STAND BY ME
22



 太一の唇から抑えられない長い吐息が洩れた。強張った頬の線がちらりと見える。
 からからの口を舌で湿して、ヤマトは太一の手をつかんだ手に少しだけ力を込めた。
「……聞いてくれ」
 うなだれていた太一はゆっくり顔を上げる。うなじから汗の玉がこぼれて、太一のシャツの襟に染みを作った。
 だが、ヤマトの方を振り向きはしない。問い返しもせず、ただ正面を向いている。
「何だよ」
 太一の声はかすれており、喉の奥から絞り出すようなその声は静かで、ただ苦しげだった。
 胸を痛ませながら、ヤマトは続けた。
「空港に来て欲しいんだ」
 太一の背中は緩やかに動いている。
「来てくれるだけでいい。それでいいんだ」
 太一はそっと自分の方へ手を引き寄せた。
 するりとヤマトの指の間から、太一の手首が離れていく。
「俺は行かない」
 歩き出しかけ、すぐにヤマトの声に足を止めた。
「来てくれ」
「……行ってどうなるんだ」
 セミの声がうるさい。何種類ものセミの声が入り交じっている。
 太一はどのセミの鳴き声が大きいかを考えることで、心を落ち着かせようとした。気を逸らして、ヤマトの言葉をぼんやり聞き流していれば、また歩き出せるだろうと思った。
 それなのにヤマトの声は、はっきりと聞こえ、足は動かなくなった。
「日本にはしばらく帰ってこない――」
 ヤマトの手が触れていなかったことに太一は感謝した。
 もうこんな弱いところを見せたくない。震えが全身に広がらないよう、太一は拳をきつく握った。
「……それが理由か。今までも帰ってこなかっただろ」
「十年はあっちにいることになるんだ」
「いいじゃねえか」
 そうだ、何を動揺するというのか。今までと同じだ。何も変わらないだけだ。
 ヤマトは日本にいない。遠い外国で生活している。ずっとそうだった。これからもそうなるだけだ。ただ、それだけだ……。
 心に浮かんできた言葉を、そのまま口にした。
「――そのまま、ずっと向こうで暮らせよ。お前がいなくても、別に何も変わらないだろ。好きなだけ向こうにいろよ」
「……ああ」
 太一はヤマトのうなずきに唇をかみしめた。どう答えて欲しかったのか分からない。
 一台車が通り過ぎていった。そのエンジン音に紛れ込ませ、太一はつぶやいた。
「もう決めてるくせに、何でそんなこと言うんだよ」
 自分が行けば、フランス行きを止めるとでも言いたいのか。
 太一はその言葉を飲み込み、ヤマトからようやく一歩離れることができた。
 しかしヤマトは太一から目を離さなかった。追いすがろうとし、代わりにもう一度言った。
「来てくれ、それだけでいいんだ」
「どうして――」
 またも言いかけた言葉を飲み込み、太一はポケットに手を突っ込んだ。
 拳の震えが止まらない。早くヤマトから遠ざかりたい。そうすれば、また元通りの毎日が返ってくる。
 ヤマトのいない、ただ過ぎていくだけの毎日だ。それでもいい。そこではこんな思いをしなくてもいいからだ。
「行かないからな」
「太一」
 何か言いかけたヤマトをさえぎって、口早に言う。
「行ってどうするって言うんだよ? もう俺とお前は何の関係もないはずだろ。それとも、この間の雨のことで何か期待してるのか?」
 嘲笑おうとした。どれだけみっともない、むなしいことを口にしているか分かったが、ヤマトを振り切るにはこれだけしか方法が見つからなかった。
 こう言えば、きっとヤマトは黙り込む。黙って、そのまま太一を見送るだろう。つけ込むずるさに嫌悪するより、今はもうヤマトの前から去りたい。
「太一……」
 足を踏み出した。足の痛みがもう少し小さなものだったら走り出すのに、普通に歩くだけで今は精一杯だ。
 肩に温かい感触が走る。
 振り向かされたのか、それとも振り返ったのか。
 どちらにしろ、太一はヤマトの目を見てしまったことを後悔した。もうこんな目は光子郎のまなざしだけで充分だった。
 そんな目で見つめてられる資格を自分は持っていないというのに、なぜそんな目を向けてくるのだ。
 風がヤマトの髪を揺らし、頬や額に張り付く。
 以前よりも髪が伸びていた。目にかかるくらいの前髪がうっとうしそうに揺れている。こんなとき手を伸ばして、髪を梳いてやったことは数え切れないほどあった。あるいはその逆も。
 この三年間に、彼の髪を梳いた者はいるのだろうか。そんな考えが浮かび、太一は目線を下に落とした。一歩、後ずさってヤマトの手から逃れる。
 ヤマトは静かに手を下ろした。
「三十日にあっちに戻る」
「そうか」
「太一」
 ヤマトの目の前で太一の髪が揺れる。
 涼やかな風でなく熱風が吹き抜けて、二人の肌をべたつかせた。
「空港に……来なくてもいい」
 さきほどとは正反対の言葉を聞いて、太一は半ば苛立ち、半ば呆れながら、唇を噛んだ。
 来てくれ、そう言ったのはたった今のことだ。そして今度は、来なくてもいい、だ。
 こんな馬鹿馬鹿しいことをどんな顔をして言っているのか。もはや、やけくそにも近い気持ちで太一は顔を上げた。
「お前――」
 ……これでは、まるきりのバカじゃないか。
 ヤマトではなく、自分がだ。
 ヤマトはただ静かに太一を見つめていた。その眼差しは悲しくも見える。震えているようにも見える。
 だが決して弱くも、もろくもない。強い意志、思いに殉ずる決意を込め、ヤマトは太一を見つめていた。
 このヤマトの眼差しから、目を逸らすことはできなかった。目を逸らしても、ヤマトは太一を見つめてくるだろう。
 どれだけの想いが込められているか、計り知れないほどにヤマトの眼差しは深かった。
「これだけ、言いたかったんだ……」
 ヤマトの唇が動き、言葉を紡ぐ。
 それは長くも、短くもなかった。静かなヤマトの声にふさわしい話だった。
 ――しかし最後の言葉を聞いた瞬間、太一は拳を固めた。
 殴ろうかと思い、事実そうした。
 そして、どうしようもなく涙がこぼれそうになった。
「莫迦だろ、お前」
 黙って拳を受けたヤマトに、あんなことを話したヤマトに向けて、太一は言った。
「莫迦だよ、お前」
 繰り返しつぶやいて、太一は首を振った。
「自分がどこに行くと思ってるんだよ」
 ヤマトを殴った拳が痛む。足の痛みがかすむくらいに、じりじりと熱い痛みを感じた。
 右手を左手で包んで、太一は背を向けた。今度こそヤマトは追ってこないだろう。太一に殴られたからでも、罵られたからでもない。
 彼はすべてを伝えたからだ。
 歩きながら、ヤマトが早く去ってくれたらいいと願った。だがヤマトの車のエンジン音はいつまでも聞こえず、それなのに辺りはうるさかった。
 この音はセミの鳴き声ではない。自分の心臓の音だ。走ってなどいないのに、どうしてこんなに胸が早くなるのだろう。
 汗とは違う流れが頬を伝う。
 それが乾かないのは、蒸し暑い湿ったようなこの空気のせいだ。それ以外に、どんな理由があるというのだ。
 家へ戻り、太一は唇を噛んだ。
 莫迦だ。本当に莫迦だ。
 言われたままの言葉をそのまま受け止めて、どういう意味だよと聞き返したかった。
 あの目を見なければ、そう言ってやっていた。
 鍵も閉めず、太一は玄関口にうずくまった。冷たいコンクリートの感触を両腕と肘に感じ、目を閉じた。
 そばにいるから――ヤマトはそう言った。
 そばにいるから。
 フランスへ戻るというのに、そして十年は帰ってこないというのに。
「莫迦だ」
 低くつぶやいて、太一は笑おうとした。
 行けばいい。勝手に、どこへでも好きな場所へ。
 ヤマトを殴った右手を額に当て、太一は肩を震わせた。
 そばにいるから。
 もう何の関係もないというのに。友人ですらないというのに。
 太一の唇から微かな声が漏れだした。
 ――誰も帰ってこない。家の中は静かで、太一の嗚咽だけが響いていた。


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