STAND BY ME
26



 あれほど探していた駅はすぐに見つかった。
 ちょうど来ていた電車の方向を確認してから、乗り込むと、過ぎていく街並みを眺めた。
 今、何時なのだろう。通り過ぎて行った飛行機に目を凝らした。あれに、彼が乗っているのかもしれない。
 そう思っても、不思議なことに怖くはなかった。行ってしまったのなら、それでもいい。そうなったら、なったで簡単な方法が一つある。
 会いに行けばいい。それは、こんな、腹に何かを溜めたままの今よりはきっとすっきりする方法だ。
 ひょっとしたら迷惑なことかもしれない。我が儘かもしれない。思うだけの、方法なのかもしれない。それでも悩んでいるよりも、動いた方がいいと思うのはどうしてなのだろう。
 電車を乗り換えようとして、足を止めた。空港までの距離を思いだし、駅の階段を降りる。
 暇だったのか、タクシーの運転手たちは皆運転席で眠たげな顔をしていた。
 一台目のタクシーのドアの前に立つ。カチリとドアが開き、太一は冷房のよく効いた車内へ滑り込むようにして入った。
「空港まで行ってくれ」
 太一が告げた空港名に運転手はうなずいた。
「すぐ着きますよ。今日は混んでないそうですから」
 冗談のようにも聞こえた。最初に乗ったタクシーから見た道路を思い出したが、太一は小さくうなずいた。
「急いでほしいんだ」
「はい」
 ドアが閉まり、タクシーが動き出す。心地よい震動に、こんなときだというのに眠くなった。眠らないように何度もまばたきして、空を見上げる。
 澄んでいた空には小さな雲が一つ、いつの間にか浮かんでいた。

 空港へ着くまで、ただの一度も苛立ちはしなかった。
 始めに空港へ向かったときはあんなに混んでいた道が、嘘のように空いており、車の流れはスムーズだったのだ。
 あっさりと太一を乗せたタクシーはターミナルビルの前に到着し、太一は財布を取り出す。
 料金を払って外へ出るとき、ラジオから最近聞いた曲が流れ出していた。あのときのヤマトの口調をまねて、つぶやいてみた。
「バラ色の人生――」
 ヤマトの横顔を思い出す。目を伏せる代わりに、太一は飛び去っていく飛行機を眺めた。
 バラ色の人生――そうなればいい。そう思えるようになれば、どれだけ幸せだろう。そうなるためには、立ち止まっていてはいけないはずだ。
  ターミナルビルは目の前だった。深く息を吸うと、太一は自動ドアをくぐった。
 国際線の出発ロビーには、それほど多くないとはいえ、人一人見つけだすのは難しいくらいに人が溢れている。
 埃だらけ、汗まみれの自分が場違いな気がし、微かな引け目を感じつつもヤマトを探した。
 目をあちこちに彷徨わせ、ときどき耳に入ってくる聞き慣れない異国の言葉に不安を感じながら、ヤマトを求めた。日本人の中ではヤマトは目立つ。けれど外国の人々の中ではどうだろう。
 ヤマトの姿を思い出す。癖のない髪、淡い色の瞳、ときに冷たくも見える容貌、三年前のヤマトの顔と、今現在のヤマトの顔が重なった。少し伸びていた、あの色素の薄い髪に、昔は何度もこの手で触れた。
 この先、もう触れることもないかもしれない。
 今も昔も変わらない、黒いとは言えないその瞳を、こちらに向けさせたくてわがままを言ったこともあった。
 この先、その目はこちらを向かず、ただ遠ざかって行くだけなのかもしれない。
 ――それでも、太一の目はヤマトを求めてやまなかった。
 繰り返されるアナウンスにフランスという単語を聞いた気がし、入り口近くのカウンターに走る。
 前置きも何もせずに、つかみかかるようにして聞いた。
 「フランス行きのは、もう出たんですか」
 一瞬だけ、カウンターの中の女性は不審そうに眉をひそめた。
「どちらの航空会社かおわかりになりますか」
「いや……」
 何も知らない。どんな時間に、どの便で発つのか。彼が誰と行くのかも、何も知らなかった。
 それでも、聞かずにはいられない。
「この時間帯だと思うんです」
 それが仕事だからなのか、それとも太一の表情に同情したのか、女性は目線を手元に落として調べてくれた。
「全便とも気流の影響で遅れが出ているはずですが……」
 全部の便が遅れている? では、まだここにいるはずだ。
 このロビーではなく、別の階にいる可能性もある。姿は見えなくても、まだ日本にいるのだ。
 すぐに身を翻そうとした太一の背に、女性の声がかかった。
「フランス行きの便ですよね?」
「え、ああ」
「パリ直行のですか?」
 太一は答えに詰まったが、女性はすぐに自分で答えをみつけたようだ。
「申し訳ありませんが、フランス行きの便はただいま全便――」
 太一の強張った表情に女性の顔も沈んだ。
 遠くなりかけた意識の片隅で、乗り遅れたと思われたのかなと太一は考えた。
 それとも、見送りにも間に合わなかった間抜けな男と見えたか――。
 フランス行きの便は、直行も経由していく便もすべて離陸したと聞かされた後、チェックインカウンターを見つめた。
 何かを振り払うようにして、首を振り、案内カウンターの女性に礼を言った。
 そのままここに立っていても、どうしようもないのでふらふらと歩き出す。体が急に重くなり、すべての力が抜けていきそうだ。
 行ってしまった。間に合わなかった。
 自動ドアから外へ出る前に、あまりにひどい脱力感を覚えて、太一はガラスに手をついた。
 ドアが開くたびに、外からの熱気が風を起こして、肌に汗を浮かせる。旅行客らしい年輩の女性が脇を通り過ぎて行き、しばらくすると太一は顔を上げた。
 人の出入りが激しい空港、出発ロビー。次々と人は行き、帰っていくここはとどまる場所ではない。ヤマトは行ってしまい、太一がここにいる理由もなかった。
 どうやってここから帰ろうか。財布はすっかり薄くなってしまった。タクシーはもう使えないから、駅まで行かなければならない。
 あの線に乗って、この駅で乗り換え、それから――ぐるぐると駅名が頭を廻った。
 そういえばヒカリたちはどうしたのだろうか。あれも一種の置いてけぼりなのかもしれないとふと思った。
 自分が置いてけぼりにされたとはなぜか思わなかった。あのヤマトの言葉のせいだろうか。
 あんな臭いセリフ、よく言えたものだ。しかも、真顔でだった。あいかわらず妙なことを言うやつ――笑いかけ、ひどい疲れにうなだれた。
 久しぶりに全速力で走った。明日は病院行きにちがいない。そして、また医師に怒られるだろう。足が疼く普段通りの日常が戻ってくる。
 けれど、たぶん今までとは少し違う日常になるだろう。
 夏は終わってしまった。行ってしまった。
 次から次へと、とりとめのないことを考え、明日からの日常を太一は思った。
 ――かつりと後ろで靴音がした。
 そのどこかで聞いたような足音、妙に甲高く聞こえるその音に、自販機の釣り口に忘れたままの小銭を思い出した。
 なに、せいぜい二百円そこそこの小銭だ。別に忘れたくらい構わない――。
「太一」
 振り返りかけたが、そのままガラスとその向こうの景色を見つめるだけだった。
「お前、どうして……」
 言いかけたヤマトの声が小さくなっていく。
 近づいてくる気配がして、嗅いだことのない香りが鼻先をくすぐった。どことなく懐かしい気もする優しいような、どこか苦さも含んだ香りだ。いつからこんな香りを身につけるようになったのだろう。
 肩に手を置かれる前に、自分から振り向いた。背を向けたままだと、何も言えなくなりそうだった。
「太一」
 ヤマトの目が何か言いたげにまたたかれる。
 その唇が開く前に、太一は口早に言った。
 手に力は入らず、ただだらりと体の横に下がったままだった。拳を握るどころではない。立っているのがやっとだった。
「お前、行ったんじゃないのか」
「教授の見送りに来ただけだ……」
 ヤマトは言い訳のように付け加えた。
「もともと教授だけ先に帰国する予定だったんだ」
「……へえ」
 太一はヤマトの横をすり抜けた。ドアをくぐり、外へ出る。
「太一」
 太一の後に続いて外へ出ながら、ヤマトはその背中を見つめた。
 太一がまた振り返った。
 暴れ回った子供みたいに頬が汚れている。それとも泣き疲れた子供の顔か。
 その表情によく似合う無造作な、じつにぶっきらぼうな声で太一は言った。
「お前、バカだよ」
 突然の太一の言葉にヤマトは目を見張った。そのヤマトの顔に太一は笑いもせず、続けた。
「フランスなんて、近いだろ」
 ヤマトと太一の視線が絡んだ。
 言葉の意味を探るわけでもなく、ただまっすぐに見つめ合った。
「……飛行機に乗ったら、すぐなんだろ」
 ヤマトはゆっくりまばたきをした。一瞬だけ、目が遠くを見つめる。
 それは光子郎の言葉の意味をつかめた瞬間だった。
 そうだ。その通りだ。フランスは近いのだ。飛行機に乗れば、フランスに着く。その通りだ。だから――飛行機に乗れば日本にも着くのだ。
 光子郎の言う通りだった。
(太一さんはそういう人です)
 光子郎の言葉を頭の中で繰り返した。
 そうだ、その通りだった。そういうやつだ、太一は。
 行きたいと思うのなら、彼は行く。アメリカでも、フランスでも――どこへだって。
 何年も一緒にいたというのにどうして気づかなかったのだろう。
 自分が今、笑いたいのか、それとも泣きたいのか分からなくなった。
「ヤマト?」
 こんなふうに太一に名前を呼ばれるのは、何年ぶりだったのか。
 そう言うことが当たり前のように、太一はヤマトの名を口にした。
 少しかすれた声だったが、間違いなく太一は自分を呼んだ。
「――そうだな」
 ヤマトは太一を見つめたまま、つぶやいた。
「近いな、フランスなんて」
 太一もヤマトを見つめた。
「そうだろ」
「そうだな」
 うなずきあい、また見つめあった。
 ――太一が小さく笑った。確信を込めてつぶやく。
「近いだろ」
 ヤマトは太一の微笑を見つめ、自分も少し笑った。
「ああ、近い」
 ヤマトの眼の中に太一の顔が、太一の眼の中にヤマトの顔が映っている。
 どちらの顔もぎこちなくはあったが、笑っていた。
 声も立てない、静かな小さな笑いだったが、確かに太一とヤマトはほほえみあっていた。
 二人の間を、夏の名残のような風が吹き過ぎる。
 それは、生ぬるさの中にも次の季節の気配を感じさせるようなどこか涼しい風だった。

「本当に大丈夫なの」
「大丈夫だって」
 玄関先にしゃがみ、靴紐をせっせと結ぶ息子に、母はまだ不安と心配が混じった声をかけた。
「全部、勝手に決めちゃって」
「俺のこと、いくつと思ってんだよ」
 右足の靴紐を結び終えた太一は左足にとりかかる。
「いいだろ、旅行くらい。それに自分の金で行くんだから」
「当たり前でしょう」
 ぺしりと太一の頭を後ろから軽く叩いて、母はため息をついた。
「風邪なんか引かないでよ。向こうって日本よりも寒いんじゃないの」
「知らねえよ」
 マフラーを巻き直して、太一は立ち上がりかけたが、思い出したように振り返った。
「ヒカリ、まだ怒ってるのかな?」
「知らないわよ」
 さきほどの素っ気ない返事の仕返しとばかりに、母は知らん顔を決め込んだ。
「ヒカリ!」
 太一はヒカリを呼んでみたが、返事もかえってこないし、顔も見せてくれない。なにしろ、ここ一週間はまともに口も聞いもらっていないのだ。
「……怒ってるなあ」
「バスの時間、大丈夫なの」
 もう一度靴を脱いで、部屋に上がっていきそうな太一に母は聞いた。
 太一は時計を見て、ため息をついた。
「行って来る」
「生水は飲まないようにしなさいね」
「俺がどこ行くと思ってるんだよ」
 太一は呆れたように言うと、ドアを開けた。冷たい風が入り込んでくる。
「じゃ、行って来るから」
「気をつけてね」
 冷気に少し肩をすくめると、母は手を振った。
「ああ」
 手を振り返すと太一は、冬という季節がらどうしても重くなったトランクを持ち上げた。
「重たいな……」
 ドアが閉まる前に、独り言のようなつぶやきが聞こえた。
 息子を見送ってしまうと、玄関の靴を並べ直し、母は後片づけのためにキッチンへ戻った。
 時差ボケで食欲がなくなる前に食べておくんだとは太一の言葉だが、それでも出発前に太一ときたら朝食とは思えないほどの量の食事を取っていたのだ。
 あの子、少し太ったんじゃないかしら。そんなことを考えながら、皿を洗い出したところで、ヒカリの部屋の扉が勢いよく開いた。
「お兄ちゃん!」
 大声で太一を呼びながら、ヒカリは呆気にとられた母の脇を通り過ぎ、外へ出ていった。
 手の泡を流して、母は開け放たれたままのドアを閉めに行った。
「仲がいいわね……」
 ヒカリのせいでばらばらになった靴をふたたび並べながら、母はつぶやき、そっとほほえんだ。

 エレベーターから下りて、外へ出たところで、太一はふと空にちらついた白いものに気づいた。
 予報では雪は降らないとのことだったが、冷え込みが厳しい。今しがた家を出たばかりだというのに、トランクを持った手はひどく冷たくなっていた。
 ――本当に行けるのだろうか。
「……」
 何かを確かめるように、空を見上げた。
 白い息に視界がさえぎられ、灰色の雲が濁って見える。小さな、雪とも言えないような氷の欠片が、コートに落ちてすぐに溶けた。
 そのまま歩き出そうとした太一の背に、ヒカリの声が届いた。
「お兄ちゃん、ちょっと待って!」
「ヒカリ」
 振り返り、太一は寒さに頬を真っ赤にして近づいてくるヒカリに驚いたような目を向けた。
「お前、寒くないのか」
 コートを着込み、マフラーをしっかり巻いていても、冷たい風は身に凍みいるようなのに、ヒカリときたら、暖房の効いた部屋から出てきたままの格好だ。
 太一の前に立つとヒカリはポケットを探る。
「いいから、これ」
 ヒカリは折り畳んだレポート用紙を太一に差し出した。
「なんだ、これ?」
「おみやげのリスト」
「なんだって?」
 広げた紙面には丁寧な字で、それは細かくさまざまな品物の名が書かれていた。ざっと眺め、太一は眉を寄せた。
「俺はこんなに買えないぞ」
「私にも内緒で、勝手に旅行するなんて決めたんだから、それくらいいいよね?」
 ヒカリは少々、冷たく言った。
「ちぇっ」
 太一はぶつぶつ言いながら、それでも内ポケットにそのリストとやらをしまい込んだ。
「ヒカリ、早く家に戻れよ」
 ひゅっと冷たい風が吹き付け、ヒカリが肩を震わせたので太一は妹をうながした。
「うん」
 うなずいて、身を翻そうとしたヒカリに太一は手を挙げた。
「じゃあな」
 その手首に小さな光が揺れた。
「お兄ちゃん」
 寒さにも構わず、ヒカリは太一を引き留めていた。
 太一の手首を見つめる。
 コートの袖からのぞく、その手には割に素っ気ないデザインの銀のブレスが光っていた。小さな時計がついている。
「時計……直したの?」
 太一はヒカリを見つめ、それからブレスについた時計の文字盤に目をやった。
 滑らかなガラス板、文字盤に映る太一の顔はひび割れてはいない。
 太一はヒカリに目を戻した。
「――ああ」
 太一が笑った。その笑みはヒカリが見慣れた笑み、幼い頃からいつも見てきた笑顔だった。
 ヒカリはもう一度ブレスを見つめ、笑った。
「気をつけてね」
「ああ」
「おみやげも忘れないでね」
「わかってるって。あんまり期待するなよ」
 太一は苦笑して、ヒカリに手を振った。ヒカリも手を振り返し、走り始める。
 途中で小さなくしゃみが聞こえたが、太一が振り返ったときにはヒカリの姿はもう見えなかった。
 はあっと白い息をふたたび吐きながら、太一はまた空を見上げた。
 気のせいか、雲は薄くなっているように見える。東の方は晴れてきたようだ。空を見上げたまま、太一はブレスに触れた。
 このブレスについている時計は小さなものだ。それでも確かに動いている。細い秒針は時を刻み、長針と短針を動かしている。この先、時計が止まっても怖くはなかった。
 どんな年の終わりを迎えても、どんな新しい年を迎えても怖くはなかった。
 なぜなら、太一の時間はもう動き出しているからだ。たとえ、この先立ち止まることはあっても、そのまま立ち止まり続けることはないだろう。
 歩き出しかけ、太一は誰にともなく小さな声でつぶやいた。
「待ってろよ」
 それから、コートのポケットに手を入れると、今度こそ太一は歩きだした。
 右足はもう、痛まなかった。


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