八月十日は真っ白な雲が一つ浮かぶだけで、後は青い空ばかりだった。
空港のざわめきが遠くでさざ波のようにも聞こえる。光子郎は腕時計に目を落とした。まだ登場時間には余裕がある。
「今度はいつ帰ってこれるかしら」
母が寂しげにつぶやく。
「教授次第ですから……」
言い訳のように言って、光子郎はすまなそうに笑みを見せた。
「電話やメールしますから、お母さん」
「ええ、無理しないでね。あんまり余計なこと言うつもりはないけど……」
何か言おうとしたら、そのまま止まらなくなってしまいそうで母はちょっと口ごもった。
寒くなれば風邪を引きやすくなる。あっちの下宿にはちゃんと暖房と加湿器はあるのだろうか。夢中になれば食事を忘れるのも少なくはない息子、栄養のある食事を一人でできるのだろうか。
数年前に送り出したときも同じことを思った。そしてそのときと同じく、出てきたのは平凡な言葉だった。
「――体にだけは気をつけてね」
「はい」
父は何も言わず、光子郎の肩を叩いた。
「無茶はするなよ」
「はい」
「――じゃあ、帰るからな」
昨夜、息子に言われたとおり、父と母は駐車場の方へ歩いていく。
最後まで見送ってくれなくてもいいと伝えた光子郎に、黙ってうなずいてくれた父と母であった。
「光子郎、頑張ってね」
「気をつけて、お父さん、お母さん」
何度も振り返り、手を振る母と父を見送って、光子郎は荷物を持ち上げた。
十二時までまだ小一時間はある。光子郎は辺りを見まわした。
大きな荷物を持つ女性や男性、これからの旅行に心を弾ませる人々やそれを見送る家族、夏休みの真っ最中だということで人も多い。
目が自然に誰かを求め、耳は聞こえてくるかもしれない彼の声を聞き逃すまいとしていた。
来ないでくれと言ったはずなのに、彼の顔を見つめる自信などないというのに、彼を捜している自分に気づき、光子郎は唇を噛む。
同時に光子郎は大きく体を震わせた。
後ろから誰かが近づいてくる。足音は光子郎のすぐ後ろで止まった。
まさかと思い、光子郎は声をかけられる一瞬の間、そこから立ち去るべきか、それとも振り返るべきなのか迷った。
迷う背に彼を呼ぶ声がかかる。
「光子郎」
走ってきたせいか、呼吸が乱れている声だった。
光子郎の眉が寄った。苦しげに顔が歪められ、それからあきらめたようなため息が漏れた。
「ヤマトさん」
振り向いた光子郎にヤマトは、気まずそうに汗を拭うふりをして、目をそらした。
「タケルに今日帰るって聞いたんだ」
そういえばそんなことを話した気もする。あれは太一やヒカリ、大輔にタケルと五人で花火遊びをしたときだった。
花火の煙のきな臭い香りに眉をしかめていた太一をふと思い出す。お開きにした後、こっそり二人だけで二本残しておいた線香花火を楽しんだ。
どっちの火が長く残っていたのか、光子郎は忘れたくても忘れられない。
「――僕の見送りですか?」
「この間は俺が見送ってもらったからな」
ヤマトを空港で見送ったときと同じ点が二つあった。太一が見送りに来ないということと、どちらもそのときに太一の隣りにいなかったということだ。
「そうでしたね」
それから? とでも言うように光子郎は腕を組んだ。
「……俺がフランスに行く前に言ったこと覚えているか」
「ええ、覚えています」
もっともあのときは何もできなかった。太一の隣にいたのは誰でもなかった。そして、今も誰もいない。
「……話したいことがあるんだ」
ヤマトの静かな口調に、察しはついた。自分とヤマトが会って、話すことは一つしかない。
「太一さんのことですか」
「ああ」
ためらいなくヤマトはうなずいた。
「……僕たちのこと知っているんですか」
「太一に聞いた」
ヤマトは太一の名の部分を優しく呼んだ。その名を口にするだけで、満たされているとでもいうように幸せそうな響きがこもっている。
ヤマト自身も気づかないであろうその口調に光子郎は一瞬だけ目を閉じた。
「だったら今更何を言うつもりなんですか」
「――お前、今度はいつ帰ってくる」
突然の不躾な質問に光子郎は無表情に答えた。
「分かりません」
「分からないって、お前……」
「これから色々ありますから、日本に帰る暇はないかもしれません」
ヤマトは光子郎の乾いた口調に、微かな怒りを滲ませた。
「太一のこと、どうするつもりだ」
「……」
ヤマトと光子郎は鋭い視線を交わし合った。触れれば切れそうなくらいにヤマトの目は厳しく、また光子郎の目は氷のように冷たかった。
激しい視線を交わした後、口を開いたのは光子郎だった。
「――僕と太一さんのことにどうしてヤマトさんが口出しするんですか」
「それは……」
唇をかみしめ、ヤマトは口ごもったように見えたが、すぐに顔を上げた。
「光子郎」
何をいうつもりだと、光子郎は冷たい目でヤマトを見つめた。
「俺――」
ヤマトのその言葉に光子郎は目を見張った。
「どういう意味ですか。しばらく日本に帰らないって」
「教授の研究室に招かれたんだ。だから、お前よりもずっと長くあっちにいることになる」
最低、十年かな、とヤマトは言って、微苦笑した。
「お袋には叱られるどころか、泣かれたよ」
「……当たり前です」
限りなく苦いものを心に感じ、光子郎は笑おうとしたが、無理だった。
「その前にお前に言いたかったんだ」
ヤマトは口元に笑みを浮かべようとした。まだ少し苦しげなものが含まれている。哀しげでもあったが、そこには、かつて光子郎が見た歪んだものはない。
一息に、あふれる心のままにヤマトは告げた。
「あいつと幸せになってくれ……太一を幸せにしてやってくれ」
光子郎は息を吐いて、また笑おうとした。それもできず、あまりに残酷と言えば残酷な言葉に光子郎は眩暈さえ感じた。
「――あなたがそれを言うんですか? もう太一さんのことは思い切ったとでも?」
「思い切った訳じゃない」
自分に言い聞かせるようにヤマトはつぶやいた。
「未練ばかりだ。でも、これは俺の心の問題だから」
三年前にこの空港でヤマトと話したときと何かが違った。
かつて空港で見送ったときのようにやけになったような、歪んだものがない。アメリカで会ったときの醒めたものもない。
――彼はあの雨の夜何を得たのだろうか。そして、いつかそれも自分も手に入れられるだろうか。
ヤマトは澄んだ笑みを見せた。光子郎の向こうに太一を見るように、その目は優しかった。
「今はもうあいつが幸せなら、それでいいんだ」
だからと、ヤマトは光子郎をまっすぐ見つめた。
「……あいつをもう一人にしないでやってくれ。偉そうな言い方だけど、これだけは頼む」
穏やかなそれでいて激しい、その心の深さを示すようなヤマトに光子郎は目をそらした。
ヤマトの目にも、言葉にも、押さえられない感情が湧き出ていた。瞳が太一と囁いている。唇がそうつぶやきたくて、震えている。
こんな目を、心をかつての太一の中に見たことがあった。
どうして――思わずにはいられなかった。
どうしてヤマトなのだろう。どうして自分はヤマトではなかったのだろう。
そうすればすべてがうまく行ったかもしれない――思うのもむなしすぎる思いだ。
フライト案内のアナウンスの声が甲高く響いた。すぐ側を中国人らしい一行が賑やかに通り過ぎて行く。中国語のざわめきが通り過ぎて、光子郎は言いかけた。
「ヤマトさんは……」
そこで口を閉じ、光子郎は遠くを見つめた。
かつて太一の側にいたヤマト。彼と道を違えて一人歩く太一とわずかな時を共にした自分。
その道を選んだのは自分だった。
「太一さんは、僕とアメリカへ行くと言ってくれました」
ヤマトを見つめ、この場にいないもう一人にも届いて欲しいと願いながら、光子郎はつぶやいた。
「……そういう人なんです」
「光子郎」
ヤマトがとまどうように眉を寄せる。
「分かりませんか」
ヤマトは訝しげな視線を崩さない。
光子郎は黙っていた。この意味は、ヤマトが自分で見つけだすべきだろう。
そして、もうひとつ告げなければならない。かつてのヤマトが辿った道だ。
――この先にあるのは、自分とは違う結末なのかもしれないが。
「……別れたんですよ」
言葉は嘘のように滑らかに唇からこぼれてきた。嘘ならばどんなによかったか。
ヤマトが呆然と光子郎を凝視した。
「別れた……?」
問うようなヤマトの目は、やがて確信に変わった。
「俺のせいか――」
「ええ」
――太一の心に刻み込まれたヤマトの面影のせいだ。
ためらいなく、光子郎はうなずいた。それ以上は何も言わない。これだけで充分だ。
もしヤマトが帰国せず、また太一と再会することが無かったのなら、まだ自分は太一の隣にいただろう。そしていつか必ず太一を傷つけ、苦しめ、今と同じ結果になったはずだ。その時が早いか遅いか、それだけの違いだった。
太一と過ごした時間は一夏にも満たない。それ以上太一と共にいたら、きっと離せなくなる。お互いにぼろぼろになるだけだと分かっていても、太一を深く傷つけ、自分も傷つきながらも太一を抱きしめ続けただろう。
太一がヤマトの名を呼んでも、決して離しはしなかったはずだ。
「……あなたが憎いです」
ヤマトは何も言えず、光子郎の言葉とは対照的なほど静かなその面を見つめるだけだった。
そのまま、どうしても抑えきれない感情に突き上げられ、光子郎はヤマトの襟首をつかんだ。
「太一さんを突き放すこともできない、側にいることもできない、あなたが憎い」
それはヤマトへ対しての言葉と同時に、自分自身に対する言葉でもあった。失われた三年間を埋められる者は誰もいない。
ヤマトは青ざめ、息を吐く。
襟首をつかみ、首を締め上げんばかりの勢いのまま、光子郎は一息に言い放った。
「今度……また今度、あの雨の日みたいな顔を太一さんにさせるつもりなら、僕はあなたを許さない。今度こそ、太一さんを離しませんから」
「光子郎」
光子郎はヤマトを激しくにらみ、荒々しくヤマトから手を離した。
荷物を持ち上げ、身を翻す。足早に歩きかけ、光子郎は立ち止まった。
「太一さんは、詰めが甘いんです」
喉を押さえて、少し咳き込んでいたヤマトが顔を上げた。
「どうせならもっと上手く隠れてくれればいいのに、僕からは丸見えです」
ヤマトが打たれたように振り返る。
「――太一?」
光子郎は歩き出す。
ヤマトは光子郎の背中を見つめた。
「光子郎」
光子郎の言葉がかすれたのは最初だけだった。
「あなたのためじゃない。太一さんと僕のためです」
まだヤマトは走り出さない。光子郎の背中を見つめている。
ヤマトの低い声が届いた。ヤマトからは一番聞きたくない言葉だった。
何の反応も見せないまま、光子郎はヤマトから遠ざかっていく。
胸によぎったのは、花火で遊んだ夜のことだった。
いま思えば、あの夜が二人で過ごした一番穏やかで幸せな時だったのかもしれない。
――ヒカリたちを先に帰して、二人だけで二本の線香花火に火を点けた。
ゲームを提案したのは太一だった。同時に火を点け、火が先に落ちた方が負け、勝った方の言うことを一つ聞く。
先に落ちたのは光子郎の火だった。
太一が笑って、くやしさを押し隠す光子郎の顔をのぞき込んでくる。
火花にぼんやり浮かぶ太一の横顔に見惚れていたせいだとは言い出せず、光子郎はため息をついた。
そのまま太一が何を要求するのか待っていたが、太一は何も言わず立ち上がった。
先に立って歩き出す。あわてて光子郎も太一を追いかけた。
何度も呼んだのに、振り返らない。どうしたのだろうと、もっと近づこうとしたとき、太一の手に気づいた。
指を小さく開いて、光子郎に差し出すようにしている。緊張しているのか、指先が強張っているようにも見えた。
キスは何度も交わしていた。けれど手はつないだことがなかった。
思い切って、手を伸ばす。重なったぬくもりに太一がやっと振り向いた。文句を言われるかと思った。振り向いた顔が怒ったようにも見えたからだ。
しかし太一は何も言わなかった。
はにかんだような安心したような小さな笑みを見せただけだった。
海で見た笑顔にも似ていた。けれど、それよりもずっと翳りがなかったと言うのは光子郎の願望だったのだろうか。
太一の家まで言葉を交わさないで歩いた。二人で手をつないで歩いた川岸の道には涼しい夜風が吹いていた。見えるはずもない空の星が一番きれいに見えた夜だった。
かつんと靴音が耳にこだました。小さな音のはずなのに、空港内のどの音よりも大きく聞こえる。
走り出したヤマトを振り返ることもく、光子郎は前を見つめて歩いた。
太一は空港に来ていた。救われたとは言わない。けれど来てくれた。混じり合った感情が、ゆっくり一つにまとまっていく。
喜ぶべきか、それともそんな自分の単純さを笑おうか。どちらにしろ思うのは一つだった。
「お荷物を」
チケットをチェックした女性が光子郎の荷物に手を差し出した。
「貴重品はお手元にお持ちになってください。これお一つだけでよろしいですか?」
「それだけです」
女性がうなずいて、荷物を持ち上げる。
ふたたび光子郎はつぶやいた。言葉にすることで確認したかった。
幸せだったのだ。
「それだけです」
たとえ短くても太一のぬくもりを感じられた。あの手の温かさは一生忘れないだろう。
もうヤマトの靴音は聞こえない。
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