STAND BY ME
18



 それほどの日にちの間も置かず、やって来た太一を見て、光子郎は薄い微笑を浮かべた。
 雨の日の翌日から、すでに三日経っている。 長いのか、短いのか分からない中途半端な時間――太一の顔は少なくとも表面上は穏やかなものだった。
 お互いの目を見つめあうこともなく、二人は部屋の内側と外側とに立っていた。
「……上がっていいか」
 太一を包む熱気と、日光に照らされた白いコンクリート。
 光子郎はドアを大きく広げた。
「どうぞ」
 ほんの少し前までは、太一は上がっていいかと問う前に靴を脱いでいた。対する光子郎も、もう上がってるじゃないですか、などと軽口を叩きながら、自分の部屋まで招き入れていた。
 太一はぎこちなく靴を脱ぎ、リビングへ通される。
「今日は誰もいませんから」
 しんとした部屋を見まわした太一に光子郎は言うと、冷蔵庫を開けた。
 麦茶を取り出し、グラスを出す。氷を入れて、麦茶を注ぐ。
 太一はソファーの背もたれに手を置き、窓の外を見ていた。入道雲が眩しいほど白く輝いている。
「どうぞ」
 光子郎は麦茶を差し出した。
 太一は受け取ったグラスに口を付けようともせず、光子郎を見つめた。
「……光子郎」
 太一の手が震えた。
「何でしょうか」
 光子郎は平静さを滲ませた声で返事した。
「――いい天気だな」
 太一は目線を雲へやってつぶやいた。
「そうですね」
 光子郎は太一の横に立って、窓の外を見つめた。
「風鈴、どうしたんだ?」
 窓の外にぶら下がっていたあの涼しい音色を出すガラスがない。赤い金魚の模様が描かれていたはずだ。
「割れたんですよ」
 表面に水滴が付きだしたグラスをテーブルに置いて、光子郎は太一の横顔を眺めた。
「――この間の雨の日に」
 太一が光子郎に向き直った。
「……話があるんだ」
 光子郎は返事をしなかった。黙ることで、太一をうながした。
「……俺、アメリカには……行かない」
 その瞬間、何かが弾けた気がした。光子郎だけでなく、太一にもそれは同じのようだった。
 グラスを持つ太一の手に力がこもって、麦茶の表面がさざ波のように揺れた。
 太一に気づかれないように小さく深呼吸して、光子郎は微笑した。
「――そうですね。もともと急な話でしたし、チケットは今日、キャンセルしておきます」
 言い終えるときには微笑は消え、気にしないで下さいと続けるはずだった言葉を光子郎は呑み込んでいた。
「……光子郎」
 太一は無意識にか手元のグラスを揺らしている。氷がぶつかり合って、風鈴の代わりに涼しい音を立てた。
「俺――」
 何を言いかけたのだろう。その先の言葉はなかった。沈黙を切り裂くように飛行機が唸りを上げて、通り過ぎていった。その後を白い線がずっと延びていく。青い空にあまりにも鮮やかな白い飛行機雲だった。
「……どうして聞かないんだ」
「何をですか」
 太一の目が迷うように部屋のあちこちを見まわした。
 何を聞いて欲しいのか――。光子郎は黙ったままだった。
 太一は少しの沈黙の後、とってつけたように言った。
「――アメリカに行かないわけだよ」
「ああ……。太一さんにも色々と都合があるでしょう」
 どちらの言葉も言い訳のように聞こえた。
「……何にも聞かないんだな」
「今、聞きましたよ」
 太一は押し黙った。空気がねっとりと重く感じられる。
 太一の言葉を封じ込めている自分に気づいて、光子郎は唇を歪めた。
 どこか遠くの方でセミが鳴いている。
「けっこう延びてるな」
 伸びていた飛行機雲を見て、太一はぼんやり言った。
「湿気が多いんでしょうか」
 光子郎もぼんやりと雲を見ながら返した。
 暑さも空も、真夏のものなのに、遠くに感じられた。
 飛行機雲の先端が消え始めた頃、太一は息を吐いて、ゆっくり唇を開いた。
「この間の雨――」
 太一の言葉の途中で、光子郎は手を伸ばし、太一の顎に触れると顔を上げさせた。
「光子郎……」
 弱々しい太一の言葉に構わず、もう片手で顔にまだ残る傷口をそっとなぞる。震える瞼にうっすらと残る傷、まだ少し腫れている頬とを指先でたどった。唇の横に残る小さなかさぶたに触れたとき、太一の吐息が指先を濡らした。
 あの夜、どんな思いでヤマトは太一の顔を見つめたのだろうか。
 ヤマトから逃れられなかったのは太一だけでなく自分もだった。いや、自分の方が強かったのかもしれない。
 重ねようとした唇を離して、光子郎はつぶやいた。
「あなたと一緒に行きたかった」
 どこまでも共にいきたかった。時が許す限り太一の隣りに在りたかった。
「光子郎……俺」
「あの人のところへ行くんですか。……この間の雨の日みたいに」
 つけ加えられた言葉に、太一の目が見開かれ、それから伏せられた。
「行かねえよ」
「どうしてですか?」
「どうしてって――」
 太一が絶句した。
 光子郎は両手で太一の頬を挟み、無理矢理、視線を自分へむけさせた。
 目を覗く。どんな嘘も、揺れる心も見逃さないつもりで、太一の目を見つめた。
「だったら、あなたから言って下さい」
 わかっていても自分の口からは言えない。その決定的な言葉を口にはしたくなかった。
 太一は目をそらそうとして、止めた。息を吐いて、同時にゆっくりと言葉をつぶやく。
 太一が言い終えたとき、光子郎は太一から手を離した。
「――分かりました」
 目をそらして言ってくれたのなら、太一を憎めるだろうという淡い希望を抱いた。同時にその顔に、眼の中に、ヤマトの影を見つけたら、太一を離さないだろうと誓った。
 太一は震えながら、それでも目を逸らさずに光子郎を真っ直ぐ見つめた。
 そこにあったのは、光子郎を想う太一の顔だけだった。たとえ光子郎が欲する想いではなくても、この時だけ太一は光子郎を見つめていてくれた。ヤマトではなく、またその面影をでもなく、自分唯一人だけを、見てくれた。
 ――光子郎は目を閉じた。
 一度は手に入れたと思ったものが自分の腕からすり抜けていくのは、意外なほどあっけなかった。
 静かに、ちくちくと胸を刺しながら消えていく。決して大きな痛みではない。だからこそいつまでも残るだろう。
「太一さん」
 光子郎の声に太一はびくりと震えた。自分が今言った言葉に怯えているようにも思えた。
「最後に三つお願いがあるんですが」
 太一が光子郎を見つめている。この視線の先にいつも自分の姿があることが望みだった。
「……もう一度抱きしめさせて下さい」
 返事を待たず光子郎は言葉と共に腕を広げ、太一を抱き寄せた。
「二つ目――」
 太一は光子郎の腕の中で息を殺している。
「十日、空港には来ないで下さい。あなたの顔を見る自信がありません」
 太一が微かにうなずいた。どんな表情を浮かべているのだろう。
「三つ目です――」
 光子郎は太一を抱く手に力を込めた。
「禁煙は続けて下さい」
 体に毒ですから、と続けようとして止めた。
 これ以上何か言うと目から何か溢れてきそうになる。最後だけは太一の前で涙は見せたくなかった。
 太一がそこで顔を上げた。光子郎の視線とぶつかって、泣き笑いのような表情を浮かべる。
「分かった――」
 光子郎は頼みをもうひとつつけ加えた。
 そのまま彼は、太一をきつく、きつく、もう一度、抱きしめた。太一のぬくもりを閉じこめようとするように、光子郎は震える手で太一の体を抱きしめていた。
 もう二度とこの先感じることはない太一のぬくもりを体に焼き付けておくかのように、強く、ひたむきに、心の奥底で太一の名を呼びながら、光子郎は飛行機雲が消えても、太一を抱き続けた。
「さようなら」
 部屋を出ていくときに、光子郎は太一の背中に言葉を投げた。太一だけにでなく自分にも言ったつもりだった。
 太一がゆっくり振り向いた。
 唇が震え、何かつぶやく。それから太一はすぐに駆け出した。
 ドアの閉まる音が響き、光子郎は一人になった。
「ごめん、か」
 そんな言葉しか最後まで言わせることが出来なかった。
 太一が去った部屋は静かで、口にした言葉もどこかへ消えてしまいそうだ。
 機械的な動きで光子郎は受話器を取り上げ、航空会社へ連絡するとチケットの予約を取り消した。
 受話器を戻す音が太一との決別の音だった。
 光子郎は電話を終えて、両手を見つめた。
 この手で太一を抱くことは二度とない。望むべくもない望みだった。ただ夏の思い出に、幻にするにはあまりにも幸せだった――幸せすぎたのだ。
 太一を抱きしめた感触を思い出し、そのときだけ光子郎は自分の涙を許してやった。今だけは太一を想って泣きたかった。

 空が青かった。太一は大きく息を吐いて、頭上の白い雲を見上げ、目元を乱暴にこすった。
 光子郎の家から見た飛行機雲はもう跡形もない。自分を罵る言葉を口にしかけ、太一はポケットに手を突っ込んだ。
 あまりにもみじめだった。
 光子郎の想いを受け入れたいとどんなに願っただろう。本当に好きだった。腕の温かさも包み込んでくれる笑顔も、何もかも。けれど――恋ではない。恋になるのかもしれない――けれど、彼はヤマトではない。
 それでも光子郎に抱きしめられたときに感じた安らぎは本物だった。こんなに甘え、寄りかかっていたとは自分でも思わなかった。心の奥のささくれだった箇所が、彼の言葉に、温もりにどれだけ和んでいったことか。
 光子郎はこれほど自分に心と想いを与えてくれたというのに、自分ができたのは、光子郎を傷つけたというそれだけのことだ。
 謝るしかできない自分の惨めさに太一は首を振った。
 じりじりと日差しが体を灼く。ヤマトのもとへ行った雨の夜から、ほとんどまともに眠っていなかった。
 頭がくらくらする。最後に深く眠ったのはヤマトの腕の中でだったことを思い出して、太一はまた顔を歪めた。
 いっそ抱いていてくれたら、もっとみじめになれたのに。
 誰も太一をなじらない。憎み、罵ってくれたらどんなに楽になるだろうと考えて、太一は唇を噛んだ。
 自分はどこまで逃げ続ければ気が済むのだろう。
 最初は自分の醜さから逃げた。そしてヤマトからも逃げ、荒む心を抑えられず、酒にタバコ、挙げ句の果てに薬にまで手を出した。その一瞬だけ、ヤマトの面影から逃げることができたと思っていたのだ。
(そうだ……)
 どこまで行っても逃げることしか考えていない。
 丈の言葉から逃げ、ヤマトとの過去にすがった。そして今も光子郎の心から逃げ出してきた。今の自分を昔の自分が見たら、どう思うかだろうと太一は考えた。
 同時に胸が締め付けられた。アグモンには今の自分が太一だと分からないかもしれない。
 過去ばかりに捕らわれ、逃げ続けている自分はただ体ばかり大きくなっているだけで、内面は成長どころか同じ場所に立ち止まっている。あの事故の日から、ずっと同じ場所に止まって、逃げている。
 何から逃げて――? 太一は自問し、膝に走った鋭い痛みに小さく呻いた。
「痛っ!」
 こんな風に痛むのは、事故以来だった。立っていられないほど痛みが疼き出す。
 耳鳴りがして、体が熱くなる。膝を押さえようとした太一の体が傾いだ。
 目の前が急に真っ赤になる。
 太一は頬に当たったアスファルトの土くさいとも金気くさいともいえない臭いに、こんなことが前にもあったなとぼんやり思った。
 トラックにはねられたときに嗅いだ臭いだ。
 コマ送りされる映像のように思い出した――ヤマトが見下ろしてくる。
 真っ青な顔で、今にも泣き出しそうな顔で、太一に手を伸ばしてくる。太一、太一と何度も呼ばれているはずなのに、声が聞こえない。
 ヤマトの声で名前を囁かれるのが大好きだった。ヤマトと彼の名前を呼ぶのも。でもこんな顔で言われるのはイヤだ。
 泣くなよ、と太一は言おうとした。同じ男のくせに、太一よりヤマトの方が涙もろい。
 今更ながらに思った。別れを告げたあと、ヤマトは泣いたのかと。
 誰かに肩を揺さぶられた。
「――おい、君!」
 ヤマトの声ではない。
 もうそれ以上何も考えられなかった。意識が沈んでいく。
 太一の側にひざをついた年輩の男性は、携帯電話を取り出しかけ、倒れた青年が何かつぶやくのを耳にした。
「泣くなよ」
 こんな時だったが、彼は思わず微笑しかけた。
 頭の痛みのせいか、涙をこぼしたのは青年の方だったのだ。
 119をコールする男性の耳に、もう一度青年のつぶやきが聞こえたが、今度は何と言ったかはわからなかった。
 人の名前のようにも聞こえたが、電話に出たオペレーターの声に人が倒れたことを告げ出すと、そんな些細なことは頭にない。
 ――その日の気温は40度を軽く超え、今年の夏の最高気温を記録した。暑さのせいか、救急車が到着する頃には太一の涙も乾いていた。太一が誰の名を呼んだか、誰も知らない。


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