優しい声が波のように引いていく。行かないでくれと首を振ると、ぬくもりが太一を包んだ。
安心して太一はふたたび眠りに落ちていく。吸い込まれるような深い眠りだったが、感じたことがないくらい安らかな心になっていた。
ベッドに腰掛けて、太一の手を握りしめ、ヤマトは太一の頬にかかる髪をかき上げてやった。
愛おしさだけが胸にあった。激しい嵐のような心ではなく、静かな凪の海のように落ち着いた穏やかな心でヤマトは太一の寝顔を見つめている。
この瞬間の太一を目に焼き付けておくとでも言うように、ヤマトは太一を見つめ、静かにほほえんだ。
あの事故のとき以来感じ続けた狂おしい絶望のような感情が嘘のようにかき消えていた。心に染みついていた別れの悲しみも憎しみも、心から消えている。
腕の中ですべてを吐き出すように涙をこぼした太一 ――その姿を見たとき、ヤマトは何も惜しくないと思った。
混乱の中だとはいえ、太一が自分を呼んだ、それだけで充分だった。未練が消えたとか、太一への想いが無くなったとかそんな訳ではない。
つらいところだけを濾しとって、太一への溢れる想いだけがただ心に残っているのだ。
ただ思った。この先、太一が誰と共にあろうとも、彼が幸福ならそれでいい。そして、彼の幸福のためならばすべてを賭けても後悔はしない。心底そう思った。
――愛している。
それだけだ。
太一が寝返りを打った。手が離れ、太一は身を丸くして眠りを楽しんでいる。
ヤマトは腫れていない頬にそっと触れると、音を立てないように立ち上がった。
この心のうちに教授に決心を伝えたかった。煩雑な手続きのこともあるし、父や母にまた話をしなければならない。
日本には十年ほど帰ってこられないと、言うと母は怒るだろうか。
今度は手紙を毎日のように書くことにしよう。
丈ともまめに連絡を取ろう。太一のことを尋ね、彼が元気かどうか聞くために。もうこれから先、太一の名で苦しむのではなく、愛しいと思うだけなのだ。
閉じきってエアコンを効かせた、自室からは想像もつかないほどの明るさが居間に満ちていた。
雨上がり後のあまりにも爽快な日差しが居間に入り込んでいたのだ。
受話器を取り上げるヤマトの横顔にもう迷いは見られなかった。未来への意志と太一への愛だけが、光の中のヤマトの顔に浮かんでいる。
「ううん――」
数度目の寝返りを打った後、もう眠りは引いていた。
太一はぼんやりと目を開け、見覚えのある懐かしい天井をしばらく眺めていた。
何回この天井を目覚めとともに見たのだろう。ヤマトの背中越しに見たこともあった。
「――え?」
太一は起きあがった。腹が疼くが、見まわした部屋に呆然とする。
見覚えのない荷物もあるが、間違いなくヤマトの家だ。
「そうだ、俺――」
昨日のことを思いだし、太一は頭を振った。ヤマトの家に電話した。そこまではなんとなく覚えている。
太一はベッドから立って、怪我に手当がしてあることに気づく。着ているのはまだ太陽と洗剤の香りが新しいパジャマだった。
「あ……」
太一は不安そうにドアの向こうを見つめた。
――きっと、外にいる。恐れの中に、微かな喜びに似たものが混じっていたかもしれない。
太一は息を呑んで、ドアノブをゆっくり回した。
せまい隙間からのぞく居間を見まわしてみる。
「……」
人の気配がない。聞こえる音は鳥の鳴き声ぐらいだった。
太一は思いきって、ドアを大きく開けて、居間へ出てみた。
快晴の空が窓から見える。けれど、ヤマトはいなかった。
玄関へ行こうとして、テーブルの上に置かれた紙と、用意された食事に気づく。鍵もあった。
久しぶりに目にするヤマトの文字で短い文が書いてある。
『太一へ。服は、ベッドの下においてある。朝飯、適当に作ったので、よかったら食べていってくれ。鍵は下のポストに入れておいてくれればいい。ヤマト 』
太一はテーブルの上を見た。伏せられた茶碗と塗り椀。箸置きに置かれた箸。ラップされた皿の中には卵焼きと、野菜のにつけ、ひじきなどがバランスよく盛られている。
海苔と梅干し、生卵もあった。コンロの上には味噌汁の入った鍋もある。炊飯器の保温スイッチがオレンジの光を見せていた。
太一はヤマトの手紙を握ったまま、ラップをはがし、卵焼きをつまんだ。
「甘い……」
少しだけ甘いはずの卵焼きがやけに塩辛い――どうして自分が泣いているのか太一には分からなかった。いや、分かりたくなかった。
朝御飯を食べ終わり食器を片づける。食器の並びはこの家に入り浸っていたころとほとんど変わらなかった。
ヤマトのパジャマを脱いで、自分の服に着替え直す。
何か手紙でも書こうかと思ったが、止めて、鍵を持つと太一はヤマトの家を出た。
鍵をポストに入れ、家に向かう。
なぜか予感があった。だからなのかもしれない。
エレベーターの前の階段で待つ光子郎を見たとき、太一は驚かなかった。
「光子郎……」
寝ていないことが一目で分かるほどに、目を真っ赤に腫らした光子郎は太一を見て、少し笑った。
「おはようご……もう、こんにちはですね」
光子郎はポケットを探ると、光子郎は細長い包みを取り出した。
「チケット取れました。十日の正午発、ニューヨーク行きです」
「あ……」
太一は微かな動揺を見せる。
「パスポートは大丈夫ですよね?」
「光子郎」
太一は何も言えず、光子郎を見つめた。光子郎は太一とは目を合わせず、空を見上げた。
「俺、昨日……」
「すごい雨でしたね。浸水した区もあるそうですよ」
「ヤマトの――」
太一の声がくぐもった。光子郎の唇が太一の唇を塞いだのだ。
「――言わないで下さい」
太一は首を振った。
「俺……」
光子郎は最後まで言わせなかった。再度太一に唇を重ね、深く口づけた。
太一の手が弱々しく光子郎の胸を押そうとしたが、すぐに手が下がった。
口づけを終えて、太一と光子郎は見つめあった。
先に目をそらしたのは光子郎だった。
「――帰ります」
太一は光子郎に手を伸ばしかけ、その手を下ろした。
光子郎は太一の横をすり抜け、家へ向かっていく。
太一は光子郎の姿が見えなくなっても、その場でじっと立っていた。
傷が痛んでも、汗が流れても、光子郎の痛みには追いつかない。悔やんでも、涙を流しても、ヤマトとのあの頃には戻れないように、だ。
太一は唇を噛みしめ、歩きだした。
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