STAND BY ME
20



 空港にはいつの間にか人が増えていた。 ツアーの団体客や見送りの人々をはじめとして、あちこちで人々が楽しげに喋っている。
 それらの人々の肩を押し分け、何度正面からぶつかってしまっても、ヤマトは足をゆるめなかった。
 後ろから男が怒号を浴びせかけてくる。どうやら足を踏んだらしいが、無視すると言うよりも男の声は耳にも入らない。おざなりに適当な謝罪を口にした。
 空調が効いているはずの空港内だが、ヤマトは頬の汗を拭う。
 ――振り向いた視線の先に太一が見えたのは一瞬だけで、すぐに姿は見えなくなってしまった。
 どこにいるのだろう。今、会わなければならない。今日のこの時を逃したら永遠に太一と離れてしまう。そんな気がする。
 少し休んで、息をつくとヤマトはまた走り出した。
br>  ゆっくりと飛行機が動き出した。一機だけでなく、ほかにも何機か動いている。どの飛行機に乗っているのか、わからなかった。
 窓ガラスに顔を寄せ、手を当てて太一は飛行機を見つめた。
(光子郎)
 行ってしまう。結局、何も言えないままだった。
 自分に気づいていたのだろうか。
 やって来たヤマトの姿を目にして、柱の陰で固まっていた太一は、一度だけ二人の様子を窺おうと顔をのぞかせた。ちょうど光子郎が荒々しくヤマトを突き飛ばして、荷物を持ち上げていたところだった。
 視線が重なったのは一瞬だ。それでも光子郎のまなざしは太一をとらえ、しょうがないですねと苦笑するように優しい光を浮かべた。
 涙すら優しさに変えて、光子郎はほほえんでいた。
 その笑みに息もできず、太一はその瞬間、光子郎のもとへ駆け寄ろうとした。
 それとも、その笑みは自分の願望が生み出した幻だったのだろうか。
 足の痛みと振り向いたヤマトの視線がなかったら、そのまま光子郎のもとへ行っていたかもしれない。
 何を言おうかとも考えず、来るなと言われたことも忘れていた。行ってどうするのだということも考えてはいなかった。
 だが、動かそうとした足が痺れたような疼きに襲われ、同時にヤマトが振り向いた。
 ヤマトから姿を隠し、太一は拳を握りしめた。やがて唇をかみしめたまま、足を引きずって柱から離れた。
 足の痛みは先日倒れたときのような激しいものではない。それでも痛みは治まることなく、いつもじりじりと疼いている。
 歩きすぎ――医者からはそう言われた。半日近くもふらふら歩いていたと言うともっと怒られただろう。
 いくら傷が完治したとはいえ、以前のような足と思ってはいけないときつく注意された。歩くのはいいことだが、歩きすぎはいけないとも。逆に無事だった足を悪くするかもしれないそうだ。
 自身では気づかずとも、傷を負った足に負担をかけないよう左足にも力を加えるようにして歩いているらしい。
 それを思い出し、光子郎を追いかけることもできない、ヤマトから逃げるだけのこんな足はいらないと、痛烈に思った。
 離陸し、飛び去っていく飛行機を見つめながら、太一は窓ガラスから手を離した。
 磨かれていたガラスの表面にくっきり指紋が残っている。ぐしゃぐしゃにこすって、太一は歩き出した。
 足はまだ痛む。今は逆に痛みが心地よかった。
 自虐に酔っている嫌悪感も感じたが、今は快楽の方が大きかった。
 ――足が痛むことで、生まれる自虐が心地よかった。

何回フライトのアナウンスを聞いただろう。ヤマトはあたりを見回した。
 到着ターミナルの入り口近いこの場所は広く、同時に行き交う人々も多い。太一、と我知らずつぶやいて、彼の姿を求める。どこにも姿は見当たらない。
 汗をかいて、べとついた肌に空気を通そうとシャツのボタンをいくつか外した。
 目に額からの汗が染みて、ちりちりしたその痛みに目を閉じる。今の自分がどんなにみっともない顔をしているか、想像がついた。
 いつだって、こんな調子だ。空回りして、気づいたときにはすべてなくしていた気がする。
 それでもあのころは取り戻すことができていた。あきらめるという言葉を受け入れたくはなかったからだ。それも三年前からは分からなくなった。逃げたのか、諦めたのか。どっちだったのだろう。
 そして今はどうなのか――乱暴にシャツの袖で汗を拭うと、ヤマトはまた太一を求め、走り出した。

「――あっ!」
 引きずっていた足に小さな少女がつまづいた。冷たい床に転んだ少女をあわてて太一と少女の母親が抱き起こそうとする。
「すみません」
 少女を起こし、太一は少女が手にしていたぬいぐるみを拾って手渡してやった。
「いいえ」
 少女の母が、太一の足にちらりと目をやって首を振る。
「こちらこそ……」
 かがみ込もうとした太一が足をかばったことに、敏感に気づいたらしく母親は申し訳なさそうな顔で頭を下げた。
 太一は少女に謝ってから、少女の母親に頭を下げ、また歩き出した。

 ふたたび空港の方に戻って、ヤマトはさきほどよりも増えたように思える人混みに、唇を噛んだ。
 光子郎と別れてからも、相当の時間が経っている。太一はもう家に帰ったのかもしれない。
 探しているのはたった一人なのに、この大勢の人の中には彼は見あたらない。次はどこを探せばいいのだろうか。空港は広く、人々の数は増えるばかりだ。
 この中に太一がいる――それともあの太一の姿は幻だったのか? 一瞬、浮かんだ考えに首を振る。
 呼吸を乱すヤマトを避けるようにして、人々は通り過ぎていく。
 幼い少女の甲高い声がその中で響いた。
「ねえ、あのお兄ちゃん、足どうしたの?」
「怪我してるのよ」
「でも、包帯巻いてなかったよ」
「そういうこともあるの」
 叱りつけるような声と共に母子の姿が遠ざかっていく。
 ヤマトは母子がやって来た方向を眺めた。ゆっくり息を吐く。
 何も確信などない。けれど――ヤマトはふたたび足を踏み出した。
 今度は走るのではない。早足で歩きながら、前を見つめる。
 人々の動きが急に緩やかになった気がした。通り過ぎる人々がほとんど止まって見えるようにも思える。
 その中で、うなだれて足を小さく引きずりながら歩く太一。
 ――見つけた。泣きたくなるような安堵感があった。同時に足をどうしたのだと言う不安も湧いてくる。
 聞いても何も言ってくれないだろう。何もかも心に秘め隠したまま、歩いていこうとしているのだ。
 距離が狭まっていく。
 五メートルから、三メートル。まだ手は届かない。
 二メートル、一瞬だけうつむいた横顔が見えた。
 一メートル。手を伸ばした。指先が触れかけて、ヤマトは手を引いた。
 また距離ができる。遠くで誰かの声が聞こえた。
 ――今度こそ、太一を離さない。
 光子郎の声とヤマトのつぶやきが重なった。足を大きく踏み出し、手を伸ばす。
 今度こそ――指先が触れる。同時につぶやいた。
「太一」
 太一が足を止める。その肩が震えた。
「――何だよ」
 振り向かず、無感情な声が返ってきた。
「いや……」
「用もないのに、呼ぶな」
 太一はヤマトの手を振り払おうとした。ヤマトは逆にしっかり握りしめる。太一の震える指先から手を離したくなかった。
 何を言おうか迷ったあげく、出てきたのはこんな馬鹿みたいな言葉だった。
「お前、足……」
 太一が振り向いた。顔にあった傷はほとんど消えている。
 太一は握られた手を今度こそ振り払い、吐き捨てるように言った。
「何でもねえよ。ちょっと痛むだけだ」
「痛むのか」
「ちょっとだけだ」
「……送っていく」
 答えも待たず、太一の腕を引いた。駐車場へ歩き出す。
「送るって、おい!」
「親父の車で来たんだよ」
 どうして口からこぼれる言葉はこんなに素っ気ないものになってしまうのだ。
 太一の目を見るたびに、その声を聞くたびに、殴られているような衝撃が走る。
 決して、きつくもないいつもの少し乱暴な口調だというのに、今ここで自分が倒れてしまわないことが不思議なくらいに太一の言葉はヤマトの胸を貫いていく。
 助手席に押し込むように太一を乗せて、運転席に乗り込んだ。キーを回し、エンジンをかける。ラジオのスイッチが入ったままだ。
 スイッチを切ろうと手を伸ばしたヤマトに太一はいいよと首を振った。
 にぎやかなおしゃべりの声が静かな車内に、賑やかさを振りまく。
「……車、運転できるんだな」
 太一が窓の外を見つめながら、ぽつりとつぶやいた。
「あっちで免許取った」
「外国でも取れるんだ」
「ああ」
 ステレオから陽気にも、どことなく寂しくも聞こえるメロディーが流れ出す。独特の低い声で女性が歌うその歌詞にヤマトは皮肉さを感じずにはいられなかった。
 気がつけば、思わずつぶやいてしまっていた。
「バラ色の人生」
 太一が不審そうにヤマトに目を向けた。ギアを変え、わずかにスピードを落とすと、ヤマトは言い訳のように言った。
「この歌の名前だ」
「ああ……」
 太一がうなずいて、また窓の向こうに目をやる。いつのまにか雲が多くなっていた。流れていく景色に雲が影を落とす。今夜は雨かもしれない。
 雨が降りそうだと言いかけ、太一は止めた。これからは雨の日が、そして雨の夜が嫌いになるだろう。
 歌はもう終わりかけていたが、ヤマトはステレオのボリュームを下げた。
 いっそう静かになった車内に太一の声が響く。
「……お前も来てたなんて知らなかった」
「タケルに聞いたんだ」
 言葉を交わしたのはそれきりで、お互いに何かを探り合っているように気まずい沈黙が降りた。
 反対側の車線とは逆に、二人が走る車線は空いており、思った以上に早く窓の外は見知った景色に変わっていく。
 どこまでも道路が続いていてくれたのなら、いつか言葉が見つかったかもしれない。だが、太一の住むマンションが見えだしてくる。
 太一の膝にあるその手を取ることのできないヤマトにとって、そのマンションの高さは絶望的なほど高い壁のようにも見えた。


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