車のスピードを落とすことも出来ず、あっという間にマンションはヤマトの目に大きく、ますます高く映っていった。そろそろ、太一の住む棟が見え出したところで、太一はようやく口を開いた。
「ここでいい」
まだ距離はあったが、太一はドアに手をかけた。
「もう少し行く」
「車は入れないぜ」
太一の言うとおり、車よけが上げられている。諦めてヤマトは車を路側帯に寄せ、ハザードランプを点けた。ウィンカーの光るカチカチという音が、やけに間抜けに聞こえる。
太一がドアを開けた。
「……じゃあな」
足を降ろすとき、太一は思わずというように膝を押さえた。その眉が寄り、汗が一筋頬を流れるのを見て、ヤマトはシートベルトを外し、外へ出ようとした。
それに気づき、太一は痛みをこらえ、車外へ出てしまった。
「大丈夫だ」
背を向けたまま、小さく言った。
「一人で歩ける」
並木に留まったセミの鳴き声にかき消されそうな太一の声だったが、ヤマトにははっきりと聞こえた。
ヤマトの手も、心もすべてを拒むように聞こえた太一の言葉に、ヤマトはドアに掛けた手をそのままハンドルへと戻した。
ドアが閉まり、太一は歩き出す。今は近くに見える背中も小さくなり、やがて見えなくなるだろう。
ほとんど無意識に、ギアを変え、ヤマトは車を出そうとした。だが、足に力が入らず、エンジンは不満そうな唸りを上げるばかりだ。
太一にさよならと言っていなかったなと気づき、そんなことが果たして自分に言えただろうかと顔を覆った。
行ってしまう。手の届かない場所へ、少しずつ歩いていってしまう。
どうすればいいのか、まったく分からなかった。空港で何を言おうとしたのかも分からない。追いかけてどうしたかったのか、何を伝えたかったかのか――空港での自分の想いを見失い、ヤマトは太一の背中を見つめた。
迫りあがってきたものを堪えるように、ハンドルを握る手に力をこめる。
太一は目を合わせてはくれなかった。
振り向いたときに見えたのは、汚らわしいものでもみたかのような厭わしげな視線だ。
女々しく追いすがる自分にふさわしい視線だと自嘲しかけ、ヤマトはラジオから流れ出した歌に手を震わせた。
――懐かしいと言うほど聞き込んでいた歌ではない。この歌を聴いたのはたった一度、それも他のことに夢中になりながら聞いた歌だ。
それでも思い出した。
この曲を聴きながら太一に口づけた。互いの体の温かさにほほえみ合い、夜更けまで何度も思い出話を繰り返し、抱き合って眠った。
今までで一番長く、最後になった喧嘩をする前の話だ。それから二日後に喧嘩をして、その一週間後には太一はヤマトのベッドではなく、病院のベッドに横たわっていた。
記憶をなぞれば、すぐに思い出せる。
いつものように泊まりに来た太一。白いシャツに夕食の時、ソースをこぼした。自分の服を貸してやって、二人で出かけた。ビデオショップで二人で借りたビデオ。ヤマトが選んだビデオに太一は古くさいと文句をつけた。帰り道の街の明かりに浮かんだ太一の不満そうな横顔、どうやってなだめたのか――。
さんざん文句を言ったくせに、映画が始まればヤマトよりも夢中になって太一は見入っていた。
一夏の冒険と、そこに描かれた甘いノスタルジー。映画が終わったとき、太一は目をこすっていた。何を思い出したのかは聞かなかった。泣きたくなったのは自分も同じで、それをごまかそうと太一を引き寄せて、唇を重ねたのだ。
胸の上に置かれていた太一の手の重みが甦ってくる。それは二人で眠るときの太一の癖だ。あるいは無意識に体を寄せてきたときの熱いくらいの体の熱。冬でも夏でも、どんなときでも隣には太一の温もりがあった。
いつも温かいその体が冷えたのは二回――あの雨の夜と、事故直後の夜だ。
溢れてきた記憶に、ヤマトは深く重い息を吐いた。それでも耐えきれず、目を閉じた。
悪夢のようなその記憶の始まりは、いつも赤い色をしている。
――地面に広がっていく血の中から太一を抱き上げた。太一は一瞬だけ、ヤマトを見つめたように見えたがすぐに目を閉じた。
それが太一の世界からヤマトが消えた最初の瞬間、別れの始まりだった。
腕の中で生温かい血が冷え、太一の体が冷たくなっていく。金気臭い香りだけが辺りに満ちて、誰かが上げた悲鳴も車のクラクションも聞こえなくなった。
服の布と血と肉が混じり合い、骨が覗く足の傷、割れた額、力無く垂れた手――太一の体を初めて重く感じた。
目を開けない太一の顔はヤマトの腕の中で白くなっていく。
死なないでくれとも目を開けてくれとも言わなかった。傷口を押さえ、身じろぎもせず、ただ黙って太一を抱いていた。
動いたのは血で手が滑り、太一の体がずれ落ちかけ、それを抱き直したときだけだ。それすらも分厚いガラス板を隔てているような現実感のなさがあった。
まるで壊れた大きな人形を抱いている気がした。だから、しっかり支えていないと、首がすぐにがくりと垂れてしまうのだ。壊れないように支えていなければならない。警察官の声も、救急隊員の声も遠かった。
太一の運ばれた病院の手術灯の灯りは血よりも薄く、その灯りの向こうに太一がいるとは信じられないくらいの安っぽい色だった。その灯りは、廊下の切れかけた電球の代わりにヤマトの頬を赤く染め、ヤマトはその灯りが早く消えることを祈った。
太一が手術を終え、深夜近くになってようやく家へ帰った。……いや、帰されたのだ。
君も疲れているだろう――誰の言葉だったのか、覚えていない。その頃になってようやく自分の手にも包帯が巻かれているのに気がついた。
眩しいくらいに包帯は白かった。真っ白だった。
家へ戻って、包帯を外し、それから太一の血が染み込んだ制服を脱いだとき、ヤマトは初めて泣いた。
制服に付いた乾いた赤黒い血と、その量の多さ――交差点で振り向いた太一の顔が、腕の中で白くなっていった太一の顔と重なっていく。
抱き慣れた太一の体にはあんなにもたくさんの血が流れていたのだ。あんなに冷たくなるのも当たり前だ。なぜならアスファルトの上にこぼれていたあの血は、太一の体にはもう流れていない。
声も出さず、部屋で制服を抱きしめ、一人泣いた。涙は褐色の染みをもう一度鮮やかな紅色に戻し、外からの明かりに浮かび上がる。
何を悔いたのか思い出せないほどだった。
なぜ、喧嘩などをしていたのか。どうしてもっと早く自分から謝らなかったのか。なぜあんな交差点で太一に声をかけたのか。
後悔はどこまでも続き、ヤマトは自分がしてきたことの何もかもを呪った。
あと数秒声をかけるのが遅ければ、太一は横断歩道を渡りはしなかっただろう。
信号が変わるのを待って、それからこちらへ来たはずだ。そうすればどんな会話を自分たちは交わして、どんな未来を選べたのだろうか。
太一と別れた後、わざと傷をいじるようにそう夢想することもあった。
そこでだけは幸福を感じられたが、想像はヤマトを浅く癒しただけで、その後は、いつもより深い後悔と絶望がヤマトを苛んだ。
もう時は戻せない。いくら愛していると叫んでも、太一と離れたままの三年間を埋めることなどできはしない。自分は彼のいない未来を受け入れた。それが現実だ。
この動かしようもない事実は三年前から変わらない。変えることもできない。
ヤマトはだいぶ小さくなった太一の背を見つめた。
歌はもうすぐ終わるだろう。この曲が終われば、自分は車を出し、太一は家へ戻る。太一の背中が見えなくなれば、太一の世界からふたたび自分の姿は消える。
そして、もう二度と太一には逢えない。この夏だけ交わった道は、二度と重ならないはずだ。
――妙な既視感を覚え、ヤマトは辺りを見まわした。こんなことが前にもあった。この場所で、太一の背中を見つめていた。
歩道に忘れられたように置かれてある、少し色あせたベンチを目にしたときには、もうため息もでなかった。
(ここ……)
ただただ甦り続ける記憶にヤマトは打ちのめされた。ここは三年前、太一に別れを告げられた場所だ。
だが、その時間はもっと遅かった。季節は夏ではない。日差しの明るさも、並木の葉の色も全く違う。
それでも今と同じだ。太一が腰掛けていたベンチの位置が変わっていないように、何も変わっていない。
あのときと同じように遠ざかっていく太一、見つめることしかできない自分。広がっていく距離は自分と太一の心の距離だ。
もう空港で太一を引き留め、何を言おうとしていたのか思い出せない。
ただ光子郎の言葉が耳にこだまするだけだ。
今度こそ太一を離さない――。
離さない? 呟いて、ハンドルを指が白くなるくらい握りしめた。
どうするつもりなのだ。また太一を傷つけるつもりなのか。
太一は言った。一人で歩けると。
そう、確かに歩いていける。歩くのは太一で、ヤマトではない。ヤマトの道を太一が行けないように、太一の道をヤマトが歩くことはできない。一人で歩かなければならない。そうして歩いて、何がこの先にあるのだろう。
静かな叫びのように聞こえるボーカルの声が同じ言葉を繰り返して、歌が終わっていく。
――切ないくらいに同じ言葉を、誓いを何度も何度も繰り返して、終わっていくこの歌。
ふたたびヤマトは太一の背中を見つめた。
あのとき、去っていく太一の背中を追いかけたかった自分を思い出した。その肩をつかんで、振り向かせたかった。その目に、自分の姿を映させて、想いを確かめさせたかった。
けれど、太一の言葉はあまりにも鋭く重いもので、それに縫い止められたかのように、ヤマトの足は動かない。微かに足を引きずっていたあのときの太一が、今の太一の背中に見えた。
かすんでいく。
――今なら、言える。はっきり分かる。
あのときはあきらめたのではない。逃げたのだ。
追いかけて、その眼の中に怒りが、軽蔑が浮かんでいたら、無関心に冷たく見返されたのなら――そう思えば、思うほど動けなかったのだ。
自分への想いを浮かべていてくれた瞳が、それ以外の想いに染まっていたら、もう立っていることすらできなかっただろう。
だから、逃げた。背中を向けた。
そして、また逃げるつもりなのか。
ふたたび選ぶというのだろうか。太一とは違う方向を、彼のいない未来を――。
後悔しないと決めて選んだ道が、どれだけの悔いと絶望に包まれていたか。また後悔するつもりなのだろうか。太一から逃げるつもりなのだろうか。三年前だって、腕をつかめたのかもしれない。もしかしたら別の道を選べたのかもしれない。
小さくはあっても、可能性はあった。それともそんな道に気づかないほど、自分は愚かだったのか。幼かったのだろうか。
今更思い起こしても、過ぎた時は返ってはこない。
けれど――ヤマトは顔を上げた。ハンドルがエンジンの動きに合わせ微かに震動している。だが、ヤマトの手はもう震えなかった。真っ直ぐに太一を見つめる。
そう、過ぎた時を戻すことは出来ない。出来るのは思い出すことだけだ。
――けれど、悔やみ、思い出に浸るばかりで、一体何ができるというのだろう。
ハンドルから手を離した。
ドアを後ろ手に閉めるのと走り出すのとは、ほとんど同時だった。
夢の中のようにのろのろとしか足は進まない。どこまでも太一の背中は遠く、幻のようだった。
走れば一分もかからずに追いつける距離なのに、太一は遠かった。これが三年分の時間の距離、縮めることができない距離だ。
時は戻せない。縮められず、追いつくことができない距離――しかし、これ以上広がらないようにできはしないだろうか。
自分を見るだけで太一が苦しむのなら、もう二度と会わない。これが最後だ。だから、今だけはもがきたい。今だけは太一を離したくない。
空港ではその手をつかめた。あの夜のように震えていた手を握ることができた。
また振り払われてもいい。どんな冷たいまなざしで見つめられても構わない。その目も太一の目だ。太一を見つめることで怯えることなどない。
怯えを感じるというのなら、あの朝の誓いは何のためにあるというのだ。
太一の幸福を願い、そのためならすべてを懸けると、そう決めたのは自分自身だ。彼のいない未来を受け入れるくらいなら、三年前のように太一に背を向けるのなら、自分の心が傷つくくらい何だというのだろう。
傷つくことを恐れていては何もできない。愛することも、伝えることも、何一つとしてできはしない。
そして、これ以上何を恐れるというのだ。
もう逃げたくない。諦めたくない。
たとえ彼が自分の未来にいなくても、これだけは伝えておかなければならない。
歩いている太一に距離を詰めていく。
たった数メートルの距離がどこまでも遠い。これが二人の時間の距離だと思い、そこでびくつきかけた自分を叱咤した。
前へ進まなければならない。走って、太一に追いついて、三年前にはできなかったことを、あの日できなかったことをやるのだ。
そのための今だ。
――汗が流れていく。空に言葉が全部吸い込まれていきそうだ。
時が止まったように思える長い一瞬だった。滴る汗も拭わず、ヤマトは呟いた。心の中の想いはこの言葉でしか表せない。
どんな愛の言葉でもなく、ヤマトは唯一人の名を呼んだ。
「太一」
そうして、つかんだ太一の手は冷たかった。
それでも間違いなく太一の手だった。
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