STAND BY ME
16



「すごい雨ねえ」
 母がカーテンを開けて、つぶやいた。
 雑誌をめくっていた光子郎はさきほどから妙な胸騒ぎを感じてならなかった。
「浸水とかしないといいんだけど……」
 テレビが大雨に関する警報を流している。光子郎は立ち上がって、母の横で空を見上げる。
「夕方から止みませんね」
「夏の終わりに、すごい雨が降るなら分かるんだけど……」
 まだ八月に入ったばかりなのに、と母は不安そうに言った。
「お父さん、大丈夫かしら」
 どこかの線の線路が崩れて、電車が止まっていると一時間ほど前に聞いたのを光子郎は思い出した。
「さっき電話したときは、遅くなるけど大丈夫だって言ってましたから、待ってましょう」
「そうね……」
「いざとなったらどこかのホテルに泊まる手もありますし、大丈夫ですよ」
 光子郎は母を元気づけようと、力強く言った。
 息子の言葉に母がほほえむ。
「そうね」
 窓を閉めて、母がお茶でも飲みましょうとお湯を沸かし始める。
 そこに響いた甲高い電子音に光子郎が腰を浮かせた。
「僕が出ます」
 ひょっとしたら……光子郎は太一のことを思って、受話器を取り上げた。
「はい、泉です」
 ――しばしの沈黙の後、不安を露わにした声が届いた。
「光子郎さんですか?」
 太一ではない――安堵なのか不安なのか、そのときの気持ちを上手く言葉には表せない。
「はい、ヒカリちゃんですよね?」
「はい。……あの、お兄ちゃんそちらにお邪魔してませんか?」
 ――胸騒ぎの正体が分かった気がした。
「いいえ……太一さんがどうか?」
「昼過ぎに散歩に行くって出ていったきり、帰ってこないんです」
 ヒカリは、太一に何かあったのかもしれないと怯えたような声で告げた。
「バイト仲間の人もお兄ちゃんには会ってないって言ってるんです。変な雨だから、私、怖くて……」
 空に穴が空いたようなこの大雨は不安を確かに不安を呼んだ。
「わかりました。僕、探してみますから」
「え――」
 そのまま電話を切って、カップを二つ用意していた母を振り返る。
「お母さん、すみませんが、ちょっと出てきます。太一さんから電話があったり、こっちに来たときはいてもらって下さい」
「光子郎、どこ行くの!」
 母の言葉を聞かず、光子郎は傘を持つと雨の中に飛びだした。
「――太一さん!」
 彼の名を呼ぶ。
 雨が地面に叩きつける音の中、太一の返事が聞こえないかと、耳を澄ませながら光子郎は走った。

 ――電話が鳴った。思わず時計を見る。
 十時だった。別に非常識な時間ではないが、かけてくるような相手には心当たりがない。
 立ち上がって、部屋から出る。受話器を取り上げるとまず、雨の音が聞こえてきた。
「もしもし」
 返ってきたのは雨音だけ、いや小さく呼吸の音がする。
「もしもし、どちら様ですか」
 返事はない。微かな息づかいの音と雨音。
 悪戯電話だ。人の気も知らないで、世の中にはこんな陰険な悪戯をする者もいるのだ。外はものすごい雨だというのにご苦労なことである。
 悪態でもついて切ってやろうと、ヤマトは受話器を握る手に力を込めた。
 そのとき、声というにも小さすぎる音が聞こえた。
 確かにその音の響きは彼の名を呼んだ。
「……ヤマト」
 言おうとした言葉が消えていった。
 まさか、と思った。だが聞き間違えるわけがない。どんな小さな声でも、彼の声を聞き分ける自信はあった。
「太一……」
 ヤマトははっと外を見た。夕方から降り続ける雨は一向に止む気配はなく、強くなるだけだ。
 警報も出ている。父もテレビ局に泊まると言っているくらいに激しい雨だ。
「お前、いまどこにいるんだ!」 
 太一はすぐには返事しなかった。ほとんど脅しつけるようにして場所を聞く。震えるような声に胸が痛んだ。
「……分かった、動くなよ。そこにいろ!」
 受話器を叩きつける勢いで戻すとヤマトは鍵も閉めず、家を飛び出した。
 エレベーターを待つ間も惜しく、階段を二段飛ばしで駆け下りる。
 外に出た途端、ものすごい横殴りの雨にヤマトは襲われた。たちまちびしょぬれになりながら、ヤマトは走った。
 公衆電話を探す。街灯の下、電話ボックスが見えた。うずくまる影もそこにある。
「太一!」
 触れた肩がぞっとするほど冷たい。どれだけの時間、雨に打たれていたのだろう。
 そう思った瞬間、たまらなくなった。
 太一が顔を上げる。傷だらけの顔、頬が腫れている。服には泥と血がこびりついている。雨が涙に見えた。
 太一目の奥に揺れたのが怯えだったのか、悲しみだったのか分からなかった。
 衝動的に太一を抱きしめ、ヤマトはその冷たさに息が止まるくらいの愛おしさを覚えた。
「太一」
 ヤマトは高ぶる感情のせいか、かすれた声でささやいて、腕に力を込めた。
 ――雨の音は激しく、周りは暗かった。
 走り去る人影にも、気づかずヤマトは太一を抱きしめていた。

 玄関までやってきたときは、着衣のまま泳いだとでもいうくらいに二人は全身濡れそぼっていた。
 床に雫をこぼしながら、太一を風呂場まで連れていく。
「ここにタオル置いとくから。服は洗濯機に入れておいてくれ――」
 太一の顔を見ないようにして、風呂場を出た。これ以上側にいたら、こらえきれない。
 荒々しい衝動が突き上げてくる。全身を濡らす雨もこの熱までは冷やしてくれなかった。
 ヤマトが脱衣場で服を脱ぎかけたところで、突然風呂場からものすごい音が響いた
「――太一」
 いくらかのためらいの後、風呂場のドアを開ける。温かい蒸気が流れてきた。
 その中で降り注ぐシャワーの下、服も脱がず、太一は壊れた人形のように力無く座り込んでいた。
 シャンプーや石鹸を入れた容器や、洗面器がひっくり返っている。お湯の音がぱしゃぱしゃと虚ろに響く。
 太一はのろのろと顔を上げた。その唇が声も出さず彼を呼んだ。
「ヤマト」
 その頬に伝うのが涙なのかそれとも水滴なのか、分からない。
 だが、もうどうでもよかった。
 湯の熱気でむっとする浴室へ入ると、太一の体を壁に押しつけて、ヤマトは太一の青ざめた唇に自分の唇を押し当てた。
 唇は冷たく、雨の匂いが微かにした。自分の熱が伝わって、少しずつ太一の唇が熱くなっていく。
 太一が小さく震えた後、ヤマトの首に腕をからめてきた。やっと親の腕に帰ってきた迷い子のように頼りない力だった。
 舌を絡め合う深い口づけを交わした後、ヤマトは太一の濡れた服を破るようにして脱がせた。
 自分も服を脱ぐ。頭上から降ってくるお湯が冷え切った肌を温め、さらにお互いで暖めあう。
 今度は水でなくお湯を滴らせながら、二人はヤマトの部屋に入った。
 つけっぱなしの机の明かりを気にすることもなく、ベッドに崩れるようにして横たわる。
 ヤマトの口づけが唇から頬へ、耳元へ落ちて、首に落とされた。
「ヤマト」
 太一が泣くような声でささやいた。
「ヤマト」
 ヤマトの背に太一の腕が回る。二人分の重みでベッドがきしんだ。
「太一」
 太一の体に触れると、太一がうめいて仰け反った。明かりの下に露わになった腫れた頬や、切れた唇を見て、ヤマトの体の火照りが一瞬で冷えた。
 瞼や額が切れ、腹にはいくつもの打ち身や痣ができている。
 胸が詰まった。こんな傷だらけの太一を抱こうとした。激情に流され、そのまま欲望を太一に押しつけようとしたのだ。
 それよりも先にするべきことはあるというのに――。
 ヤマトは太一から離れようとした。救急箱が居間に置いてある。
 太一はすがるようにヤマトを離そうとはしない。
「手当をするだけだから」
 太一が首を振った。
「一人にするな……」
 かすれた声で叫んで、太一は泣き出した。手放しに、子どものように激しかったが、子どもにはできない悲哀と孤独を滲ませた泣き方で、太一は涙をこぼし続けた。
「太一」
 どれだけの間、彼は心でだけ泣いてきたのだろう。
 今ここに自分はいる。太一に手を伸ばせば、届く距離にヤマトはいる。
 それがたとえ一夜だけという限られた時間だと分かっていても構わなかった。
 ヤマトは太一の傷に障らないよう、だがしっかりと太一を抱きしめた。
「ここにいる」
 ヤマトは何度もささやいた。
 ここにいるから――もう怖がらなくても、悲しまなくてもいいから、側にいるから。
 太一の泣き声が小さくなって、嗚咽が低く、やがて寝息に変わってもヤマトはささやき続けた。子守歌のように誓いのように幾度も太一にささやきかけていた。


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