髪を見て、太一は顔を傾けた。
「……湯冷めするぞ」
 下から吹き上げる風は確かに冷たいものだった。
 ヒカリは部屋に戻る代わりに、太一に少し近づいた。
「ここ、涼しいね」
「そうだな」
 うなずいた太一の左指の間に一本、タバコが挟まれている。吸うわけでもなく手でもてあそんでいたようだった。
「久しぶりだね」
「何がだ?」
 風が吹くたびにタバコの中身がこぼれていった。
 太一とヒカリの足下に、茶色い中身がこぼれた。明日、洗濯物を干す母に叱られるだろう。
「――タバコ。吸わないの?」
「ああ……」
 初めて気づいたように太一は握っていたタバコを見た。
 手の温みで表面は少し湿っている。中身もかなりこぼれていた。
「もう吸えないな」
「新しいの、持ってこようか」
 答えはなく、太一はまたぼんやりと下を見下ろしていた。
 外の明かりが目に反射して、太一は泣いているようにも見える。
 それは錯覚に過ぎないはずだが、ヒカリは目を伏せた。
「――ねえ、お兄ちゃん」
「ん?」
「行かなかったの?」
「どこにだ?」
「アメリカ」
 太一はタバコを握りつぶした。
「ああ、そうだな」
「私――」
 ヒカリは兄の方を見た。太一がこちらを向いたときのために少し笑う。
「おみやげ、いっぱい買ってきてもらうつもりだったのに」
「何だよ、それ」
 太一がヒカリのように少し笑った。
「光子郎さん、今度はいつ帰ってくるのかな」
「……さあ」
 太一が目を伏せた。くしゃくしゃになった手の中のタバコを見つめている。
「なあ、ヒカリ」
「なに?」
「俺、禁煙してるんだ」
 太一はタバコをベランダ越しに投げ捨ててしまった。
「そうなんだ」
 ……知っている。誰のためにタバコを止め、誰のためにそれを続けているのかも、知っていた。だが、その人はもう太一の隣にはいない。
 光子郎の名に太一が目を伏せることに気づいたときには、もう彼は日本にはいなかった。
 今、日本にいるのは誰なのか、それも言えずヒカリは手すりをつかむ手に力をこめた。
 タケルからそれを聞いたのは、最近のことだ。
 太一は知っているのだろうか。そして、もし知らないとすれば、このことを伝えるべきなのだろうか。ヤマトの帰国の件は言えなかった。
 光子郎と太一の別離は自分の沈黙のせいだとヒカリは思い、うつむいた。
 今もお兄ちゃんと呼べば、振り向いて笑ってくれる。けれどそれは幼い頃から見知っている笑顔でなく、静かな笑み。三年間見続けてきた、決して見慣れることがない笑みだった。
 ――自分には何もできない。ヒカリが生まれたときから太一は側にいてくれたのに、自分は何も出来ず、兄を困らせ、苦しめてばかりいる。
 そんな気がした。
 夜景が霞まないうちに、ヒカリは太一から離れた。風がまた冷たくなったようだ。
「ヒカリ、寒いのか」
 太一はヒカリに近づいて、鳥肌立った肌に目を留める。
「部屋に戻るか」
「お兄ちゃん」
「どうした?」
 太一はヒカリの背を押して、部屋に入ろうとガラス戸を開けようとしたところだった。
「私、黙ってたの」
 何をだ、とは太一は聞かなかった。
「そうか」
 すっかり冷えたヒカリの肩に手を置く。
「いいから、部屋に入るぞ」
 ヒカリは目をこすった。
「ヤマトさんが帰ってたこと、黙ってたの」
 ごめんなさい、の後に、ヒカリはまた目をこすった。それでも何粒かが頬を落ちていった。
 太一の手が肩から離れ、温もりがなくなる。しかし、それも一瞬のことで、すぐに太一はタバコの匂いの付いていない方の手で、ヒカリの頭を軽く撫でた。
「なんでヒカリが謝るんだよ」
「だって――」
 太一は微笑した。
「言いにくかったと思うしな。しょうがないだろ」
 そのまま、しばらく風に吹かれていた。
 太一はヒカリの乾きかけた髪をくしゃくしゃにしながら、ヒカリは目を何度も乱暴にこすりながら、冷たい風に二人で吹かれていた。
 母が風呂から上がったらしく、リビングで影が動いた。気づかれる前に、太一がガラス戸を開ける。
「太一、そこにいたの」
 驚いたような母の声が聞こえた。
「部屋の中、暑いんだよ」
「そう? お風呂に入ったら、さっぱりするわよ」
「ああ」
 太一が部屋に入ろうとしたとき、ヒカリはその袖を引っ張った。
「ヒカリ?」
「三十日――」
 太一の肩が揺れた。
 ヒカリの手から力が抜ける。
「……まだ先だよな」
「うん――」
 自分に言い聞かせるような太一の声だった。
「太一、どうしたの?」
 母が近づいて、ベランダのヒカリの姿を認める。
「ヒカリもいたの。早く入りなさい、風邪引くわよ」
 太一に続いて部屋に入りながら、ヒカリは兄の視線を辿った。
 壁に掛けられたカレンダー、八月の終わりの一日前――太一は30の数字を見ていた。
 ベランダで景色を見つめていたときと同じように、その目はどこか遠くにあった。
 近づいてくる三十日を見ているのだとヒカリは思い、小さく身震いした。翌日の三十一日が来るなどとは信じられない。
 太一が浴室へ行ってしまうと、ヒカリはカレンダーの「30」の数字に指先を押し当てた。
 この日が消えてしまわないかと、そうできたらと思った。
 数字は消えもかすれもせず、30の数字はヒカリの体温のせいで生暖かくなっただけだった。


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